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みづはのめ

作者: Wallace F. Coyote

 感謝祭を数日後に控えた午後、りり子はいつも通り子供を小学校まで迎えに行った。普段より30分ほど早く着いた。木の机に腰掛けたお腹の大きな警察官がいつもどおり「こんにちは」と話しかけた。彼の机にあるノートに子供と保護者の名前を書くと、子供達を迎えにきた父兄でいつもはごったがえしているカフェテリアは、まだ早いせいかどことなくがらんとしていて都会の石庭のようだった。普段は気にならないうす緑色の蛍光灯に照らされた塩化ビニル樹脂の床が妙にまぶしく目に残った。りり子はもてあました時間を前に、話す相手はいないかと知り合いを探すがまばらな人影にその姿はなかった。手持ちぶさたのまま子供用に低く作られたテーブルに彼女は腰を下ろした。テーブルの表面には給食に出されたらしいフライドチキンの衣の破片と、オレンジやバナナの皮に貼られているサンキストの小さなステッカーがあった。その破片や紙片にぼんやり見とれていると、どこからともなく父の声が聞こえたように思えた。


 「答えはない」父がそう独りごちたのは、(何歳の時か具体的な歳は忘れてしまったが)、りり子が子供の頃だった。その言葉は彼女に告げられたのではなかった。今では売却され賃貸アパートに建て替えられた日本の実家。彼女の記憶の中でその実家の庭はささやかにその姿を残していた。それは時と共に精彩を失いぼんやりとセピア色に風化した。今ではイメージというよりも、時より思いがけず蘇る感情の断片という方がふさわしかった。それでも時折その断片をほぐして精査していくと、そこには小さな温もり、風景の匂い、一部だけくっきりと聞こえる音、それらが新たな解釈を待ち焦がれるように浮かび上がってきた。父の短い言葉と庭の断片を精査する事は、りり子にとって素敵な行為だったし、日々繰り返される家事と育児から解放される一時の清涼剤だった。


 その庭には人の背丈ほどの五葉松が2本、いや3本あり、いつしか先端が台風で飛ばされ傾いた(本来の威厳までも喪失したかのような)五重の石塔があった。それらを囲むように植えられたピンク色のツツジとミヤマキリシマ、ひょろ長くやせっぽちな糸杉、そして苔にまみれた平たい大きな石で作られた灯籠があった。それが今でもりり子が思い出す実家の庭、その風景の主立った面々だった。


 りり子の父はその庭を前につぶやいた。庭で草むしりをする母親は、その父の言葉を不思議な表情で聞いた。いつも繰り返し思い出される風景だった。


 りり子の母親が中学生の時に他界すると、父が亡くなる昨年までほとんど二人は会話らしい会話を交わすことはなかった。りり子は外国で結婚し、里帰りするのは一年に一度だった。時折電話越しに話をすることはあっても、父は相づちほどの言葉以外口にすることはなかった。


 問題の多い父ではあったが、捉え所のない妙な生命力を持った父でもあった。今の言葉に置き換えるとオーラとか、バイタリティーとかの言葉に近いのかもしれない。しかしながらそういった言葉が持つ洗練された雰囲気は父には全くなかった。それらはどちらかと言うと「野趣」と「野蛮」の間をうろつく熱のようなものだった。突然両肩に降り注ぐ圧迫感、耳管が詰まってしまったようなくぐもり、枝振りの悪い何かしらの光、野に属した類の匂い、それらが混濁し感光したような瞬間がそこには備わっていた。それがどういったものだったのか、ひとつらの言葉にも成らず、輪郭を備えた感情にもならず、りり子は理解に苦しんだ。掴むことさえままならなかった。父が内側に抱えていたその熱は当時だけのものだったのだと、父と母が亡くなり自分の肉体が当時の両親の歳を越えた辺りから思えるようになった。それは生命に備わった熱のようなものであり、しかしながらりり子の肉体には希薄な熱でもあった。父の体に巣くうが、本人にはどうにもならない熱だったのかもしれない。


 ある朝りり子は目が覚めて、二階にあったはずの仏壇が一階の居間にあることに気づいた。その仏壇は曾祖父の代からある大きな仏壇で天井まで届く背丈があった。りり子はこの仏壇が一晩のうちに家の狭い階段を通って今の場所にたどりついた事が不思議で仕方なかった。そのような気配も騒々しさも全く感じられない普通の夜だったからだ。朝食の時に母親からそっと知らされた。母も気づかなかったそうである。深夜父が急に思い立ち一人で動かしたらしい事。そして何事もなかったように朝早く仕事に出かけていった事。


 父の事業が以前のように思うようにいかず、それに対する今行われるべき答がこれなのかと、りり子はその時我が父ながら少し落胆したのを覚えていた。しかし答は初めからなかったのだ。今ではりり子もそう思えるようになった。立ちゆかなくなった事業も、母の最後の日々の辛さも、りり子にとっては今では少し波風がたったぐらいの感情しか残っていないのである。時折思い出される実家の庭、父の言葉、そして突然の一夜の行動。それらの時と場所をりり子は通り抜け、今居る遠い土地にゆっくりとそしてふわりと意識が降り立つのを感じた。目の前には先ほどと同じ場所にサンキストのステッカーと、フライドチキンの衣があった。カフェテリアの匂いが徐々にりり子の鼻腔を満たし、あの庭の断片が遠のいた後でもりり子は体内に未だその熱が姿を残したまま揺らいでいることに気づいた。そしてそれは消え入る気配を示すこともなく、りり子の内側で更に熱を帯びようとしていた。いつになくゆるぎない気持ちが彼女を包み始めていた。


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