舞香
舞香と幼馴染の創時についてのお話。
*
日本の首都、東京から八百キロメートル離れた場所にある孤島――葉桜島。縦横十キロメートルの小さなこの島は二〇〇〇年に独立国と認められ、それから三十年で目覚ましい進化を遂げた。島の北東に位置する『佐倉町』は首都として他国の首都に劣らないほどに、南東は世界に技術を発信する工業都市として発展していた。
警察組織も世界トップクラスで、世界一平和な国と呼ばれるほどだった。
それなのに……いや平和すぎるからこそ、だからだろうか――この島にはとある噂が流れていた。
――過去に戻り、過去を変えることができるようになる「鍵」と呼ばれるものがあるらしい。
もちろん、噂なので本気で信じる者は少なかった。
時間が経ち、その噂も忘れかけられていた頃だった。まるでその噂を思い出させるかのように、こんな噂が流れ始めた。
――「鍵」の噂を信じた者たちは、警察に捕えられ、投獄されるらしい。
「鍵」の噂は信憑性がなかったのに対し、こちらはかなりの信憑性があった。実際、「過去に戻って娘を助けてくる」と言っていた夫が、数日後に暴行罪で警察に逮捕された。という女性の証言があった。温厚な夫がそんなことをするはずがないとその女性は思ったらしいが、警察はまったくそれを聞き入れなかったそうだ。
他にも同じようなことがあったらしいが、所詮噂だ。偶然で片付けられてしまえば、誰も何も言うことができなかった。
そして、結局、噂はやはり噂で留まり、徐々にその噂も時間と共に消えつつあった。
――そんな頃……
*
二〇三三年、十二月一日。
黒白のメイド服のミニスカートの後ろ側が少し捲れ、そこから赤い尻尾が生えていた。長く黒い髪の頭頂からは猫耳が生えていた。いつもは漆黒の大きな瞳も、今は赤色のカラーコンタクトが入れられている。ほのかに赤く染まった頬からは、両方に三本ずつ、ひげが生えていた。
人間、美剣舞香は、猫になって今日もせっせと「メイド喫茶 CAT」で働いていた。
「すみません」という声がかかり、その声の主である小太りのおじさんが座っているテーブルに行き、「ご注文はなんですにゃ?」と笑顔で言う。その笑顔は、営業スマイルとは思えないほど満面なものだった。
「このオムライスくださいにゃ」
舞香の口ぶりを真似て、おじさんも猫語になる。もちろん、ここに来た人がみんな猫語になるわけではない。このおじさんは常連なので、真似て遊んでいるのだ。
舞香は、「そのまま猫になってどこかに行ってしまえばいいのに」と思う気持ちを必死に抑え、笑顔を讃えたまま「はいにゃ」と答える。
「以上だにゃ」
気持ちの悪い猫――もといおじさんの言葉を聞いた舞香は、お辞儀をして、その場を離れる。背中に悪寒を覚えながら厨房にオムライスの注文を伝える。今の時代、注文を受けたその場で機械に入力して厨房に伝えるというシステムを使えばいいと思うのだが、店長によると、「猫が機械を操作しているのはおかしい」とのことで、その機械は持たしてもらえなかった。おかげで、わざわざ厨房に注文を伝えに行かなければならない。
「「了解にゃ」」
厨房の猫たちが舞香の言葉に返答する。厨房の声はお客様には聞こえないのだから、わざわざここでまで猫語を使う必要はないと思うのだが、その気の緩みを店長は許さなかった。
まあ、その徹底ぶりによって店の売り上げが向上し、給料アップに繋がるので、舞香は満足していた。
店の時計を見ると、午後九時を回ったところだった。あと一時間、踏ん張らなければいけない。
舞香は早速できたオムライスを受け取り、あのおじさんに対する愚痴をこぼしている他の猫たちの隙間を抜け、おじさんが座っているテーブルに辿り着く。
「お待たせしたにゃ」
舞香はテーブルにオムライスを置くと、ケチャップを取り出して、「LOVE」という文字を書く。べたな言葉だったが、これが一番人気だというのだから仕方がない。それに、このおじさんも喜んでよだれを垂らしてくれている――――。舞香は急に吐き気に襲われ、さっとお辞儀をしてその場を離れ、従業員用のトイレに駆け込む。
ここでのバイトを始めて一年。その頃からあのおじさんのよだれを見ているが、そうそう慣れるものではなかった。……いや、というより、慣れたくない。
ノックの音が聞こえ、それに続いて女性の声がトイレに響く。
「舞香、今日はお客さん少ないし、もう上がっていいわよ」
店長の声だ。あれだけ厳しい店長が猫語を使っていないのは、店長は猫になっていないからだ。店長いわく、「私は指示する側だから猫にならなくていいの」とのことだった。本当の理由は、「いい歳だから」だろうが、舞香は気付かないふりをしている。
「あ、ありがとうございます」
もう帰れると思うと、自然と吐き気は遠ざかっていた。
舞香は立ち上がり、トイレを出る。もう店長の姿はなかった。どうやら、デスクワークに戻ったらしい。
舞香は更衣室兼従業員室で学校の制服替え、裏口から店を出る。冷たい風が舞香の長い髪をかすかに揺らすと共に、飲食街の匂いを運んできて舞香の鼻をくすぐる。自然、舞香はお腹を鳴らしていた。考えてみれば、昼に学食を食べたきり何も口に入れていないのだ。毎度毎度お馴染みになっているわけだが、こればかりは抑えれそうになかった。
よだれを垂らさないようにおじさんの顔を脳の隅の隅に思い浮かべながら、舞香は大通りに出る。大通りに店を構えているのはほとんどが居酒屋だが、ところどころにファストフード店など、若者向けの店が見える。舞香は一瞬ファストフードの誘惑に負けそうになるが、「節約節約」と頭に言い聞かせ、周りを見ないように歩く。前だけを見て歩く――そのつもりだった。
「あれ? 舞香? バイト終わったの?」
後ろから声をかけられ、舞香は振り向く。華奢な身体を舞香と同じ学校の男子用の制服に身を包んでいるその少年は、やさしそうな瞳と頬に笑顔を讃えて舞香に近づく。
「うん。そうだよ。創時は? どうしてこんなところにいるの?」
舞香の言葉に、少年――九隆創時は人差し指で頬を掻きながら、少し目を逸らして答える。
「たまたま近くに来たから舞香のバイトしてるとこにでも行こうかと思って……」
創時の言葉に、舞香の頭は沸騰寸前になる。
「だめだめ! 見せてあげない! 知り合いに見られるのは恥ずかしいし――――」
恥ずかしさのあまり気を緩めたからだろうか? 舞香のお腹が鳴ってしまう。ありえないが、その音が飲食街全体に響いたように舞香は感じた。
舞香はまた別の恥ずかしさにより、頭の中がぐちゃぐちゃになる。片方の手でお腹を押さえ、必死に鳴っていないアピールをするが、遅かった。もう、この場から逃げ出したい気分だった。
「舞香、お腹空いてるの? どっか入る?」
創時の提案を、舞香はもう片方の手で制止する。
「だめ。お金ないの」
だが、その舞香の制止を今度は創時が制止する。
「大丈夫。俺が払うから。お金なら、余るほどある」
「だめだよ。それはできない」
「まあまあ、遠慮せずにさ」
そう言うと、創時はそそくさとファストフード店に入っていく。舞香は帰ろうと思ったが、やはり食欲には勝てなかった。つまり、創時に奢ってもらうことにした。
カウンターでハンバーガーとジュースを注文し、すぐに出てきたそれを受け取って店の一番奥の席に二人向き合って座る。創時はもう晩ご飯を食べていたのか、注文したのは熱いコーヒーだけだった。
「ありがと」
舞香がお礼を言うと、創時はなぜか頬を赤らめ、目を背けて静かに頷く。
「どうしたの、創時。なんか変だよ?」
「なんでもない」
なぜか創時は不機嫌そうだった。疑問に思いながらも、あまり気にしないことにし、舞香は会話の糸口を探す。
「創時、バイトでも始めたの?」
「どして?」
「だって、さっき『お金は余るほどある』って」
「ああ、まあそんなとこだよ」
創時はコーヒーに砂糖を入れながらお茶を濁す。濁ったコーヒーを少しかき混ぜ、口に運ぶ。コーヒーを飲めない舞香にとってはそれでも苦そうだったが、創時はどうやら平気なようだ。舞香と創時は幼馴染で、もう十数年の付き合いになるのだが、ここまで創時が成長していたことを舞香は改めて感じる。なんだか、感慨深い気持ちだった。手元のハンバーガーの味も、なんだが懐かしいように感じる。
「それより……さ」
話題を変えるように創時はそう切り出す。その声がいつにもなく真剣で、思わず舞香にも緊張が走る。急にどうしたのだろうか?
「なに?」
「舞香今、一人暮らししてるんだよね?」
「うん。そうだけど?」
「家賃どうしてるの?」
「バイト代で、家賃も学費も食費もなんとかやってるよ。ぎりぎりだけど」
「メイド喫茶のバイトだけ? あそこって給料いいの?」
いつになく深く突っ込んでくる創時に疑問を覚えながらも、舞香は答える。
「うん。毎日行ってるし、それに私お客さんに人気みたいで、『舞香がいたら客が増えるから』って言って、店長さんが給料少し高くしてくれてるの」
「大変じゃない?」
「大変だけど、とりあえず今は我慢かな。高校卒業したら就職する気だし」
「大学行かないの?」
創時は、心配そうな目で舞香を見ていた。
「行きたいけど、行けないよ。お金ないし」
「そっか……。夢とかないの?」
「ないよ。…………何なの? 何が言いたいの?」
舞香は柄になくきつい口調になる。創時が本当に言いたいことを後回しにしている気がして、その創時の女々しさに嫌気が差したのだ。
「いや……あのさ。大変なら、うちに来たら?」
「えっ……?」
創時の思わぬ言葉に、舞香は言葉を失う。
確かに、舞香と創時は幼馴染だ。昔からお世話になっている。だけど、それとこれとは別だった。他人の家に迷惑をかけることなど、舞香にはできなかった。
舞香は少しした後、口を開く。
「それはでき――」
「舞香さ。両親がいなくなってから、なんか全部自分で背負おうとしてない? 未成年なんだよ? 誰かに頼ったらいいじゃん」
まるで、自分は全てを見透かしているといったような言いぐさに舞香はかちんと来ていた。
「幸せな家庭に生まれた創時にはわかんないんだよ!」
舞香は勢いよく席を立ち、店を飛び出る。店の中が一瞬ざわついていたが、そんなことは気にしない。いっそ、騒いだことを創時が店に謝ったらいいのだ。
そう。全部、創時が悪い。創時が悪いのだ。
舞香はそう言い聞かせながら、家に向かって走る。
目尻が熱くなる。なぜか、目から涙が流れていた。
――わかっている。創時はやさしさでそう言ったのだ。きっと、創時は、舞香をうちで引き取らないかということを両親に相談し、説得したことだろう。そのやさしさを舞香は踏みにじった。悪いのは、自分だ。だから、この涙は自分に対してのものだ。
息が苦しくなり、舞香は走る足を止め、ゆっくりと歩く。
今は、十二月のはじめ。冷たく乾いた風が吹いていた。その風は、舞香を馬鹿にするかのように音をたてながら吹きすさぶ。
(馬鹿だ……私。……明日ちゃんと謝ろう)
舞香は反省していたが、――でも、と思う気持ちもあった。
だって、いきなり「うちに来ないか?」と誘われたのだ。動揺してしまうに決まっている。もっと前々から話をしてくれていれば、ちゃんと話し合いをできたかもしれないのだ。それをあんな強制するような言い方で言われれば、舞香だって反論してしまう。それに、舞香のことなのに、どうして創時があんなに熱くなるのか、舞香には理解できなかった。
いろいろと思案している内に、自宅のアパートに着く。玄関のポストを見てみると、何やら真っ黒な封筒が入っていた。裏を返すと、「久藤良」と書かれていた。
――久藤 良。舞香はこの名前を知っていた。
一年前――十二月十九日に起きた通り魔事件で久藤は息子二人を殺されている。そして、舞香もこの事件で母親を殺されている。だから、二人は知り合いなのだ。……と言っても、事件後に一度しか会ったことがないので、はっきりと顔を思い出すことはできないのだが……。
住所は、警察にでも訊いたのかもしれない。
舞香は手紙を開き、文面を読む。そして、文面を理解した時に舞香が呟いた言葉は――
「……これってあの噂……だよね?」
だった。
手紙の文面はこうだ。
『美剣舞香さん。ご無沙汰しております
こういう時に時候の挨拶をするのが大人の務めというものなのだと思いますが、生憎そうものは苦手でして、割愛させていただき、本題に入らせていただきます。
私たちの家族が殺された、あの忌々しい事件から、もうすぐで一年になります。残念ながら、海外に逃げたとされる犯人はまだ捕まっておりません。わたくしは、どれだけ犯人を恨んだかわかりません。殺してやりたいとも思いました。でも、それは叶いません。――いえ、叶いませんでした。
――今、わたくしの手元には、噂で呼ばれるところの「鍵」というものがあります。この「鍵」さえあれば、噂通り過去に戻ることができます。あの事件の時刻まで戻り、事前にあの男を捕えれば、事件をなかったことにできるのです。どうですか? 舞香さんは、あの過去を変えたいとは思いませんか? もし、少しでも思ってくれたのなら、三日後、○×ホテルまで来てください。そこで、詳しく内容を話させていただきます。
久藤良』
――過去を変える――
そんな、次元を超越したようなことが本当にできるのだろうか?
そんなことがありえるのなら、この世界は矛盾であふれることになる。
やはり、嘘なのだろう。
息子たちを愛するが故に頭がおかしくなり、ありえない可能性にしがみ付くしかなくなったのだろう。
舞香は、制服のままベッドに寝転がる。
「はあ」
溜め息が漏れていた。
舞香と久藤は一年前の通り魔事件の被害者遺族だ。少なくとも赤の他人ではない人の頭がおかしくなってしまったのは、とても残念なことだった。
――じゃあ、自分はどうなのか?
ふと、舞香の脳裏にそんな言葉がよぎる。
確かに、舞香は、家族を殺されたという部分では久藤と同じ境遇かもしれない。でも、今までの一年間で一度として舞香は母親を助けたいなどと思ったことはないのだ。人として、家族のことをないがしろにするのはどうかと思うかもしれないが、舞香はそれでもよかった。なぜなら、舞香の母親は舞香を裏切ったのだ。
そう――舞香を――。
いつの間にか、舞香の記憶は一年前に戻っていた。
次は、少しだけ過去編です。どうして舞香が母親を恨んでいるのかわかります。




