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晴れし盆地の行く末、茫漠たり


「少し風が緩みましたな。」


 銀篠長亮(ぎんじょうながすけ)は外を眺めながら、言う。

 濡れ縁の向こうは虻川(あぶかわ)屋敷の内庭だが、簡素で見るべきものは特に無い。長亮の心を奪っているのは、その先に横たわる世覧(よみ)の山々である。


 堅世国(かたよのくに)の西南に走る世覧山脈は二千m級の山々が連なり、四月の今も白雪を頂き、山肌の鮮やかな青と相まって、壮大だった。空は晴れ、正午過ぎの春光に照らされている。

 山国であるこの堅世国で生まれ育った銀篠長亮にとって、見慣れた風景であるが、彼は山を見るのがとても好きだった。


 一方、眼前に胡座をかく主君は、もの憂く板床に目を落としたままだ。

「ふん。まだまだ山から吹く風は冷たいわ。まったく寒い土地だ。」


 主君、虻川冶恵(あぶかわはるよし)

 虻川家は堅世国の有力国人で、種原城を本拠に代々、力をつけている土豪である。国主の杉村家とも関係が近くて姻戚関係にあり、虻川冶恵は現国主である恒秀(つねひで)の岳父にあたる。


(有力、と言ってもな。この小さな盆地に、その「有力国人」がどれだけおるか。)

 銀篠長亮は、そうですね、と主君に同意しながらも心中ではひんやりと堅世の情勢を考えていた。


 虻川屋敷の広間で向かい合う主従二人を、庭から吹き込む四月の風が包む。庭の枯れ枝がかさかさと乾いた音を立てる。

(国主の杉村家は蟲川(むかわ)四ツ岳(よつたけ)の分家を統べることができず、近くは月箭(つきや)武浪(たけなみ)簗田(やなだ)などに我を張られ、北は赤飛と一馬(かずま)、南は高森がじままに国を造る。いずれも有力といえば、有力。しかし、どこもふとしたはずみで消え去るような小さな存在よ。そしてそれは)

 銀篠長亮は角張った顔を引き締め、豊かな口髭をかすかに揺らした。

(この、種原虻川家も同じだ。)


 広間に、虻川冶恵の溜息が大きく響く。脂ぎった尻あごが生き物のように蠢いた。銀篠長亮はそんな主君にうっすら笑いかける。

「程なく桜も咲きましょう。そうなればもっと暖かくなっております。さて、それでは失礼します。」

「ふ、桜か。城下の三本桜は、昨年十日は咲いていたからな。」

 桜の話で幾分気分が和らいだか、虻川冶恵は黄色い歯を見せてようやく笑顔を見せた。


 銀篠長亮が立ち上がったその時。


「冶恵様、長亮様。国主の御遣いで、尾久秀友(おぐひでとも)殿がお越しです。」

 侍臣が告げた。

 一瞬、虻川冶恵と銀篠長亮は目を合わせたがすぐ、

「通せ。」

 冶恵は侍臣に尻顎をしゃくってみせた。国主 ― 杉村恒秀 ― の遣いならば、会わぬ訳にはいくまい。

 ろくな話ではない、と分かっていたとしても。


 ややあって、つんのめるように広間に尾久が入ってくる。貧相な痩せっぽちであった。

「突然参って恐縮じゃ。虻川殿。」

「いや。御足労、恐縮でござる。」

 虻川冶恵と銀篠長亮は、平伏する。この二人は肩幅広く、武士らしくがっしりしていたから、尾久秀友のこけた頬とだぶだぶした狩衣が不恰好に見えて仕方がない。


 尾久秀友はもともと鳥のように口が前に飛び出ていたが、更に唇を尖らせ、きんきんした声で訴えた。

「火急の用事じゃ。長亮殿を貸してくれ。」

「ほ。今度は誰かな。」

 虻川冶恵は、あからさまに迷惑そうな顔をした。秀友は鈍いのか、焦っているのか、そのどちらでもあるのだろうが冶恵の態度に構わずまくしたてる。

「左様、今度は簗田政史(やなだまさふみ)じゃ。」

 政史は筆城の城主で虻川に次ぐ有力国人だが、国主杉村家に対して反抗的であった。

 銀篠長亮は奥歯を噛み締めて、角張った顔に力をこめる。

「簗田なら、金曳寺尊品(きんえいじそんぴん)が来ましたか。」

「さすが長亮殿、察しの通りじゃ。其奴が、今朝突然来よりましてな。恒秀様にやいやいと詰め寄るんですわ。全く、曲がりなりにも堅世国の国主ですぞ。あんなあけすけに、よくもまあ。」

 突然押しかけてまくしたてるのは、何も金曳寺尊品だけではあるまい、と銀篠長亮はつい笑いそうになる。だが主君の冶恵は苦虫を噛み潰したような顔でいたから、そこは何とかこらえた。情けない甥に憤っているのか。

 しかし、曲がりなりにも国主の遣いであるから、仏頂面で接するのも望ましくない。長亮はせめて自分だけは穏やかでいよう、と心に決めて、使者との話を続ける。

「境界相論ですか。」

「すべてお見通しですなあ。まさにその通りで、互いの農村が入会地を主張してな。尊品め、怪しげな証文を持って来て自領の言い分を全面的に通そうとしやがる。認めぬまでは筆城に帰らん、と言ってな、堅府(けんぷ)の屋敷に今も居座っておるのじゃ。」

「証文?どうせ偽文書でございましょう。」

「恐らくは。だが先代の弘秀様は文書を濫発しておられ、花押も一定ではなかったのでな。なかなか突っぱね切れず。」

「それは難儀ですな。」

 銀篠長亮は柔らかく相槌を打ったが、

「確かに弘秀公は八方美人だったからな。当家も随分、空手形を切られたものよ。」

 と、虻川冶恵が黄色い歯を剥き出して投げやりに言ったものだから、長亮の配慮はぶち壊しになった。

 しかし尾久秀友は怒るどころか同調した。

「全くその通り。堅府城の杉村家中でも、弘秀様の時は、恩賞といえば空手形ばかりじゃったからな。あ、亡くなった方を悪く言ってはいけないが、しかし虻川殿にも迷惑をかけたのう。」


 外に遣わされている家臣が主家をこうして罵るのが、今の国主杉村家の内情を良く表している。いや、こうまで力を失った杉村家をどうか助けてくれ、と同情を誘う肚なのかもしれない、銀篠長亮は色々思いを巡らせたが、何れにせよ心中に小さく溜息をついた。豊かな黒い口髭が揺れる。


 また尾久秀友のきんきん声が、種原城の主従二人の耳に響く。

「ということでな、虻川殿。長亮殿に金曳寺尊品の相手をしてもらいたい。恒秀様もな、うまく追っ払えたら相応の恩賞をつかわすとのことじゃ。」

(空手形か。)

 銀篠長亮は眉をひそませると同時に、ちら、と虻川冶恵を盗み見た。

 冶恵は渋面のままだったが、長亮に顔を向け、顎をしゃくった。物憂げながらもかなり大きな身振りであったから、見間違えようもない。

 行ってこい、とそういうことだ。


 虻川冶恵の態度も、国主の遣いの前で多分に無礼な態度だが、当の尾久秀友は全く気にしない様子である。

「おお。ありがたい。さすが虻川殿、話が分かるのう。では長亮殿、さ、早速参りましょう。」

 堅府城は馬で一時間もかからぬし、金曳寺尊品など論破するのは造作ないことだ。だが、即応する訳にはいくまい。


「この長亮では、全くの力不足でございます。そもそも国主家の重大な事案を、陪臣である拙者にお任せになるのはいかがかと。御辞退致したいが。」

「そう申さずに。虻川殿もああ仰ったことだし。」

 最早、虻川冶恵は横面を向けて、こちらを見ようともしない。

(何も言ってない。顎をしゃくっただけだ。)

 と、長亮は舌打ちしかけたが思いとどまると、仕方なさそうに笑ってみせた。

「皆様にそこまで仰られたら、断れますまい。国主殿の為、お努め申し上げましょう。」

「よし、来てくれるか。では、参ろう。こうしてる間にも恒秀様がいじめられているかも知れぬ。」

 そして長亮は、尾久秀友と一緒に立ち上がる。


 いまだ冠雪する世覧山脈から春の寒風が吹き込む。しかし尾久秀友は何も感じず、どたどたと板廊下を歩き始めている。この痩せた男の任務は、銀篠長亮を引っ張り出すことであり、了解が取れた今、気が変わらぬうちに堅府に連れて行こうと、とにかく焦っているのだろう。


 銀篠長亮は、行って参ります、と虻川冶恵を振り返った。

 だが、冶恵はもう居眠りしていた。

 この男にとっても、情けない甥っ子の危機は重要なことではなく、面倒なことを長亮に任せて、すぐに気が抜けたのであろう。


(種原の三本桜が早く咲くといいが。)

 銀篠長亮は、奥歯を噛み締めて、角張った顔を更に四角にして引き締めた。



 眞暦(しんれき)一七九七年。

 この頃の堅世国は小さな土豪がひしめき合い混沌としていたが、春はそのような政情は知らぬ気に、堅世盆地を柔らかく包みつつあった。






******************************





堅世国


挿絵(By みてみん)



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