審判のお仕事 2 ざっくりとした職場体験
今日は読切ギガンテス対中吉ワイバーンズ戦を担当する。審判の仕事なんてあまり興味ないだろうけど、ざっくり説明しながら、付き合って欲しい。
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「行って来ます」
「行ってらっしゃい」
読切ギガンテスの本拠地の試合なので、今日は自宅出勤、関東在住の審判はオ・リーグマ・リーグ関係なしに西は名古屋、北は北海道までのグラウンドで行われる試合を担当する事が多い、まあそれ以外も担当するけど。
試合前に体を作っておく、僕はまだ若いが、凄く運動が出来る訳ではない。|(出来ていたら選手になっている)それに僕が特別若いだけで全体的に『大人の男性』が一軍で活躍しているので、しっかりやらなければケガをして年末にプロ野球連盟からの来季の審判契約を結びませんという趣旨の言葉をかけられることになる、クリア寸前のゲームのデータが消えた以上の絶望感を味わう事になる審判は、残念ながらひっそりと球場から姿を消す事になる。あの先輩は元気にしているだろうか……。
……感傷に浸ってごめんなさい、話を戻して、メグ母さんも孝志さんも元プロ野球選手の上に同じチームという職場婚だったので、たまに僕にお客さんが来ることがある。
「海くん~お久しぶり~」
この語尾を伸ばす独特の喋り方をする人は……。
「ひさぎおばさん、今日はどんな御用ですか?」
星野ひさぎ、かつて中吉ワイバーンズのエースとして左のエースで夫の石井椿とチームを支えた技巧派右腕、ルックスとスタイルでもファンを魅了しポーカーフェイスで投げていく様から付いた異名が『氷姫』。孝志さんとバッテリーを組んでいたというのもあって時々解説者として足を運んでくれると挨拶しに来てくれる。それだけではない。
「千榎は元気なのかな~っていうのと~、もし良かったらワイバーンズが有利になるように出来ないかな~ってお願いしに来たの~」
見る人が見れば分かるけど、千榎のお母さんだ。言われれば親子と分かる、艶やかな長い黒髪とネコ目な所はお母さん譲りで丸顔と鼻はお父さん似だ、千榎の両親は色々と伝説を作っている人達でトラブルメイカーな所も大きい。良い人達ではあるので慣れると楽しい人なのが更に厄介なような……。
「千榎は元気にフル回転してます、ノルマも達成しそうですよ」
「ありがとう~ワイバーンズの件はどうなのかな~」
「あっ、忘れ物してました、取りに行って来ますね」
まさに三十六計逃げるにしかず、変に無下にすると家賃や同居を暴露される事に発展するので、さっさと撤退します。……あと1年の我慢だ、頑張れ僕……。
試合開始35分前位にメンバー表の交換があって両チームの監督と球・塁審がホームベースに集まり握手を交わす。ワイバーンズの監督は世代交代で一時期低迷したチームを立て直した沢城さん、ギガンテスの監督は天才打者と謳われた高村さん。その笑顔の裏はなにを考えているのやら考えていると、精神が削れる気がする。
精神統一をして準備が整ったら、公式記録員が球審に合図を送って試合が始まる。
「プレイボール!」
担当はローテーションで組まれていて一塁、二塁、三塁、球審、控えの順番に担当する。ただし、経験も大事になるので4~5年位一軍で審判をやらないと球審はさせてもらえない。
簡単に言えば今日の担当はスタジアムの右半分と他の審判のバックアップだけど、今日はあの人が出てくるから……。
「6番、キャッチャー中上、背番号22」
──はい、玄の登場です。玄のバッティングは球数を増やして相手を苦しめるというピッチャーからすれば厄介この上ないタイプの1つ、カットも多いし軽打なのでハーフスイングも多い。
もちろん、そういった選手は他にもいるが、玄は血を分けた姉という2つ目の厄介な事態がある。スイングを取れば。
「贔屓くらいしろ、愚弟!」
とワイバーンズファンに野次られ、セーフと言えば。
「贔屓しているんじゃねえぞ愚弟!」
と敵側のチームに野次られる、これを僕はヤジゴクとこっそり名づけている。審判は贔屓する事があると良く言われるが、贔屓する暇があるなら生き残るためにちゃんとジャッジをするよ! と書いておきたい、担当だって年に数回しかやらないのにどっちにしろ贔屓出来ないよ。
……話を試合に戻して、玄姉はこの打席0-2とあっさり追い込まれるが、ここから3球のファールと2球のボールで2-2まで粘る、ピッチャー斎藤の投げた球はフォークだった。玄姉はバットを止めるが、キャッチャー村本がアピールした。
「アウト!」
大きな声と大きなジェスチャーでアウトを宣告する。バットがわずかにホームベースから出ていたので自信を持ってジャッジする。
その判定に玄は僕を睨み、ワイバーンズファンが先ほどの野次を飛ばすのがもはやお約束になっていた。野次は慣れるし、玄も大好きなミルフィーユを取られたのと同じ頻度で見る睨みつけだったので、時間と共に気にならなくなった。元々目力が強い人だからね、玄は。
その後はつつがなく試合が進み、7回に玄がタイムリーツーベースを放ちこれが決勝点、2-0でワイバーンズが勝利した。試合時間2時間32分、とても早いので僕を含め、審判全員が控室で喜んでいた、体の負担がかかるのでさっさと終わってくれと切に願うのが審判心理、2時間台に終了だと良いが、3時間後半だとしょうがないと半ば諦め、4時間過ぎると憂鬱になり、5時間以上は疲れて考えるのが面倒になってくる。
「俺凄い試合さばいたよ、ちょっとした自慢になるなー」
試合時間6時間30分の埼玉菖蒲ヴォルフ対好天ライジングコンドルズ戦の球審を務めた先輩の表情は何かを突き抜けたのか無表情だった。更に運の悪い事に審判もお客様もとっくに終電を逃し、菖蒲鉄道が臨時運行をして3万人ものお客さんはなんとか家路についたという……ご愁傷様です。
さて、反省会も5分程度で終わり、久々に千榎とゆっくり過ごせるとウキウキしている僕に災難が。
「海、飲みに行こうか」
……先輩の誘いは体育会系にとっては命令に等しい、もちろん拒否権などは日本列島探し回っても見つかることはほぼない。
明日の試合で球審を担当する今日の3塁審の大中さん以外全員で、居酒屋チェーン店で乾杯です。あんな顔していて飲みましょうと言う人がいたら鳩尾に蹴りを入れて黙らせるよ、たとえ誘ったとしてもほとんどの人が断るだろうけど。
「海も一軍デビューから4年か、もうそろそろ消化試合とかの球審をやっても良いよな」
「なに言っているんですか篠宮さん、高卒から1年目で一軍デビューしただけでも十分早すぎるのに、21で球審なんて誰も判定に納得しませんよ」
「お前こそなに言っている、一軍昇格から一回も二軍落ちしないで公平正確なジャッジをしているから、周りの信頼がすごく上がっているのを分かっていないのか? 俺の見立てでは今年だな」
篠宮さんは酒に酔っているようだ、高卒1年目で一軍に出ている人でも聞いたことないのに20前半で球審をやるなんて更に異例だ、多分ないだろう。
まあ、さっき篠宮さんが言っていたので言っておくが、一軍デビューが普通は3~4年かかる所を僕は審判留学帰国後の1年目の9月に出場しました。ちょっとした自慢です。選手で言えば高卒新人選手が新人王を取る位凄い事だと言えばちょっと誇張が入っているかも知れないけど、なかなかない事なので嬉しかったね。
あまり長居し過ぎると愚痴大会が開かれるので、お金を多めに払ってドロンした。ただでさえ体が弱くて酒を控えているから、シラフで愚痴を聞いていたくない。薬も飲んでいるし。
それに千榎に早く逢いたかった、姉にも負けず、野次にも負けず、夏の東宮球場の暑さにも負けず、開幕直後のライジングスタジアム仙台の寒さにも負けずに頑張るのは、同じく夢を追いかけている千榎の頑張りと笑顔があるからだ、もちろんやり続けたいと強く思うのは、僕がトチ狂った野球好きだからでもある。
今日の土産話はひさぎおばさんに会った事だ、今日一番に伝えよう、しっかりした足取りで家に帰った。