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第14話:1月12日 サヤカ(32)の場合

 彼女は私にとても似ていました。彼女はアゲハにとても似ていました。


「悪いが一服させてもらうよ。すまないね、サヤカさん」


「どうぞお構いなく。こちらこそお気を使わせてしまってすみません」


「いいや。あんたのお腹の子の為でもあり、あたしのニコチン接種の為でもあるんだから気にしないで寛いでいいよ」


 そう言うと、アゲハはタバコを咥えながら出ていきました。妊娠八か月、今日のお客様の身体を気遣っての事なのでしょうけれど、アゲハなりの『逃げ』でもあるのだと私は推測しています。


 それは、アゲハの恋人である私にしか分からない事かもしれません……。


「夏姫さん、紅茶入れましょうか?」


「大丈夫ですよ、蒼さん。私はコーヒーをいただいてますから」


「でも、夏姫さんは……」


 蒼さんはコーヒーの飲めない私に気を使ってくれているのでしょう。けれど私は今日のお客様の為に入れたコーヒーをいただいているのです。妊婦さんにカフェインは好ましくないもの、それを知らずにお出ししてしまったコーヒーを無駄にするには惜しかったんですもの。


 それにしても、コーヒーというのは苦いだけで、どこがおいしいんでしょうねぇ……。


「あの……なつきさん、でしたっけ? あなたも従業員さんなんですか?」


「いいえ。私は店主の……うふふ、それ以上はご想像にお任せしますよ」


「はぁ……」


 サヤカさんは不思議そうに首を傾げました。無理もありません。定食屋の仕事帰りとはいえ、カシミアのセーターとロングのフレアスカート姿で開店前に座っているんですもの。従業員、あるいは関係者なのだと思い尋ねてこられたのでしょうから。


 けれど『恋人です』と口外してしまって、もしアゲハの威厳に傷を付けるような事になってはいけませんから、私の口からお伝えする事は出来なかったんです。


 私がしぶい顔を(こら)えながらコーヒーカップをソーサーに置くと、サヤカさんは蒼さんのお出ししたオレンジジュースに口を付けました。よっぽど喉が渇いていたのでしょう、オレンジジュースはもう氷しか残っていないというのに。暖房が効き過ぎているのでしょうか。あるいは妊婦さんは暑がりだからでしょうか。


 妊娠した事のない私には、聞いた事のある話からでしか推測出来ないのですけど……。


「おかわり、入れましょうか」


 アゲハの不在では独断でお出し出来ない蒼さんがカウンターから声を掛けています。あら珍しい。私がちらりと目を合わせると、蒼さんは「え、ダメですかね」と言いそうな顔で動揺しました。違います違います。お出ししてあげてくださいという意味ですよ、と私が首を振ると、蒼さんはホッとした表情でサヤカさんのグラスを回収しました。


「気を遣わせてしまってすみません。ジュース代もお支払いしますんで」


「いいんですよ。ヒアリングはお気持ち次第、それがこの店の方針ですからね。……それより、あなたは先程から謝ってばかりですよ? お客様なんですから、もっとリラックスしてお話してくださいな」


「はぁ……ありがとうございます……」


 しびれを切らしたアゲハが一服したい気持ちになるのも分かる気がします。もちろんアゲハ自身の『逃げ』も気を使って席を外しているというのもありますが、サヤカさんは先程からずっとこのような感じでお話が前に進まないのです。


 気を使えば悟られてしまう。けれど使わなければリラックス出来るという問題でもなさそうですね、彼女の場合……。


 サヤカさんにはフィアンセがいるそうです。もっとも、婚約をしたのは二カ月程前という事で、認知をして欲しいと彼に頼み込んでようやく承諾を得たばかりという事らしいですけど。しぶしぶ婚約する辺り、男性とはなんて無責任な生き物なんでしょう。思わず口にしてしまいそうになります。


 それでも、愛があるから彼女は彼に添い遂げて欲しいのでしょう。男性を愛した事のない私には想像出来ない程の愛が……。


「なぜここに来たのか、聞かないんですか?」


「それはサヤカさんが話したいと思った時で結構ですよ。……というのもアゲハの方針ですけれど」


「そうでしたね。さっきアゲハさんにも言われたばかりなのに、同じ事を聞いてすみません」


「うふふ。またそうやって謝るぅ」


 私が笑顔を向けると、おかわりのオレンジジュースを一気に半分程吸い上げたサヤカさんも苦笑いを浮かべました。少しずつですが気持ちが解れてきたのでしょうか、心なしか表情が明るくなってきた気もします。


「あの……アゲハさんってちょっと顔が怖くて……。みなさんよく初対面でヒアリングしてもらえますね。わたし、ちょっと緊張してしまって……」


「うふふっ、そういう事でしたか。では、その話は聞かなかった事にしておきますね。アゲハはあれでも、自分の表情が硬い事に気付いてないんですよ? おかしいでしょう?」


「えっ、そうなんですか? 夏姫さんが従業員さんだったら、もっと他のお客さんも話しやすいんじゃないかと思いますけど……」


 あぁ、それでさっき尋ねてきたのですね。なるほどなるほど。


「彼とは町コンで知り合ったんです。ゴールデンウィークに。わたしから告白して、それから付き合い出しました」


「五月、ですか?」


 いけませんね、つい逆算してしまいます。妊娠八か月。五月に付き合い出して、でも知り合ったのも五月……。


 町コンに出席したお二人なのだから、異性交際を目的とした出会いだったのでしょうけれど、知り合ってからお付き合いするまでと、それに妊娠期間が……。


 まぁ、彼女も三十二歳。立派な大人なのですから……異性を愛せなかった私がとやかく言うところではないですね。


「婚約も妊娠もしてる女が、どうしてこの店に来たんだって思いますよね。……実はわたし、大学まで一緒だった幼なじみの女の子にフラれたばかりだったんです。ずっと好きだったのに、思い切って告白をしたら急にわたしの事を避けるようになってしまって……」


「それでヤケになって男性との出会いを?」


「笑ってもらって構いませんよ。幼稚園からずっと一緒で、気付いたら好きになってたから男性を好きになった事なかったんです。だから、男性を知りたくて町コンに参加してみたんです」


 アゲハの帰りが遅くてちょっぴり安心してしまう自分がいます。もしかすると蒼さんも少し同じ事を考えているかもしれません。


 そんな軽はずみな気持ちで自分に傷を付けたのか、と……アゲハならきっと口を挟んでしまうところだったでしょうから……。


「大学出ても別にやりたい事もなりたいものもなかったし、このまま家庭に入ってもいいかなーって思ってたんです。恋愛経験のないわたしは行かず後家になりかねないので、実家の両親に心配かけずに済みそうでしたし。この子を産んで、孫の顔を見せれば親孝行も出来るでしょうしね」


 どうなんでしょうか。それはサヤカさんの幸せではなく、ご両親の為に結婚と出産を選んだという捕え方をしてしまいますが……。


 アゲハならどう返すでしょうか。口出しせず、もう少しふむふむと聞き続けるでしょうか。それとも、問い質す為に一喝するでしょうか。


「サヤカさんは、婚約者さんの事を愛してらっしゃるのでしょう?」


「え?」


「あ、すみません。変な質問しちゃいましたね。どうぞお話を続けてくださいな」


「え、えぇ……。それで、彼が結婚を約束してくれて、婚約と妊娠の報告を、と思って例の幼なじみに連絡したんです。始めは電話に出てくれませんでした。未練がましく付き纏ってきたと思ったのかもしれません。で、そのあと、どうしても報告だけしたかったので、返事はいらないからとメールで内容を伝えたんです」


「サヤカさんは素敵なお友達だったのでしょうね。傷心しても尚、お友達として知っておいて欲しかったのでしょう?」


「違いますよ。わたしは、わたしをフッたあの子に、『もうあんたの事は好きじゃないから』って知って欲しかったんです。そしたら、もう一度友達としてわたしの側にいてくれるかもしれないと思ったから……」


 私は考えました。サヤカさんは本当に幼なじみさんの事を忘れられていたのかしら、と。本当にお友達として側にいて欲しかっただけなのかしら……。


 苦いコーヒーを一口すすってみます。やっぱり時間が経っても苦味は変わりませんね。蒼さんにお砂糖とミルクをいただけばよかったわ。頑張ってもう半分くらい飲んだのだから、今更いただけませんけれど。


 コーヒーも片思いも苦いもの。けれど、工夫次第では飲みやすく、生きやすくなるかもしれません。なーんて、きっと甘くしてもコーヒーは苦くて苦手な私が言えたものではないですけどね。


「メールの返信はいらないと書いたのに、そのあとすぐ電話がかかってきたんです。『その男と結婚して、本当に幸せになれると思ってんの?』って。……わたし、その場で泣いちゃいました。もう絶交されたと思ってたから……」


「お友達さんもまた、サヤカさんが大切なお友達だったんでしょうね。そうでなかったら、絶交した旧友が不幸になろうが関係ないと思うでしょうし」


「やっぱり……そう思っていいんですよね……? わたし、やっぱり彼女に側にいて欲しいなぁって改めて思ったんです。かといってお腹の子に罪はない。わたしが産んで彼と育てていかなくちゃ、この子を幸せに出来るのはわたしたちだけですから」


 どうしてでしょうか。どうしてサヤカさんは切なそうにしているのでしょうか。


 ご両親の為、お子さんの為、ご自分の為、いったい誰の為に誰が幸せになれば正解なのでしょうか……。


「夏姫さん」


 カウンターの中から蒼さんが呼びました。私が振り返ると「アゲハさんの様子見てきます」と囁いて出ていきました。手にはちゃっかりシガレットケースを持っています。正直に自分も吸いたいとおっしゃってくださればいいのに。


 蒼さんが出ていった扉は、申し訳なさそうな音をさせながら閉まりました。今日はみなさん謝ってばかり。なんだか私まで申し訳ない気分になってしまいます。


「失礼ですが、彼氏さんはおいくつですか?」


「えっと……お恥ずかしながら十こ下なので二十二です。高校中退してトビやってるんですけど、お金の事に関して以外は真面目でしっかりしてるんですよ」


「……お若いのにしっかりされてるんですね。そんな真面目な彼氏さんを、幼なじみさんも気に入ってくださるといいのですけれど……」


「えぇ。わたしが幸せになれば、きっと彼女も彼を認めてくれるでしょうし。一度会って欲しいって言ったんですけど……お互いに嫌だと言って会ってくれようとしないんです。まぁ、先は長いですし、徐々に理解してくれればいいかな、って……」


 なんて奥ゆかしいのでしょう。私が幼なじみさんの立場ならとっくにサヤカさんを受け止めてあげているところでしょうけれど、幼なじみさんを忘れようとしているサヤカさんの事を思えば彼と別れさせるのはお利口ではないのでしょうね……。


 気が付けばサヤカさんのオレンジジュースはなくなっていました。私がコーヒーを飲むスピードの何倍でしょうか。そんな事はどうでもいいのですけどね。


 サヤカさんはきっととても真面目な方なのでしょう。人目を気にし、人の幸せを優先し、その先に自分の幸せがあると信じているのですから。


 いいえ、信じたいだけ、なのかもしれませんが……。


「そろそろ帰ります」


「え? アゲハはもう戻ると思いますよ? もう少しお話されていったら……」


「いいんです。夏姫さんが充分聞いてくれましたから……。これ、お代です。アゲハさんに渡しておいてもらえますか?」


 バッグから出された封筒はとてもかわいらしいデザインでした。まるでお目当てでない人からラブレターをもらうような気分になりました。切ないといいますか、申し訳ないといいますか……。


 私がぺこりと頭を下げてちょうだいすると、サヤカさんは満足そうに微笑んで帰り支度を始めました。お腹がとても重たそうで、それでも我が子を身ごもる幸せがそこに詰まっているのだと思うと……なんでしょう、この複雑な気分は……。


「お忘れ物はないですか?」


「はい。また来ま……間違えました、もうここにはお世話にならないと誓いますね」


「どうしてですか? いつでも話にいらしてくださって構いませんのに」


「ありがとうございます。でも、わたしは彼と幸せにならなきゃいけないんですもん。彼女に認めてもらう為にも。そして、彼女を過去の恋にする為にも。だから、わたしは今日限りビアンを卒業するんです。夏姫さん、今日は本当にありがとうございました。最後にあなたのような素敵な女性とお話出来て本当によかった」


 私の手を握ったサヤカさんの手はとても暖かく感じました。これが母になる女性の暖かさなのでしょうか。女性しか愛せない私には到底縁のない体温。女性を愛している限り、味わえない温もり……。


「夏姫」


 考えているとサヤカさんと入れ違いで戻ってきた恋人が声をかけてきました。難しそうな顔をしてソファーの前のテーブルに置かれたオレンジジュースを睨みつけています。ほぼ同時に戻ってきた蒼さんがそれをそそくさと回収していきます。


 本当に、この二人は分かりやすいのだから……。


「お題を預かったわ。私、そろそろお(いとま)するわね」


「ありがとな、夏姫。……お前にゃ頭が上がらんよ」


「ふふふ、思ってないくせにぃ」


 私がからかうように言うと、アゲハはやれやれと苦笑いを浮かべて片手を上げました。私もそれに応えてひらひらと手を振ります。グラスを片付ける蒼さんも、私が扉を閉める間際にぺこりと会釈をしてくれました。


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