天使の梯子
*
十二月十八日。
午後三時。
海の波が崖壁に当たり、白くなって海に霧散していく。黒く長い髪を潮風が撫でていく。雲間から覗く太陽は、舞香の制服ではない服装を新鮮そうに照らしていた。
舞香は高台に来ていた。
来た理由は特にない。だけど、なんとなくここに来たくなったのだ。
そんなわけがないのに、ここに忘れ物をしてしまった気がして。
舞香は、ニス塗りされた丸太の手すりの上で両手を組んで身体を預け、目の前に広がる街の景色を眺めていた。
電車が天に昇るように縦に走っていた。この島の南北を繋ぐ電車だ。地上を走るのはこの電車だけで、他の場所に行く際はバスや地下鉄を使わなければいけない。
舞香は線路を辿っていく。
島の中央部は都市化しており、高層ビル群が屹立していた。その中には、三回目の召集で京一と対峙したマンションもある。つまり、その辺りが、全ての始まりの場所である佐倉町ということだ。
ビルに隠れて、その先の線路は窺がうことができなかった。
舞香は視線を上げる。
この場所の反対側――つまりはここから約十キロ先にそびえ立つ山が舞香の目に飛び込んでくる。高さ三百メートルしかない小さな山だ。以前に創時とここに来た時は、暗くてよく見えなかったが、改めて、この島は山に囲まれているのだな、と思う。今まで十六年間生きてきて、特に気にしたことのないことだったが、こうして見てみると、なんだか山に守られている気がして、うれしい気持ちになった。
舞香は深呼吸して、潮を含む山の新鮮な空気を吸う。
視線を自分の手元に落とす。
手すりに置いている右腕は、しっかりと舞香の腕に繋がっていた。痛みもまったくない。
舞香は左手で右腕を擦りながら、一昨日から今日にかけてのことを思い出す。
あの後、救護班に助けられた三人は、すぐに治癒能力先生のいるあの病院に運ばれた。能力ですぐに舞香の腕は治り、一日のリハビリですぐに腕の痛みは消えて腕も自由に動かせるようになったが、足を失った創時とヒトミカはそう簡単には行かなかった。創時はまだ松葉杖がないと歩けないし、ヒトミカに至っては車椅子でしか移動できない状態だ。完治には、まだしばらくかかるそうだ。
ここに来る前に救護班の人に聞いた話だが、舞香たちがいた階の一つ下で、脳味噌と内臓を地面にぶちまけた京一が見つかったそうだ。写真を見るかと問われたが、自分が殺した相手を見る勇気が持てなかった。
今、政府は今回の事件を踏まえて、時の守り人になる試験を見直すことを検討しているらしい。それに伴って、守り人による勧誘も廃止されることになりそうだった。まあそれは、京一が創時の勧誘によって守り人になったので、仕方のないことだろう。
「ふう……」
舞香は、終わったのだな、と思い、思わず溜め息を吐いていた。
犯人の死亡。結果はいいものではなかった。舞香の左手には、桜斬で京一の胸を串刺しにした感触がまだ残っている。それは、いくら手をぐーぱーしたところで消えるものではなかった。
わだかまりがあった。
時の守り人として、舞香は過去改変で母親を助けず、仇を取らなかった。しかしもちろん、人間としての舞香は今でも母親を助けたい気持ちでいっぱいだし、母親を殺したあの男を殺したいほど憎んでいる。だから、ここ数日間、普通の暮らしをしていると、「どうして私にはお母さんがいないのだろう?」とどうしても思ってしまうのだ。それも、一度ではなく、何度も、だ。まるで、答えがわかっているのにその答えに納得がいかず、駄々をこねているみたいだった。
舞香をなだめるみたいに、風が舞香の頬を撫でる。
「どうしたの? こんなところで」
ふいに太陽のように優しい声が聞こえ、舞香は振り返る。
長い髪が宙を舞い、刹那の間舞香の視界を邪魔するが、すぐに姿が見える。
そこに立っていたのは、白い患者衣に松葉杖をついている創時だった。この場所とはあまりにも似つかわしくない格好だった。創時の優しく微笑んだ顔が、舞香を見つめている。しかし、心なしか疲れているようにも見えた。
「私はなんとなく、落ち着きたくて。創時こそ、どうしてこんなところに?」
落ち着くのに、なんとなくなんて感情があるのかはわからない。だけど、本当になんとなく、だった。いつの間にか、舞香はここに来ていたのだ。
創時は舞香の横に来たいのか松葉杖をつきながらゆっくりと歩いてくる。途中、バランスを崩しそうになったので、舞香はたまらず創時を支えてあげる。
やがて、さっきまで舞香がいた手すりのところまで来ると、創時はそこで一息吐く。
創時の視線を追っていくと、どうやら創時は佐倉駅の辺りを見ているようだった。始まりの場所を見て、創時は今、何を思っているのだろうか。
「舞香に言わなきゃいけないことがあるんだよ。それなのに、病院のどこを捜してもいないし……。それで、ここかなって思って、ヒトミカちゃんの空間変更でここまで運んでもらった」
創時が舞香に目を向ける。舞香は創時と目線を絡ませる。創時の口調は、どこか呆れているようにも感じた。「病人をこんなところまで来させやがって」と非難しているのだろうか?
「ごめんごめん。ちょっと気持ちを落ち着かせたくて」
舞香は、子供っぽい創時を珍しく思いながら微笑む。
「何かあった?」
さすがに、十年以上一緒にいるだけあって、鋭かった。
舞香は、少し迷った後、正直に答えることにする。
自分の中にわだかまりがあって、本当にこれでよかったのかと思っていること。
しばらくした後、創時はわざとらしく溜め息を吐いて答えた。
「何勝手に諦めてるの? あの男はまだ生きているんだよ? 逮捕しようと思ったら、いつでもできるじゃないか」
「でも、もうあの男はこの島にはいないんだよ? 海外に逃げられちゃ、居場所なんてわかんないよ」
心の内側から何かこみ上げるものがあって、舞香は必死で堪える。
地球は広い。そんな中で、人一人を見つけようなんて、無理な話だろう。
だけど、創時はなぜか不敵に笑っていた。
「見つけられるよ」
「えっ……」
あまりに自信に満ちた創時の口調に、舞香は戸惑う。
見つけられるわけがない。だけど、なぜか創時なら見つけてしまいそうな、そんな気がした。
「というか、もう場所わかっているよ」
創時はそう言って、身体を反転させ、手すりに身体を預ける。創時が見つめているのは、遠くの海だった。舞香も創時と同じように手すりに身を預け、遠くを見つめる。
「どうしてわかるの?」
もう、創時の言葉を疑ってなどいなかった。
「ミルクティーだよ。あの男をビルから連れ出した後、ヒトミカちゃんがあの男の体内にミルクティーを忍び込ませておいたんだ。それで、今も男の居場所がリアルタイムで送られてくるってわけ」
創時の言葉を聞き終わった時、舞香の頭にはドヤ顔のヒトミカが映し出されていた。十一歳の少女の行動とは思えない。本当に、感心してばかりだった。
「すごい……すごいよ」
あまりにもうれしくて、思わず舞香は涙を流していた。さっきは我慢できたのに、なぜか今度は我慢できない。胸の奥から、どんどん溢れてくる。
すると創時は、「当たり前だろ?」と言わんばかりに笑った。
「だから言っただろう? 俺たちは、過去は変えられないけど、未来は変えられるって」
創時の言葉に舞香は涙を地面に零しながら何度も頷く。
遠くの雲の隙間から、幾重もの細い太陽の光が射しこんでいた。
――天使の(ェル)梯子
もう、終わりは近い。
遠くの空がそう教えてくれている気がした。
そして、それはきっと、舞香にとっていいものであるに違いない。
次回、逮捕しにいきます。




