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四つ葉


車の中で男は上機嫌で、慈鴉じあを見て言う。


「良い事を考えているんだ。私のお願いを聞いてくれたら、慈鴉くんに戸籍を作ってあげよう。その方が色々と便利だからね? とりあえず、逃げたりしないで、一緒に来てもらいたいな。車の中じゃ、何だか落ち着いて話せないから………」


逃げる気の失せた慈鴉を乗せた車は、都心部を抜けて橋を渡った。


ここ数年で慣れ親しんだ、街の灯が遠ざかって、ただの光点の集合体に見えた。


うるさくて汚くて、鬼も人間も己の事にのみ心を砕いているのに、窓から見える夜景は、星空のように、悲しいほどに美しい。


「……何処へ行くんだ?」


「私の家だよ。そしてこれからは、慈鴉くんの家にもなる……お願いがあるって言ったけど、実は私と一緒に暮らして欲しいんだ。ああ、変な意味じゃなく、純粋に同居人だから、安心していいよ。私は慈鴉くんが気に入ったんだ。話していて、とても嬉しいし楽しい……勿論、経済的な協力はさせてもらうから、君はお金や家の心配はせずに、好きに生きられる。私は君の存在自体に癒される。悪くはない話だろう?取り引きだと思ってくれていいよ」


楽しそうに話す男を見る慈鴉の顔は、どんどん険しさを増して行く。

突き放すように、男を睨め付ける。


「俺はアンタの名前すら知らないのに、か? 笑わせてくれる。降ろしてくれ」


「ああ。ごめん、失礼したね。私は杉原昌徳すぎはらまさのりだ。慈鴉くん、名字はないんだよね……?」


昌徳まさのりと名乗った男は、酷く楽しそうだ。


慈鴉はこれまでの生活で、こんな状況に陥った事が無い訳ではなかった。

人間の中にも狂気があり、鬼を喰べると《不老長寿》になると信じているやからに連れ去られそうになったり、鬼と暮らす事を、奇妙な己のステイタスのように感じる、理解し難い人種が存在する。


だが、この杉原昌徳と名乗る男は、そういう手合いと、あまりにも気配が違っていて、慈鴉を逆に追いつめる。


———この男と一緒にいてはいけない———


本能がそう告げる。


不思議な事に命の危機は感じなくなっていた。


だが、地獄の業火に身を焼かれる様な、嫌な痛みが胸を締めつけてくる。


慈鴉は無言で窓の外へ目を向けた。


昌徳は何も言わず外を見る慈鴉を乗せて、車を走らせる。

強い意志を持って、慈鴉を何処かへ連れて行こうとしている。

慈鴉が昌徳に目をやると、欲しい物を強請る子供のような瞳と、一瞬目が合って、思わず眉間にシワが寄る。


「……嫌なら、無理にとは言えないけれど、一緒に暮らしたいんだ。慈鴉くんに不自由はさせないし、好きな事を好きにさせてあげられると思う。欲しい物も出来る限り買ってあげるし。美味しい物を食べて、楽し時間を一緒に過ごそう?……慈鴉くんに、人間の暮らしを教えてあげるよ……あんな場所で、孤独で居るよりずっと楽しいはずだよ?」


「……俺と暮らした人間は、死んだ。もう居ない。貴方あなたも、俺と居ると死ぬぞ?……俺は死神に呪われた鬼だからな……生まれた時から、全てが、おかしかったんだ……俺は、名さえ持たない、存在してはならない鬼のれのてだ……」


「……ごめん。そんな人が居たんだね……辛い事を思い出させてしまったね。悪気があった訳じゃないんだ。でも……慈鴉くんも、私と同じ痛みを抱えていたんだね……それで、君が気になったのかな……私なんかでは、とてもその人の代わりにはなれないだろうけれど、傍にいる事は出来るし、話して、お互いの温もりは感じられるだろう……? それは、私にとっては、とても救いになるけれど……慈鴉くんは、どうかな……」


わずかに差し込んだ希望にすがるように、そう言った昌徳に与えられたのは思い沈黙と、凍えた月の様に人間を拒む、慈鴉の横顔だけだった。



車は緑の濃い住宅街へ入って行く。

町並みは美しく、どの屋敷も広く美しい、それぞれに趣向を凝らした庭が拡がっている。道路の舗装は恐ろしく滑らかで、車は地面に吸い付いているかのように全く乱れない。


街路樹が整然と植えられた歩道を、大型の犬と散歩している青年を見つけて、慈鴉の心臓がドクンと脈打つ。


「窓、開けても良いか」


「構わないよ。どうぞ好きにして」


開いた窓から少々肌寒い夜風と、虫の声が車内に入り込んでくる。

慈鴉は迷わず窓から身を乗り出す。


銀の髪が街灯の光に当たると、後輪を放つ天使のようにさえ見え、散歩中だった青年の視線が慈鴉を捕らえ、犬も車の窓から身を乗り出して自分を見ている藍色の瞳を見た。

微笑んで手を振った慈鴉の目に、飼い主の青年の笑顔と手を振り返してくれる姿が映った。

互いに交わされた、犬が好きだと言うだけのただそれだけの出来事———。


一瞬の逢瀬を終え、慈鴉は窓を閉め、犬も飼い主の青年も歩き出した。


「……犬が好きなの?」


「いや……昔、一緒に住んでいた犬に、とてもよく似ていただけだ」


「そう……明日、二人でペットショップへ行こう。同じような犬を飼おう」


「いらない。同じ犬なんていない」


「大丈夫だよ。その場に居なくても、頼めばブリーダーを探して、見つけてくれる。可愛い仔犬を飼おうね」


瞬間、慈鴉は慈悲深くつつましい、可憐な花のように微笑んで目を伏せる。


そうしている彼の姿は、儚い少女のようにも見えた。



「長生きは出来そうにないから、遠慮しておくよ。飼い主の居なくなった犬は不幸だ。たとえ新しい飼い主が見つかって、可愛がってもらえたとしてもな……知っているか?誰かを不幸にすると、自分も不幸になるんだそうだ……」


「誰が、慈鴉くんにそんな酷い事を言ったの?」


微笑んだまま慈鴉は窓の外へ視線を送った。

藍色の瞳が夜の底を映すようにユラユラ揺れて、昌徳を悲しくさせた。




有機的な装飾を施された門をくぐり、車は良く手入れされたイングリッシュガーデンの中を通る、白い道を進む。

道は皓々と月に照らされて浮かび上がり、そこから続く白い壁と綺麗な青い月のような屋根を乗せた、童話の世界に出てきそうな造りの洋館は、慈鴉には、まるでヘキセンハウス《魔女の家》の様に見えた。


———中に入れば、魔女に喰われてしまう———。


しかし昌徳は当然のように車を正面につけ、慈鴉を正面の扉の中へ入れると、鍵を掛けてしまった。


どうやら金持ちらしいが、使用人は今は誰も居ないらしい。

だが、数人の気配がする家だった。


間接照明の点いた廊下を進み、馬鹿げて大きい窓のある、広いリビングへ連れてこられる。


月に照らされた白い東屋に可愛らしく続くレンガの道……薔薇のアーチや四季の花の咲き乱れる庭は、幻想的ですらあるが、この目の前の男の趣味とは、とても思えない。


リビング自体は大きなゆったりとした、座り心地の良さそうなソファーセットといい、全てシンプルだが嫌味な所はなく、だが明らかに高級そうな、この男が好みそうな家具が並んでいて、すっきりとした印象だったが……庭やこの《魔女の家》の様子や気配と、あまりにもこの場所はかけ離れていて、慈鴉は眉を顰める。


誰も、過去にはめないと言うのに、この家には昌徳がしあわせだった匂いが、べっとりとこびりついて、みついている。



———あるじを失い、彷徨う空間———



「慈鴉くん?……どうかした? 遠慮無く座って。飲み物は何が良いかな。ジュースも、コーヒーなんかも、ワインや他のお酒もあるけれど……いつも、あまりお酒飲んでないから、コーヒーが良いかな? 紅茶は茶葉が———」


「何でも良いよ。貴方の飲みたい物で」


遮るように答えると、昌徳は何も言わずにキッチンへ姿を消した。


慈鴉は座らず、誘われるように飾り棚の方へ足を向ける。


何かを考えるように、一点を見詰めていたが、おもむろに手を伸ばして、美しい銀の瀟洒な装飾のフォトフレームを手に取った。


今とは別人のように笑う昌徳と、銀髪に大きな藍色の瞳の、可愛らしい女性が映っている。


慈鴉と同じなのはその色彩だけで、顔立ちに似た所は全く無い。


簡単な食べ物とワインをローテーブルに並べた昌徳が、慈鴉の傍へやって来る。


「妻の志織しおりだ。君に似てるだろう?」


「色だけはな。人間を喰ベなくなった鬼は、元がどんな色彩を持っていても、こうなる」


「……人間だって、脱色して色を入れれば、こんな色になるよ。ちょっと前に流行しただろう?」


「もう死んでるのに、何をそれ程、たかが人喰い鬼ごときに執着している?」


昌徳は目を逸らし、呟くように言った。


「愛してるからだよ。それに、彼女は人間だ。人を喰べたりなんてしなかった。鬼なんかじゃない………私は、一人の人間として、彼女を愛していた……」


〘一人の人間として?……つまり、人間でなければ、愛する価値も無い存在だとでも言うのか。この男は……〙


「それが愛か。真実本当に、この世界にそんなモノがあるのか……?」


「あるよ。志織は、私と結婚して、たった二年半で死んでしまったけれど。いまでも私は、いつも彼女の事を想っている。志織が望むなら、なんだってしてあげたかった……まだ、してあげたかった事がたくさんあったのに、私は彼女に置いて逝かれてしまった……本当に、心から、孤独を感じて……苦しいんだ」


「それで、死にかけの俺を代わりにすると?」


「違う。そんな事はしないよ。慈鴉くんは慈鴉くんだ。代わりに思ってる訳じゃない。本当に、私の心が慈鴉くんに、何かしてあげたいと思ってるんだよ。志織とは全然別物だよ」


くっ、と慈鴉の口端が上がり、昌徳の顔に戸惑いが浮かぶ。


何もかもを見透かすような、切れ長の形の美しい目。藍色の瞳を嵌め込まれたその目の色が月光を映して、鋭い感情を秘めたラピスラズリのように輝く。


昌徳は世慣れた微笑みでその視線をかわし、ソファーに腰を下ろした。


「慈鴉くん。ソファーに来て座らないか?ワインも、おいしいチーズと、それにサラダを作って見たんだ。このサラダはね、志織も大好きで、いつも喜んでくれたんだよ」


フォトスタンドを元の場所に戻して、慈鴉は昌徳の言葉に従ってソファーに腰を下ろし、溜め息を吐く。


「……俺には、愛なんて感情が、備わっていないのだろうな。貴方の言っている意味が、解らない」


「そんな事は無いだろう? 慈鴉くんは、一緒に暮らした人の事、愛していたんだよ。そうでなければ、こんな姿になるまで我慢出来るわけが無い……そうだろう?」


「愛なんて無かった。俺はただ誰かに必要とされたかった。だから自分に出来る事は、何だってやったけれど、それは唯優しくしてもらいたいだけの、欲だ。与える愛なんかじゃない。何かして欲しいから、していただけの虚しい存在だ。俺に愛なんて無い。そんな物を持ち合わせていたなら、殺さずに済んだのにっ!永遠に失うぐらいなら、俺なんかが傍にいるべきじゃなかったんだ!」


 堪えかねたように吐き出された慈鴉の言葉に、昌徳の眉間に皺が寄る。


 慈鴉を、この幼い鬼の少年を抱きしめて、大丈夫だと言ってやりたい。


人間だって、神様なんかじゃない。愛されたいから、何かしたいと思うのは、当然なんだと。

誰だって、好きな人間に対しては強欲になる。

だからこそ、お互いを与えあえるのだと。

本当にまるで何も知らない赤子あかごのように、慈鴉が人間の温もりに飢えているのは、昌徳にも痛い程に感じられるのに、手を差し伸べても、きっとこの子は取らないだろう。


それが解る事が寂しい……だから、少しずつと思って、近寄ったのに……近付けば近付くほど、この子は、逃れようとする……これほどに寂しそうに、人を、人間の世界を求めているのに、この子はどうして、誰の手も取ろうとしないのだろうか………? 何か、事情があって、取らないのではなく誰の手も、取れないのだろうか?


それとも、選んだ、殺してしまったと言う人間が大切すぎて、他の誰の手も取れないのか……“殺してしまった”と確かに彼は言った。


彼に、何があったんだろう……。


「……私では、慈鴉くんの答えを見つけてあげられないかもしれない。でも、慈鴉くんが好きで、一緒に居たいって言う気持ちに、嘘は無いよ。それだけじゃ、駄目かな?……一緒には、居てもらえない?」


無表情とさえとれる慈鴉の目から涙が溢れ、頬から顎に小さな流れを作った。


昌徳の黒い瞳は、祥悟しょうごとは違う。祥悟の瞳は安い琥珀みたいな、品の悪い意地悪そうな飴色で、全然違うのに。こんなに、優しそうじゃないのに……どうしてこれほど、この人を見ていると、哀しくなるのだろう。


泣き声どころか、息さえ乱さずに涙を流す慈鴉の姿に、心配になって顔を覗き込んだ昌徳の黒い目に、鮮烈な藍が映った。


———唇が触れていた———


反射的に鬼の少年の身体を突き放して、思わず手の甲で唇を拭ってしまう。


「っ!……悪いけど、私は男とそういう事が出来る人種じゃないんだ。慈鴉くんがどんな恋人を作るのかは、その……自由だと、ある程度、理解はするつもりで居るけど……私は、困る……」


本当に困り切った昌徳に、慈鴉はなんとも言えない、奇妙な微笑みを浮かべて、涙を袖で拭った。


祥悟しょうごも……俺の大切な人間も、そうだった。本気で嫌がって、俺の事、拳で殴ってくるんだ。愛してるなんて言って、嘘ばっかりだ。それって、差別じゃないか。男の体は駄目だなんて。俺の事、本当はペットぐらいの、愛してるって、程度の感覚だったんだよな」


「いや。慈鴉くん。それはきっと違うよ!それとこれとは別というか……生理的嫌悪感は、どうしようもないだろう?……頼むよ。困らせないでくれ……」


「……分かった……」



悲愴ひそうなほどの昌徳の表情は、慈鴉の返事で明らかにほっとした物に変化したが、次の瞬間、その目は極限まで瞠られ口もやや開いたまま、固まってしまう。


鬼の少年は昌徳の目の前で、蛹が蝶に羽化するよに、美しく姿を変えたのだ……。


それは一瞬の出来事だったのかもしれないが、昌徳の脳にはしなやかに変化する姿態が、はっきりと刻まれてしまった。


輝く銀の髪に菫よりも深い藍色の瞳の、哀しげな……月に住む様な美少女は、少し呼吸を整えながら、目を伏せた。


「何を驚く。鬼に性別は無い。どちらにもなれるんだよ。ただ、生まれる時は性があり、繁殖する場合は、そちらになる。ただそれだけの意味しかない。姿を自在に変えて人間を誘って喰らう者も居るが、俺は性別は変えられても姿は変えられない。〝志織さん〟とやらに似せてやれなくて悪いな。まぁ、どのみちどの性別になろうとも、人間との間に子供なんか出来はしないんだがな」


「それは違う! 志織と私の間には……志織のお腹には、私の子供が居たんだ。志織と一緒に死んでしまったけれどね……志織は、私が殺してしまったようなものだ。子供なんて、望まなければ……志織さえ、居てくれれば良かったのに……」


「別れの苦難。宿るはずの無い命。己の腹の子に喰われたか……まるで、焔の中へ身を踊らせる、蛾のようだな……」


そう言った細い腕が伸びてくると、恐ろしいほどに優しく、慈悲深く慰めるように、形の良い手が頬に触れ、唇が重ねられる。


嫌悪感など、まるでなかった。


ひたすらに優しく、微かに甘い、爽やかな花のような香りがした。


世界の音がどんどん遠くなって、こんな子供に翻弄されて、昌徳はおかしくなって微笑んでしまったが、そっと慈鴉の身体に腕を廻すと、驚愕するほど細く、頼りない少女だったが、柔らかな胸の感触が服の布越しにも、伝わってくる。


慈鴉は唇を離すと、少し逃れようとするように、身を反らしたが、そうされると、白い項と少女らしい鎖骨から肩の線に目がいく。


こうしてよく見ると、慈鴉が言うように、色彩以外はまるで志織に似ていないのに……どうして、連れて来てしまったんだろう?



慈鴉は、目を伏せて、昌徳の目を見ようとしない。



「祥悟が言っていた。人間は忘れる事が出来る生き物だと。そうしないと、生きていられない、狂ってしまう生き物なのだそうだ……この色になった鬼は、もう長くは無い。祥悟は、俺が死んだら速攻で忘れて、かわいい彼女を作って、結婚して、倖せになると言っていた。貴方も、もういいだろう?……俺が、同じ色の、間抜けで哀れな鬼が、その心を……全部喰べてやる。貴方には悪いが、この姿は危険だから、急ぐ。死に神が来ないうちに、俺の側から離れた方が良いから、手っ取り早く、抱いてくれると助かる。嫌でなければだが」


「死に神だって? 何の事だい……?」


慈鴉の細い指が、手慣れた様子で昌徳のネクタイに指をかけ、外してしまうと、シャツのボタンも外して行く。


「俺は、祥悟に逢えるまで、鬼も人間も、沢山殺して喰べてきた。今、その報いを受けている。祥悟もヤツに喰われた……守り切れなかった……ヤツは、この姿で居ると、嗅ぎつけてくる。俺は、この姿で、罪と共に産まれ、罪を重ねたから……」


涙さえもう出ない。そんな哀しげな微笑みを浮かべ、懺悔するよに囁き、昌徳の胸元に唇を寄せた少女の、銀の髪に手を伸ばす。


予想よりもずっと柔らかく、志織よりもしっとりとして、いつまでも嗅いでいたいほどなのに、目が眩みそうな甘い匂いがする……不思議なだと思った。本当に……。


それでも、もしも、喰べられても構わないと思って、わざわざ使用人に暇を出して、家まで連れてきたのだけれど……。


優しく、確かめ、気遣うような愛撫をしてくる慈鴉を、昌徳は心のままに強く抱きしめた。


「寝室へ行かないか?……こんな夜は、天窓から月がとても綺麗に見える。志織も大好きだったんだ……うん。慈鴉くん……慈鴉ちゃん…? なんか、困るね。でも、嫌じゃないよ。志織の事を忘れてしまうのは、少し怖いけれど……君になら、喰べられても構わないと思っていたから、慈鴉の、好きにしていいよ……」


そっと頬を寄せると、少女に変化した華奢な鬼は、その腕を昌徳の身体に廻して優しく抱き返しくる。


そうされているだけで、哀しく辛い、志織の事でいっぱいだった心が、軽くなっていくようだった。





慈鴉は、激流のように体を満たしてくるいとおしい哀しみを、月を見上げながら、受け止め、喰べていた……。


恐ろしいほどに広がっている、夜のしじまの中で、月光に当たって輝く銀の髪の柔らかで優しい感触と、少女の肌や体温だけが妙にリアルで、他の現実が妙にボンヤリと感じられて、昌徳は少女の身体に、唇に、何度も口づけをした。


この腕の中に感じる少女の姿すら、夢か幻の様に感じられて、確かめるように深く口づけを交わすと、少女は戸惑うような吐息と共に、懸命に押しころすようにしながらも、微かに声を漏らす。


あんなところに立っていて、こういう事に慣れているのかとばかり思っていたが、慈鴉は、驚くほどに身体を重ねる事に慣れていなかった。


少年姿では、違うのかもしれないが……。


貪るようにしていた口づけを止めた昌徳を、そっと藍色の瞳が捕らえた。


「……っ、貴方は……死んだら、鬼も人間ひとも、同じ所へ……逝けると、おもうか……?」


「そうだね……私は、そうだと良いと思うよ」


「だが、死ねば……少なくとも……この世界から、は、救われるのだな……っ、んっ、地獄は……この世、だ……」



———本当に……祥悟が教えてくれた通りだった———



天窓からは、本当に月が綺麗に見えて、寝室に灯は要らないほどで、たまに目を開けて見た昌徳は、とても倖せそうだったが、慈鴉は自分が泣いているのを見られていたら、嫌だと思ったが、強く抱きしめられる事が多かったので、大丈夫だろうとも考えた。



行為の間、慈鴉は耐えかねた様な時に、昌徳でさえ驚くような甘い声を発して、そうすると慈鴉の香りが、なお一層強く感じられて、少女の身体に、肌に、吸い寄せられるように口づけたが、余程こらえかねた時以外は、常に声をころしていて、昌徳はもう少し安心して甘えてもらいたかったし、心を開いて欲しくて少し寂しくもなったが……。


それでも優しく昌徳の体を包み込むように、細い長い腕で抱きしめてくれるのが、ひどく心地よかったし、常にひっそりと目を閉じていて、たまにしか美しいその瞳を見せくれなかった慈鴉だが、月光に照らされた姿は繊細な美神の造形物のような美しさだったし、変な話だがあれ程に愛していた志織よりも美しく感じた上、志織に対するものとは全く違う、奇妙な愛おしさが込み上げてくる。


それに何より、慈鴉を抱く行為は、酷く昌徳の心を穏やかにしてくれて、随分久し振りに、生きている気がしたし、世界が色を鮮やかに映して、昌徳に〝世界と生〟を肌に直接、刻むように感じさせてくれて、生きていてよかったと思えた。


華奢な少女のその爽やかで微かに甘い香りに酔い、ぬくもりに縋るように、細く長い形の良い桜色の爪のついた、しっとりとした指と指を絡めるようにして、手を繋いで、慈鴉の名を呼ぶと、ふっと藍色の瞳が姿を見せ、昌徳を喜ばせた。







———早く、立ち去らなければ———



焦りつつ慈鴉はそう思うのだが、身体は重いし、この身体になると、しばらく元に戻れないのだ。


おまけにどうしてだか、昌徳が離してくれない。


「離してくれ。もう帰る。〝志織さん〟とやらの事は、気持ちの整理がついただろう? 本当に、俺といると危ないんだ」


睨むようにして昌徳を見るが、微かに微笑んで腕の中から慈鴉を解放しようとは、全くしてくれない。


苛々してきた慈鴉が、人間の男相手なら、弱っている自分でも力づくで、なんとか昌徳の腕の中から逃れられるだろうと考え、そうしようとした時だった————。












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