二つ葉
眩しい程の街灯の下で、夏の花が狂ったような、愛おしい紅色の花弁を、惜しげも無く晒していた。
この公園には鮮やか過ぎる色だと感じられた。
三番街の外れにあるこの公園は、夜になると雄の溜まり場になる。
人間の肉を喰べない慈鴉は、此処へ現れては、人間の欲望や心を僅かに奪い取り、喰べていた。
それが現在、慈鴉の存在をこの忌まわしい世界に繋ぎ留めている手段なのだが、心や欲望を喰べる為には、人間とある程度の接触を余儀なくされるので、手っ取り早く性行為にまで持ち込み、相手が自分を求める心と欲望を喰べていたが、金をくれると言う輩からは、遠慮無く貰っている。
祥悟のマンションは、確かに祥悟の持ち物で、いつの間にどうやったのか、稟の名義にもなっていて……祥悟があんな死に方をした所為で、放心状態だった稟の元へ、祥悟の従兄弟だという人間が来た。
祥悟と同じ様な臭いの人間で、死亡届けやら生命保険まで、祥悟は全部俺に遺してくれ、それを彼に頼んでいたらしい。
———与えられてばかりで、いつか返せると、勝手に思っていたけれど、あの終わり方は、酷い———
あんなのって無い。俺は、愚かで……結局自分のことばかり考えていて、祥悟一人さえ救えなかった。
そんな俺が、醜悪な鬼が惨めったらしく、心と欲望を喰らうのが、滑稽か……?
人間は、何をどれ程に喰われても、何故未だ俺なんかに欲望が湧くのだろうか?
人間と云うのは、さっぱりわからない。
金までくれて、
『また会ってくれないか?』
何て云う。
金は必要だ。
あの事件以来、祥悟のマンション には近よれない。
少なくとも、足を踏み入れるのが、恐ろしい。
………唯、死ぬなら、あそこが良い。
だから、残している。
祥悟の匂いが、一番残って居る、あの場所で消滅したい。
だから、少なくとも、今住んで居るアパートの家賃が必要だ。
しかし慈鴉は積極的に声を掛ける訳ではなかった。
今もただ、街灯の下に立っているだけ。
それだけで不思議な、人が染めても出ない様な銀色の長い髪と、藍色の瞳………そして誰かが、まるで絵の中の聖少女の様だと言った、ただの血生臭い鬼でしかない慈鴉の容貌が、人目を惹きつけてくれる。
そんな慈鴉の傍に、一人の男が近寄って来た。
年齢は二十七・八歳で、金髪に目立つ奇妙に深い、藍色とも紫色ともつかない瞳。
彼の外見は大抵の女性が、セクシーだというだろう。
整ってまとまって居ると思うから、人間から見れば、恵まれている方だ。
だが、鬼としては、並だ。
しかし慈鴉は男などまるで眼中に無く、視線を上の街灯の光に向ける。
蛾が街灯に集まっていた。
近付いては身体を打つけ、弾かれ、退き……それでも飽くことなく、狂ったように寄って行って、光に包まれようとするので、周囲に鱗粉が舞っていた。
もしもあの光が本物の焔ならば、彼等の身体はとっくに、ひとひらの灰塵と化して居るだろう。
それを理解して居ても、ヤメラレナイのだろうか?
それとも、それが彼等の前世からの罪業なのだろうか?
「稟…………慈鴉、か……?」
彼の声は怖気立つ程に耳触りで、人間ならばそうされただけで魂さえ射抜かれ、死んでしまう様な形相を、慈鴉はその美しい顔に浮かべると、鋭い藍色の瞳で青年を睨め付けた。
しかし、男は薄笑いを浮かべながら、近付いて来る。
この男も鬼だ……。
ゼンジと云う呼び名だと、教えられたが、呼ぼうなどと微塵も思った事はない。
この男は人間の肉を———特に若い女の肉を好んで———喰らう。
この公園に、女性は来ない。
しかしゼンジはやって来る。
俺を嬲るのが余程に楽しいらしい。
……暇人め……。
「腹が減ってるだろう? 未だ肉を獲る事も、 喰うことも出来ない、幼い子供の様な我儘を言うな。お前の口にも合いそうな、手頃な女を捕らえてある。付いて来い………」
「必要ない。失せろ」
ゼンジの喉が奇妙な声音を出し、押し殺す様にクククと笑う。
その藍とも紫色にも見える 、奇妙な瞳が慈鴉を見下ろす。
「こんな緩慢な自殺を図るとは、貴様らしくもないじゃないか……? 俺達は弱い生き物だ。例え同族すら喰らおうとも、生き延びようとする程に、な。違うか?………こんな状態になって迄、人間の心や欲望だけで生き延びていける筈がない。お前自身が一番、良く分かっているだろう?」
稟は、鬼としても、異形だった。
だが、慈鴉と呼ばれる今も、ある種異形だった。
「お前は鬼も人間も、見境なく、何の迷いも無く肉片にして、喰らっていたじゃないか……飢えだけがお前の全てだ。お前の前では鬼も人間も、唯の動く肉塊に過ぎない……そうだろう?」
優しく、囁くようにそう云ったゼンジの指が、銀の髪に触れた刹那、手の肉すら抉り取る勢いで、ゼンジの指は髪から引き剥がされていた。
「触るな。貴様にだけは、触られたくは無い。祥悟の身体を引き裂いて、喰らったその手で、俺に触れるな。祥悟を喰らったその口で、俺に話しかけるな」
言い放って、慈鴉はゼンジに背を向けて、公園を後にした。
ゼンジは、追ってこようとはしなかった。何事も起こらなかった。
祥悟は……あいつが喰べてしまった。あいつの襲来に気付いた時には、もう遅かった。
夢中で、必死で取り戻した時は、もう祥悟の黒い瞳は、ぽっかりと虚空を見つめ、雄弁な口も優しい笑顔もそこには無く、ただ、血にまみれた肉の塊の一部になっていた………もう何の感情も無く、自分を見るあの瞳が悲しかった。
生まれて初めて、悲しみを知り、慟哭した。
最初は、あいつに対する憎悪で、全身が焼け爛れてしまいそうだった。
復讐してやると、決意した。
だけど、祥悟の言葉を思い出してしまった。
祥悟には俺の過去を全部話していたし、誰も名前すら付けてくれなかった理由も話していたから……そうしたら、祥悟は云ったんだ。
『じゃぁ、賭けをしようか? 稟に復讐をしに来た誰かが、僕を殺して喰べたとしよう。そうして、稟がそいつを殺す為に力をつけようとして、人間や鬼を喰らえば、その復讐者と同じになるよね?……僕はそんな稟は、あんまり好きじゃない。僕の命は、気にしなくて良いよ。誰だって、最後には死ぬんだから。だから、ね?……だから、賭けをしよう……』
俺はあいつを追い払って、祥悟の遺体をそのままにして、シャワーを浴びて血を洗い流して、祥悟の服を着ると、祈るような気持ちで歩いてすぐの場所へ向かった。
二人でよく散歩をしたり、祥悟の作った弁当を食べたり、お菓子を食べた、様々な思い出のある、あの公園へ———足早に向かっていた。
足下がやけに明るいと思ったら、その夜は満月だった。
ポッカリ浮かんだ夜の中に、皓々と光る月が、まるで祥悟のようだと思った……俺が鬼だったせいだろうか。
どんなに傍にいても苦しいぐらいに孤独で、それも祥悟に会うまで知らなかった感情だった。苦しくても、嬉しくて、傍に居たかった……寿命が尽きる、そう遠くない日まで……きっと、祥悟も許してくれると思った。
本当に、たくさんのモノをくれた祥悟からの、最後のお願いで、最後の賭け……。
『あのね? クローバーの《二葉》には、〖不幸が訪れる〗〖復讐〗って言う意味があるんだ。だからね、僕が殺されて、復讐したくなったら、あの公園でクローバーを探して……? 《二葉》を見つけたら稟の勝ち。好きにして良いよ。もしも《四つ葉》を見つけたら、僕の勝ちだよ? 復讐なんて下らない事は禁止。僕は僕が居なくなった後の、その先の稟の〖幸福〗を祈るよ、ずっと……それと無理にとは言わないけど〖私のものになって〗〖私を思って〗それから……〖約束〗……約束は、キツそうだよねぇ……稟は、辛抱強くないから。だって、僕が傍にいないと、すぐに人間を見て〝美味しそう〟とか、考えてるでしょ? お見通しだよ……だからねぇ?……僕は稟より先には、死なないようにしないとだよねぇ……拾った犬は、最後まで面倒見ないとね?』
———祥悟との賭け———
いつも並んで座っていたベンチの、いつも祥悟が座っていた辺りで、群れているクローバーをかきわけて、探した。
鬼は人間よりも、夜に目が利く。だから、満月ともなれば、集中すれば真昼のようによく視えた。
……稟の手に、指にこれだと告げるように触れたのは、探し求めていた《二葉》ではなく、何故か悲しくて涙がこぼれた《四つ葉》だった。
だから、あいつの存在を見て見ぬふりをし続けて……こんな姿になって、復讐する力さえ失った今の自分では、もうどうしようもない事だし、あいつの存在自体は許せないが、あいつの存在———血肉の一部は、祥悟の血と肉と骨で出来ている。
もう、どうしようもないんだ……。
公園からかなり離れた路地で、血の匂いに足を止めると、慈鴉の爪の先には、ゼンジの薄い皮膚と血が付いていて、盛大に眉を顰めてハンカチで丹念に拭う。
人間の血と肉と骨で作られたであろう、ゼンジの血は皮肉のように、人間と同じように赤い。
人間を喰べる事を拒み、生来の力も色彩さえも失った慈鴉の血も、やはり赤い。
祥悟と同じように……。
ハンカチを捨て、祥悟との過去を慈しむように思い出しながら、慈鴉は桜色の唇に甘い蜜が滴るような微笑みを浮かべ、夜の街から去って行った。