シーズンオフは審判にも
……千榎、ちゃんと話をまとめておこうね。今回僕の話が少し進んじゃうから、読者の人が追いつかないよ。
じゃあ今回はシーズンオフの話、おじさまが多い職場なので、とにかくメンテは重要。
具体的にはマッサージして病院でストレスからの内臓疾患をケアして水泳でケガしない様に体を作って……。
更に仕事三昧でなかなか構う事が出来ない分、家族に感謝を行動で示すのもこの時期だ。ある先輩は子供に野球を教えてあげたらしく、大変喜んでたみたいで、別の先輩は飲み会に行かない様にして貯めたお金で、家族旅行に行ったそうだ。……いつか子供が出来て千榎と一緒に行けたら良いなぁ……。
この間も研修やら会議とかで、完全オフでは無いんだけど、それでも千榎と会える機会が多くなって……ない。
今年はめっちゃ虎太郎おじさんにしごかれてる! 千榎大丈夫!?
小学生の頃に、虎太郎おじさんのドラムカッコ良いと言ったのがきっかけで、もの凄い勢いで一時期練習させてもらった事があったけど、今思えばその辺から少しマゾが入ったかもしれない。殴ってくれた方がまだ楽じゃないかと思う位、メンタルにグサっとくる言葉、出来るまで終わらない練習、とにかくキツかったけど、今でも時々スティックを使ってこっそり練習している。ずっと練習してるサリーちゃんには勝てないけど、その辺のドラムスには負けない自信はある。
そんな頑張ってる千榎を迎えに、中古ながらメンテナンスをガッチリやったSUVに乗って、真新しく機材もしっかりしたスタジオに入ると、隼人君がドラムセットで高速連打をしていた。
「隼人君、千榎を迎えに来たよ」
「あっ、海兄お疲れ様ー! あそこにある千榎姉ちゃんだったもの引き取ってて良いよ」
指さされた方を見ると、非常にグッタリしている千榎の姿があった。
「も、もうムリ……」
「千榎、大丈夫?」
「ボイトレとリズム隊の練習やっただけなのにね、後半のバイテンなんて、蚊が演奏してるのかなと思ったから止めさせたけど」
6つも歳が離れた男の子に酷い言われようだけど、物心つく前から楽器に触れて、保育園児の時にはもう、保育士さんの代わりにピアノを弾いて周りの人達を驚かせていた。そこまでやるからなのか、友達と遊ぶヒマなんて無かったみたいだけど。
「さいごに、海と新婚生活を送り……ぐふっ」
「千榎ー!」
なんてノリ良くやってみたけど、明らかにバテているのは分かっているので、車に乗せて帰る事にする。体力的には男5人がかりでも簡単にノックアウトさせた事もある千榎だけど、その千榎をもってしてノックアウトさせた練習……僕ならメグ母さんに会えるかもしれない事態になるかな。
「隼人君も送っていこうか?」
「スタジオ一部屋貸し切りにしてもらったから大丈夫、こういう所に金をケチらないって父が言ってたし、金額聞いたら大学生の初任給位だからそこまで高くないって」
「いやいや、虎太郎おじさん相当金持ちだからね!」
世界的な大企業、歳徳グループの創業者一族で現社長の従兄弟でもある虎太郎おじさんは、ちょくちょく休みを取る社長の代わりに働く事もあるらしく、報酬金で都内にビルが一軒建てる事が出来るそうだ。ただ、働いた分だけもらって、後は返すか慈善活動に使ってるそうだから良い人だと思う……練習に妥協の文字は無かったけど。
「海兄ちゃんも審判辞めたらもう一回音楽やったら? 海兄ちゃんのアドリブセンスとリズムの正確さ、力を抜くのは小夜ちゃんより上なんだけどなぁ」
「後6年は審判やるから、ちょっとプロは厳しいかな」
「……海兄ちゃん、本当に死なないでね。もうそろそろ球審もやる年数が来てるでしょ、ファールチップやキャッチャーに踏まれたら試合どころじゃなくなっちゃうから、出来ればやらないで」
いつもかなりふざけている隼人君とは思えない、真剣に心配している表情に、僕は笑顔で返す。
「仮に倒れたらその時点で審判辞めるって孝志さんにも言っているし、プロ10年目にはどっちみち引退するよ。それまで自由に続けさせて」
隼人君は複雑な顔をしながらも、分かったと言って引き下がってくれた。ありがとう、そしてごめんね、そんな顔させちゃって。だけど、好きだからやりたいんだ。ヤジはキツいし、給料は千榎に負ける時あるし、胃は痛くなるけど、好きなんだよ、野球が。
「だけど、体は大事にして。早くしないと、10年目に行く前に引退する事になるよ」
「前にも虎太郎おじさんに言われたけど、なんなの?」
僕が掘り下げてみると、隼人君は手鏡をこちらに向けた。
「自分がどんな顔してるか分からない? 去年よりやつれて、覇気も無くなって、今にも死にそうな顔してる。シーズンオフだからって言っても、完全に休養しないだろうし、明らかに良くはならないよね」
……参ったな、確かに酷い。いつの間にそんな顔になってたんだろ? 近くの人は全く言わないし、玄もそこまで言わなかったのに。
「千榎姉ちゃんも気づかなかったの?」
「……最近は忙しかったっていうのはあったけど、ここまで一気に悪くなってるのは気がつかなかった。ごめん、海」
「良いんだよ千榎、謝らなくて。僕の体調管理が甘かっただけなんだから」
僕が千榎をなだめても、隼人君はまだ納得してないみたいだった。
「絶対に100歳まで生きて、その歳で死んだら、千榎姉ちゃんを僕がもらっちゃうから」
「その時は呪ってやる」
「だったら生きてよ、僕が孫と遊ぶ所を見て欲しいんだから」
「まず結婚っていう大き過ぎる課題があるんじゃない?」
千榎の鋭いツッコミに、そっぽを向いて口笛を吹く隼人君が少し可愛かった。メグ母さんと孝志さんに勝るとも劣らない、美男美女の息子だけあって、黙っていると女の子が寄ってくる顔をしている。ただ、口を開けばほぼ全員逃げて行くのが残念だけど。
「なんか凄く失礼な事を考えられた気がする」
「ソ、ソンナコトナイデスヨ?」
「ウンウン、ウチモハヤトクンがカッコイイナーッテオモッテタヨ」
「清々しいまでに、心のこもってない否定されてもね……」
「じ、じゃあね。またよろしく!」
「今度僕も軽くドラムやるから、その時は教えてね」
これ以上ボロが出る前に、さっさと千榎を乗せてミーさんがいる自宅に帰るとする。隼人君のジト目が痛かったけど、まあ許してもらおう。
駐車場に着いて降りようとすると、千榎に止められた。
「なんか人の気配がする、多分あんまり関わりたくない類で、ヤバくはない方の人かな」
「記者さんとかそっち方向?」
そう聞くと頷かれたので、周りを見渡すと、確かにそう離れてない所に、カメラを持って隠れようとしている記者さんを見つけた。
「まあ、付き合ってるのは公表してるから良いけど、同棲してるのがバレたら色々面倒だよね」
「年賀状とか凄い勢いで来たらどうしよう……」
せっかく八百長とかの疑いをかけられないようにしてるのに! 千榎の住所や電話番号は玄には知られているので、同棲してるのがバレたら、あの人は嬉々として住所をバラすだろう。
野球関係で年賀状が届くと今言ったけど、お中元お歳暮は、球団から礼儀的な感じで送ってくるものはある。自社製品だったり樽一杯の菜漬けを送る所もあるけど、監督やコーチ、選手から自宅によろしく! っという感じに来ることはほぼ無い。例外は某名捕手が、審判全員に年賀状を送り、「公平な判定をよろしくお願いします」と達筆な字で書いて先輩方が騒然となったそう。……うちの父親が迷惑をかけました、こればかりは息子として謝罪します。申し訳ありませんでした。
って謝罪してる場合じゃないね、まずここに住んでいない事にするか、最悪一緒のマンションだけど同居してないとアピールしないと。
「猿芝居でも打つ?」
「下手な芝居はやめた方が良いよ、それに近所の人からリークされるだろうし、ほとんどバレている前提で動くべきかな」
僕は千榎にこれならどうかと1つ提案してみた。
「僕の名義で借りてる部屋があるよね」
「うん、ウチの練習場所にもしてる倉庫状態の部屋だったかな?」
「そこに僕がしばらく住んで、同居してないアピールをする。結婚したら一緒に住んでいるのは自然だから解消するけど、とりあえず一旦出て、デートする率を増やす。そこを撮られても、婚約してるからそこまで騒がれないでしょ?」
「うーん、確かに理にかなってるけど、シーズンが始まったらほとんど逢えなくなりそう」
デメリットの不安があって、千榎は完全に納得はしてないみたいだ、今までもそれに近いけど、確かに減るよね……。
「だったら、日帰りの試合は千榎の家に泊まる。3戦の内2試合位になっちゃうけど、その辺の負担を減らせるかな。基本関東在住者は西は名古屋、北は北海道までだから、頻度は少なめだからね」
「まあ……その位だったらギリギリかな……」
寂しそうな千榎を、記者さんがいるにも関わらず力強く抱き締める。
「ちょ……海!?」
一瞬だけ固まった千榎は慌てて離れようとするけど、更に力を込める。
「甲斐性無しでヘタレな彼氏でゴメンね、だけど少しだけ、千榎の誕生日までそうさせて」
「……バカ、これ以上ワガママ言ったらウチが悪いじゃん」
「もう少しワガママ言っても大丈夫だよ、千榎はもの凄く頑張ってるんだから」
恋人らしい事は5年間付き合ってひと通りやったけど、それでも千榎の温もりを感じられる時間がたまらない。千榎も心地良いと思ってくれると良いんだけどね。
しばらく抱擁を甘受していると、ドアのガラスをノックされた。
「お久しぶりですわ、海お兄様、千榎お姉さま」
「ざくろちゃん!? どうしたの」
マンションの地下駐車場に、見知った着物姿の女子が現れた。西郷ざくろ、亀鑑君や隼人君のはとこにあたる。和服が似合う品の良い子だけど、凹凸の全く無いスレンダーな体型で、本人は亀鑑君より小さい胸をとても気にしている……インテリ美少女って感じだから、全くモテない訳でもなさそうだけどねぇ。
「……何か、失礼な事でも考えませんでしたか?」
「いーえ、ざくろちゃん。綺麗になったよねって考えてたけど」
「本当にそうだよね、飛び級飛び級で義務教育前に大学卒業した才色兼備のお嬢様だよ」
隼人君に続いて、またもジト目で本当か? と疑惑の眼差しを向けられたけど、とりあえず車に入ってもらおう。
「ありがとうございます、それよりお熱い事ですね、記者の方々もいる中で抱擁を見せつけるなんて」
「そ、それは……!」
「大好きな人を抱きしめて何が悪いのかな?」
千榎があたふたとしている中、僕の発言で更に真っ赤にして黙ってしまった。本当に可愛いなぁー、どんな癒し系ペットより癒されるよ。
「250カラットのパライバトルマリン見せてもそんな顔していませんでしたのに……!?」
「凄いの? パライバトルマリンって」
「千榎お姉さまのご両親が稼がれた、生涯獲得年俸を合わせてもとても足りない位です」
「海にとってウチの価値は120億以上どころじゃ無いんだ……」
感動を通り越して女子から引かれている気がするけど、宝石と千榎だし、それとこれとは……ねえ?
「それより、歳徳グループ次期社長とも言われてて、毎日忙しいざくろちゃんがどうしてここにいるのかな?」
「暴漢退治の協力をして下さったのに、原因を作った当事者がお礼を言わないのは、道理に反していますから」
「そんなわざわざ、ウチは必死に逃げただけだって!」
「いえいえ、知らせて無い上に危険な仕事でしたからお礼は当然なのに、遅くなってすみません。……代わりに、結婚するまで同棲が分からない様に、こちらで手配しておきますわ。何かご希望があればおっしゃって下さい」
「察しが良すぎてありがたいね、海の希望は?」
千榎もらう気満々だ……ただ、渡りに船の状況なので、ありがたく受け取っておこう。
「防音機能の部屋で、駐車場があれば代金を払うからつけてもらえると良いかな。欲を言えばセキリュティがしっかりしてると」
「その程度なら簡単に手配出来ますわ、良ければそのまま行きますか?」
「ミーさんがいるから……」
ゴダゴタがあって預かっていたミーさんを、放っておくのはちょっと不安だから迎えに行かないとと思って後にしようとしたら、ざくろちゃんが手を挙げて制した。
「問題ありません、後から伝えれば良いですし、留守を任せるには丁度良いですわ。それに美伶お姉さまはもう立ち直っています、あまり親友の彼女だからと言って、過保護にしてもよろしくありませんわ」
「だけど……」
「それでも不安なら、信用出来る相手を一緒に住まわせますわ、何の説明も無しに、美伶お姉さまと一緒に住んでいるのが先に漏れますと、それもマスコミの皆さまが騒ぎますから」
……仕方ないね、確かに記者の方々が来ているとミーさんの事をあれこれ聞かれるだろうし、心無い人がとやかく言うだろう。だったら、一旦こっちに注目させて巻いた方が良い。
こうして、一時的なお引越しが内密に始まった。