第11話:12月8日 ヒロエ(36)の場合
うちの店では開店前の一時間をヒアリングに使っている。もちろん予約が入ればだが。
予約は毎日入る訳ではない。立て続けに三日と入る日もあれば、一か月間丸々入らない時もある。
まぁ、人口に対してどれくらいの同性愛者がいるのかは統計を取るのは難しいし、そのうち隠れ同性愛者が何人いるのかも計り知れない。更にその中からこの店を知っている奴なんて極僅かなのだから、ヒアリングの入らない期間が長くてもおかしくはないのだ。
最後のヒアリングから二週間が経った。ヒアリングは決していい話ばかりではない。悲恋や愚痴の話題が主だし、時には延々とのろけ話を聞かされる事だってある。
好き好んで聞いてやってる訳だが、精神的にノンストレスでやってける程あたしも神ではないので、この二週間は少しの休息だったりもする。
それはそれでお互いに幸せなのだ。世間のレズビアンたちがあたしたちの手を借りる事なく過ごしているという事なのだから。
「……何見てるんですか、アゲハさん。寝癖なら言われてすぐに直しましたけど……まだおかしいですか?」
「いんや。顔の傷、だいぶよくなったなぁと思ってただけさ。お前目当ての客にいちいち説明すんのめんどくさかったからな。夏姫のアロエが効いたんだから感謝しろよ?」
「……はぁ。でもあれ、アロエ酒作る時はいい香りだなって思うんですけど、作ってもらった奴を顔に塗ると青臭くて……」
「贅沢者め。夏姫がかわいがって育ててたアロエをもぎって作ってやったんだ、ぶつぶつ言ってんじゃねぇよ」
「アゲハさん、夏姫さんの事になると人が変わったようにムキになるんだからなぁ……」
後ろを向いたついでにぼそっと呟く蒼の頭を軽く小突くと、「いてっ」と言いながらむくれた顔でこちらを見る。痛い訳がなかろうに、生意気な事を言うわりにリアクションが大げさだっつーの。
「アロエで思い出しましたけど、週末にヒアリングの予約が入りましたよ。新規の方じゃないですけど」
「新規じゃない? 誰だ? アロエ好きって誰かいたか……?」
「いえ、アロエ好きって訳じゃなくて……ヒロエさんです」
「ダジャレか? 年より臭い事言うようになったな。ヒロエか……どうせまた自慢話大会だろ。はいはいって聞いてりゃいいだけだから楽だが、話が長いから営業時間までに切り上げてもらわんとだな」
「ダジャレじゃないですよ。連想です、連想。もう……」
顔の傷もだが、心の傷の方もだいぶ落ち着いてきたようで、あたしのツッコミにも反応を返すようになってきた。お互い腫れ物に触るようにギクシャクしていたこの頃だったが、幸いな事にヒアリング客がいなかったので余計な雑念を追加されずに済んだのが回復を早くした要因の一つだったのだろう。
こうして悪態ついたりつかれたりする事も、お互いの信頼を確かめ合うコミュニケーションツールの一つだと、あたしは思っている。
「そういえば前から気になってたんですけど、ヒロエさんて営業時間で他のお客さんがいる時でもヒアリングの時に話してるような事話したりするじゃないですか。わざわざヒアリング代払ったり予約したりしなくても、話せる内容なら営業中に話にくればいいのになぁと思ってたんですよ。どこがNGなのか、いまいちポイントがつかめなくて……」
「蒼だけに青いな、お前は。ヒロエの自慢話には、ちゃんと奴なりのボーダーラインがあるんだよ。自慢話と一口に言ったが、ヒロエの自慢話には三パターンあるんだ」
「三パターン、ですか? 二パターンじゃなくてですか?」
「聞こえによっちゃぁ二パターンにしか聞こえなくもないが……まぁそうだな、大まかに分けると幸せ自慢と不幸自慢、だ。どちらにせよふーんとしか返しようがないが、自分を知って欲しくてしゃべりたいんだろ。自己愛の塊みたいな奴だからな、ヒロエは」
「自己愛、ですか……」
蒼はうっとおしそうに眉を顰めながらダスターを手に取り、テーブルとカウンターを丁寧に拭き出した。自分に否定的で自尊心のない蒼にとっては、自己愛の強い奴は理解しがたいのだろう。自分大好き人間も面倒臭いが、こいつのような自己否定型もまた面倒だとあたしは思う。
本当は自己肯定も自己否定も同じ『自己愛』なのだが……。
「こーんばんはっ! やってる?」
勢いよく扉が開いたかと思うと、甘ったるい声の持ち主がひょっこり顔を出した。うちの店は看板こそ出していないものの、常連の奴らは営業時間くらいは把握している。なのにこの声の主は……。
「やってねぇよ。六時からって知ってるくせにわざと聞いてんじゃねぇっつーの、ヒロエ」
「あちゃー、バレてた? まぁいいじゃんいいじゃん、後十五分くらいケチケチしないのー!」
「……うちのトロ臭い従業員が優秀過ぎてな、あいにくまだ掃除が終わってないんだよ。なぁ、蒼」
あたしが目配せすると蒼は一瞬むくれたような顔をしたが、合点がいったらしくこくこくと頷いた。
そんなあたしらにはお構いなしにヒロエはずかずかとソファー席までやってきて、ミニスカートを翻しながらどっかりと腰を下ろした。ずうずうしい奴め、と呆れ返りながらも客は客、おしぼりを持ってくるよう蒼に伝え、温まり切っていないそれを受け取ったヒロエは満足そうに「ありがとう!」と笑った。
「時間も早いが、ヒアリングの予約にも早すぎるじゃないか。話したい事でも増えたか?」
「んっとねぇ、それはそれ、これはこれで別件だから気にしないで? 今日はお出掛けの帰りなのよ。でもつまんなくて貰う物だけ貰って帰ってきちゃったから時間が余っちゃって……そんで早く顔出したって訳」
「つまんなかったって……また例のおっさんか? 結婚もするつもりないなら、いつまでも恋人ごっこしてないでほんとの事言ってやったらどうなんだよ。いくらそのおっさんが部長だかなんだかで金持ってるからって、いつまでも貢がせるだけじゃかわいそうに思うが。四十半ばでバツなしの男なら、これがラストチャンスかもと意気込んでるだろうしさ、生殺しにするのもいい加減に……」
「だいじょぶだいじょぶ、部長はアタシといるだけで幸せなんだから、デートしてあげるだけでも満足してくれるの。……でね、今日は一人占めしたらもったいないから一緒に食べようと思って持ってきたんだから! はい、これ! 今日の戦利品は高級チョコレートでぇす!」
ヒロエは片手にぶら下げていた小さな紙袋をゆらゆらさせながら掲げた。そこにはバレンタインの季節になるとデパート等でもお目見えする、舶来物の高級チョコレート会社のロゴが仰々しく印字されている。
戦利品……その物言い自体がヒロエにとって無意味なプレゼントだと表わしている。物欲はない訳ではないが、このヒロエという女にとってはプレゼントは愛されてるステータスにしかならないのだ。
貰っても貰っても、満たされる事はないというのに……。
掲げたそれをあたしが受け取ると、ヒロエは「空けて、開けて」と目を輝かせていた。見た目や味が気になっている訳ではない。こいつは貢ぎ物がいかにお高い物なのかを知りたいだけだ。
「なーんだ、六つ入りかぁ。チョコ好きなのーって前に言っといたのにそれってなくない?」
「お高いチョコなんぞせいぜいこのくらいしか入っとらんだろ。それよりお前、甘い物嫌いじゃなかったか? またそうやって騙すような事を……」
「嫌いじゃないよー? あんま食べないし自分で買おうとまでは思わないってだけ。だからあげる」
「……ったく」
ため息と同時に蒼に突き出すと、蒼もまたため息をつきながら受け取った。なんだこのため息リレーは。
ヒロエは今日も違う香水をつけている。それがカウンターとソファーの距離でも分かった。甘ったるい口調に甘ったるい匂い、吐き気がしそうだ。女を演じている女、それがこいつにはしっくりくる照合。
「ところでヒロエ、お前仕事どうしたよ? 先月来た時に言ってた携帯販売のコンパニオンだかなんだか」
「あー、やったやった。でも一週間で辞めたわぁ。思ったより制服かわいくなかったし、仕事自体も地味ぃだし。なんかいいバイトないかなぁ。アゲハちゃん顔広いんだから口利かせてよ」
「やなこった。お前みたいなワガママに紹介出来る口はねぇよ。あたしの信頼まで失うっつーの。相変わらず長続きしねぇえ奴だな、なんだその意味不明な理由は。あたしが上司だったら蹴っ飛ばされてるぞ」
「こっわーい」
両手を合わせて右肩に添える、いつもの『怯えてますポーズ』なのだが、顔はちっとも怖がってなんぞいない。むしろにやにや笑ってやがる。
こんな分かりやすいぶりっこを見抜けないバカ男がいるとは、今時のおっさんは相当餓えてるのだろうか。
いや、男って生き物はいつの時代も……。
「んー、今日はブランデーのグレナデンソーダ割りもらおうかなー。……あれ? 蒼さん、その傷どしたの? イケメンが台無しじゃない」
「……いえ、元からこんなもんですよ」
「アタシだったら顔なんかに傷作れないけどなぁ。ってゆーか、もし傷作っちゃったらショックで出歩けないもん。死んじゃう死んじゃう」
ぷるぷると頭を振りながら呟いているヒロエを無視し、蒼は製氷機からロックグラスに氷を注いだ。自分に害になる事からなるべく逃げる、卑怯な手段かもしれないが、自分を守る術としてはかなり防御力は高い。孤独と、世間と戦ってきた蒼は自然とそれが身についている。
皮肉なスキルだよ、まったく。
「いーなー、アゲハちゃんも蒼さんもすっぴんでいられてぇ。アタシなんて寝坊してもメイクは手ぇ抜かないよ? こないだも座れたから電車ん中でメイクしたし」
「迷惑な奴だな。たまに頭のネジと下の口が緩そうな奴がそれやってるが、まさか知り合いにもそんなアホがいたとは恥ずかしくてたまらん。急ブレーキで鼻に口紅入りゃいいのにって思うよ。化粧しないと外に出れないと言っておきながら電車の中ではするって、じゃあその顔は誰に見せるもんなんだって疑問だし。どうせお前だって化粧してもしなくても変わらんだろうさ」
「ひどー。大丈夫、アタシかわいいから。メイクは嗜みなのっ。すっぴんでも充分かわいいけどメイクは大人の嗜みっ。それにファンデはパウダータイプじゃないから周りには迷惑かけてないもーん」
飛散するとかしないとかの問題ではない、そう言おうとしたところで気が失せた。自分自身をかわいいと断言するのは勝手だが、化粧するしないよりも社会人として間違っている事があるというのに……。
自己肯定的、それも過剰な誇大型はたちが悪い……。
「あー、アゲハちゃん、今何気にアタシの事もガバガバ女の一員として括らなかった? やめてよねー、アタシは男なんかと出来ない潔癖だって言ってるでしょー」
「同じ意味だろ。例えだよ例え。男とだろーが女とだろーがやりマンはヤリマンだ」
「あのねー、性欲は動物的生理現象なんだからしょうがないでしょー? だけど男とは嫌なのよ、絶対。それにレズ風俗だってちゃんとお金払って通ってるんだから別にいいじゃない。女同士はいいよー? って……あ、そっか、アゲハちゃんも蒼さんも彼女いるんだもんねー。単品のアタシとは違っていつでも出来るんだもんねー」
不躾な発言が胸糞悪くする。新しいタバコを取りに行くふりしてカウンターに逃げようと思ったが、蒼の奴も同じ事を考えてたらしく、「はー、もぅ……」とぶつぶつ言いながら眉を顰めてカウンターの中へ消えていった。
聞いてるぶんには勝手に話してくれという感じだが、恋人同士の『愛し方』について突っ込まれるのをあたしらは嫌っている。
しかし、この他人を否定する発言も、ヒロエなりの『自己愛』の表れなのだ。人とは違う、自分は特別、と思い込む事で唯一無二の自分を愛でられる。
不器用なあたしらからしてみれば羨ましい考え方ではあるが、踏み台にされる対象のこちとらは全く気分のいいものではない。
「はいはい、あたしが悪かったよ。そんなに僻むならお前も恋人作れば……って無茶な話か。飽きっぽくて自分大好きなお前を、お前以上に愛してくれる奴なんぞおらんしな」
「ふふん、まーねー」
……嫌味のつもりだったんだが……。
「ブランデー、お待たせしました。……灰皿は下げちゃっていいですか?」
「ありがとー。うん、もうタバコやめたから下げちゃっていいよ。こないだフリーで入ってくれた子に『タバコ似合いますね、かっこいい女って感じ』って言われてさぁ……アタシのどこがかっこいいってゆーの? って感じじゃない? こんなかわいいヒロエちゃん捕まえてさー」
「……まぁ、タバコ吸ってる姿見て『かわいいですね』と言う人はほぼゼロだと思いますけど……」
「吸ってても吸わなくてもかわいい人はかわいいと思うのよ。だけど『かっこいい』って何? 『かっこいい』って。失礼だと思わない?」
「……そうですね」
これっぽっちも同意してない言い方だが……まぁ仕方ない。逆にかわいいと言われたくない奴に同意を求めてるヒロエが悪いのだから。
ヒロエは出されたブランデーを「うん、おいしい」と言いながらぐびぐびと飲んでいる。こいつはここでしか酒を飲まない。それはかなりの酒豪だからだ。酔えない女はかわいくないとか思っての行為なのだろう。
商売をやってる身としてはどんどん飲んでくれて構わないのだが、作ってる身としてはもう少し味わって飲んで欲しいという矛盾もある。ここにあたしの商売の不向きを感じるのだが。
結局、ヒロエは潔癖症だから男に触れられたくないというより、大好きな自分を汚されたくないだけなのだろう。捨てられる、別れがくるのが怖いのももちろんあるのだろうが、それはつまり自分を否定されるという事を恐れているからだ。
大げさな言葉で代弁するならば『愛したら負け』、他人を愛してしまったら、愛されなくなった事で自我を保てなくなる事を恐れているのかもしれない。
あたしもまた、人の事を偉そうに言える程無敵ではない。人を愛してしまうと大切なものを守りたいがゆえに自分自身の防御力が下がる事を身を持って知ってしまったからだ。
誰かの為に強くなれるが、弱く脆いものになるのもまたしかり。
ヒロエを見ていて思う、自分が傷つかない為には何を守ればいいのか、と。自分自身なのか、あるいは愛した人なのか……。
そして疑問に思う。傷つきたくないから誰も愛せない自分が本当にかわいいのか、と。
だがそれもそれぞれの愛の形なのかもしれない。幸せというのは色んな形があるのだから。
自分しか愛せないヒロエ……。お前がそれで幸せならば、きっと『自己愛』がお前を守ってくれるだろうよ……。