第10話:11月24日 言えない訳〈後編〉
この二年間ずっと蒼の面倒を見てきたあたしだったが、少しずつこいつの性格や言動を理解していたのは『つもり』だけだったのかもしれない。すぐ感情を表情に出すわりには訳の分からん偏屈な考え方をする蒼を、あたしなりに分析して良き理解者になっていたつもりだったのだ。
それが何だ? 今のこいつの表情からは、全くと言っていい程何も分からない。今分かっている事は一つだけ、あたしと出会った当時よりもずっとずっと強くなったという事だけ。
言いたい事も感情も抑えようとする短所はなかなか改善されないが、この話が真実だとしたら大きな進歩だろう。自分が我慢する事で丸く収められるなら、と訳の分からん考え方をしていたこいつからは勇気のいった言動だったろうから……。
「結局のところ、世話になってた段階でお前が彼女さんと付き合ってる事は黒崎は知らなかったのか?」
「彼女と待ち合わせをしていた時に、ばったり黒崎さんに出くわした事があったんです。話途中に彼女が来て……ぼくたちはその時に知ったんです。黒崎さんが彼女の叔父だって事も、ぼくの後見人だって事も。でも黒崎さんはぼくたちが待ち合わせをしていたぼくたちに『友達?』って聞いてきたので、前にも後にも友達以外だとは思ってないはずです。ぼくの戸籍を知ってる黒崎さんが、まさか自分の姪が女と付き合ってるなんて思ってもみなかったでしょうしね」
「つまり、今も知らないんだな? いや、それは違うか……それがお前の言うところの『言ってやった』事なんだとしたら、殴り合いになった原因は彼女さんとの事をバラしたからか……」
「んー……まぁ……そりゃ親戚が同性愛者だって事すら衝撃だったでしょうしね……」
蒼の表情が急に曇り出した。どうやら話の根元は更に奥らしい。あまり追及してもいけないとは思う反面、こいつの話を聞いてやれるのはあたししかいない、とも思う。どちらが正解なのか分からんが、答えなくてもいいから質問だけしてみようと切り出した。
「手を出したのはお前の方だったと言ったな。今の話じゃお前のキレるポイントが見当たらんのだが……『あの事』ってのがキーワードなのか?」
「……はい。『あの事』を知った以上は黒崎さんと同じところに住まわす訳にはいかないし、かといって留学から帰ってきた彼女には、黒崎さんの待つ家しか帰るところがないんで……だから、ぼくは彼女と二人でカナダで暮らすと宣言したんです。でも、そしたら……」
蒼は少し躊躇いながらも、ゆっくりと『あの事』と括っている過去の話をし出した。
蒼の彼女さんは母方の祖母に引き取られて、両親や弟とは別々に暮らしていたらしい。というのも、中学一年の時に実の弟と近親相姦の禁忌を犯してしまい、両親によってバラバラに引き裂かれたのだという。
その引き取られた祖母の家に住んでいた母の弟、つまり黒崎は当時中学生だった姪の身体を弄ぶ変態だった。だが、両親に追い出されている身分の彼女さんは誰にも助けを求められず、どこへも行く宛てもなく、ただ黒崎の性的虐待にひたすら耐えていたという。
蒼がその事実を知ったのは高校二年の秋、黒崎が彼女の叔父だと知るほんの数か月前。三年間も付き合ってきた彼女の秘密に途惑わない訳がなかったが、カナダでの留学が終われば黒崎の家から出れる、そしたら向こうで結婚しよう……という約束をしたらしい。
「だから、もうあなたに彼女は触れさせない、って言ってやったんです。もちろん、ぼくが恋人だって事も。そしたら……何て言ったと思います?」
「関係図と頭がこんがらがってて思いつかんよ」
「ですよね。ぼくも今アゲハさんに話したのが初めてなので、上手く説明出来てるか分かりませんもん」
「で、黒崎はなんて?」
さっきと同じ顔をした。悔しがっているような、それでいて……。蒼はふっと一つ鼻で笑い、いつになくトーンの高い声で話し続けた。
「『あいつは俺の人形だから、君にはあげられないな』ですって! 笑えません? 笑っちゃいますよね! ぼくの彼女を、人の身体を何だと思ってるのかっておかしくなっちゃって……あぁ、おかしくなったのはぼくの頭ですけど、その言葉聞いた瞬間に殴りかかってたんですよね」
「クソ男だな。これだから顔のいい男は信用ならんよ……」
「仮にも、施設育ちのぼくに援助してくれてた恩人なんでね、その言葉さえ聞かなかったら殺してやろうとまでは思わなかったですよ。実際殺そうとはしてないし、カッとなって一発繰り出しただけですけど。その後はぼくも頭に血が上ってたのであんまり覚えてませんが、一発お返しもらった弾みで植え込みに倒れたところを派手に蹴られたりしてて、周りの人が止めてくれたみたいです。駅前だったんでね、ぼくも黒崎さんも即派出所行きでした」
「はぁー……」
呆れと怒りで深いため息が出た。ほんとにため息をつきたいのは蒼の方だろうが、当の本人は今にも発狂しそうに口元をにやつかせながらタバコを咥えようとしている。冗談で頭がおかしくなったのかと聞いたが、ほんとにおかしくなってしまいそうで少し怖くなった。
持ち合わせていないのか、「借りていいですか?」とあたしのライターに手を伸ばされたので、いつもの癖で思わず着火した。ついでにあたしも一腹。話を切り出されてから喉がからからになっていた事を思い出し、手元にあった気の抜けたレモンビールをぐびぐびと飲み干した。
「こんなに遅くなったのは警察で取り調べを受けてて、帰してもらえなかったんです。最初はもめてた原因を聞かれてただけだったんですけど、向こうが黙秘したあげく『俺は悪くない』って暴れ出しちゃったらしくて……まぁ悪いと思ってなかったら黙秘なんてしないと思うんですけどね」
「ありがちだな」
「後ろめたいから何も言えなかったんじゃないんですか? 姪にいたずらしてて、それを同性の恋人に取られそうでブチ切れた、なんて……。仮にも昔は業界にいた人ですし、今も専務だかなんだかをやってるご身分だからバラされると困る事だらけなんですよ。向こうが暴れ出すしぼくを殴った原因さえ言わなかったんで、ぼくまで別室で調書受けさせられて……」
「言ってやりゃぁ良かったじゃねぇか、奴の変態っぷりをさ。……そうすると彼女さんが傷つくとでも?」
「言うんですか? 言うんなら彼女とぼくの関係も言わなきゃいけなくなったんですよ? それでもアゲハさんなら言えますか?」
何も言い返せなかった。きっとあたしが蒼の立場でも言えなかっただろう。その場で白い眼を向けられるだけなら、あたしは構わない。あたしの人生をどう思われても構わない。だが、夏姫との関係を否定されるのも、夏姫の事を否定されるのも許せない。だからきっと、あたしも堂々と言えなかっただろう、「同性愛者です」と……。
「傷の手当は警察で?」
「はい。ぼくもずっと黙ってたんで、一方的に暴力振るわれて口がきけないんじゃないかとでも思われてたのかもしれません。初めに身分証提示させられたんで保険証見せたんですけど……書いてあるじゃないですか、性別が。警察の人も最初じろじろ見てましたけど、見た目はどうあれ戸籍上女なぼくをぼこぼこにしてたら、男に暴力振るってるのとはまた罪の重さも違いますからね。『怖かった?』って優しく手当てしてくれましたよ。……皮肉なもんですね、こんな時だけぼくの性別が有利になるなんて……」
「お前にとっては皮肉な事だろうがな、生き抜いていく為には使えるもんは何でも使うしかない。女も捨てるつもりもない、男になるつもりもないお前には過酷な言い方かもしれん。だけどな、蒼……」
「はい……」
「お前が『同性愛者』と口にしている限り、お前は女だ、という事を忘れるな。お前がいくら女でも男でもないと言い張ったとしても、女を愛しているお前が同性愛者と名乗る以上は……まぁ、そういう事だ。生きにくい社会だからこそ、自分を守る手段は多い方がいい。……分かるか?」
「……おっしゃる通り、ですね……」
妙に素直な返事に少し拍子抜けした。物言わんくせに変なところで頭が堅いこいつの事だから、てっきり頑固な答えが返ってくると思っていたのに……。膿を出して少し大人になった、という訳か……。
ウーンと伸びをしている姿を眺めながらそんな事を考えていた。……が、言ってるそばから傷口に自分の腕をぶつけて「いてっ」とかほざいてるし……このヘタレめ、あたしのしみじみを返せっつーの……。
疲れたろ? あたしの聞きたい事はもうない。後はお前が話したい事だけ話せばいいさ。話がないなら帰ってゆっくり寝な。明日は出なくてもいい。……そんな傷でカウンター立たれてても誰特でもないしな」
「んー……明日は確か、ぼく目当てのお客さんが来てくれるって言ってたような……ほら、最近よく来てくれる大学生の……」
「あぁ、あの子なら今日来たぞ? 蒼は風邪で休みだと言ったら、カクテル一杯で帰りやがった。頼むぞバーテンさん、客の来店予定くらい覚えといてくれよな。それと、お前目当ての客相手に売上げ伸ばしてもらわんと困る。ここが瞑れたら、お前もあたしもくいっぱぐれちまうんだ。それに……」
「生きにくい人たちの為の居場所、ですしね」
そう言って蒼ははにかみ笑いを浮かべた。蒼の笑顔を見るのがやたら久しぶりに感じる。さっきの不敵な笑みとは違う、いつもの蒼の笑顔だった。身も心も傷だらけなのには変わりないが、少なくとも心の方はさっきまでの傷よりかは幾分マシになっただろう。
「しゃーねぇな。風邪で熱出して朦朧としてたらスッころんで怪我したって事にしといてやるから、明日は遅刻しないで来いよ?」
「そんな事言って……ぼくが来なかったら雑用出来ないから、ちゃんと来て欲しいんじゃないんですか?」
「……バーカ。生意気な口叩く余裕があるんなら、酒屋の注文票とゴミ袋のストックを出しとけ。どこに置いてあるんだか見当たらん」
「……やっぱり?」
仕方ない、あたしらはここでしか羽根を広げられないのだから。窮屈な社会で生きていく為には、多くの我慢をしなくてはならないのだから。羽根を隠していなければ、区別も差別もされてしまうのだから。
それでも、いつか堂々と羽根を広げて生きられる日が来ると信じて、あたしらは今日も土の中でもがく。やがて蛹になり、蝶のように羽ばたける日まで……。