弱さ
三日経った。
舞香がその間家から出ることはなかった。家に引きこもり、何をするわけでもなく一日を過ごす。食事をする気にはなれなかった。食べてもすぐに吐いてしまいそうな気がしたのだ。
寒気を感じ、舞香は布団を引き寄せる。
窓の外から月の光が覗いていた。時刻はわからないが、もう夜のようだ。
タトゥーが疼く度に怯え、日付が違う度に安堵するという日々が三日続き、舞香の精神状態は限界に来ていた。寝ても、自分が殺される夢を見てしまう。
『助けて』
殺された未来の舞香の声が蘇る。
(……いや……やめて)
『痛いの……助けて』
舞香は耳が赤くなるのもいとわず、耳を強く押さえる。
聞きたくなかった。だが、聞こえてしまう。
『君は弱い』
未来の舞香に向けられたものなのに、なぜか今の自分の状況を罵られている気がした。
(仕方ないじゃないッ! だって私、もうちょっとで死んじゃうんだよッ)
どうすることもできない未来。逃れられない事実。舞香の心は、それに蝕まれていた。
そこで、舞香はあることを思いつく。
もし、未来が決まっているのなら、舞香が今ここで死ねば、未来は変わることになる。
未来にここまで責められるのなら、未来を変えてしまえばいい。
舞香は起き上がる。
そして、武器創造で手元に小さなナイフを創造する。
銀の刀身が、月の光に照らされて綺麗にきらめく。
舞香はナイフを持ち、左手首に刃を添える。じわりと血が滲み出る。
舞香は痛みに顔を歪める。だけど、やめるわけはいかなかった。
ふいに、熱い液体を目尻に感じる。どうしようもなく、全てが愛おしく思えた。
いつも見ている一Kの部屋の景色。小さなテレビも丸いテーブルも。冷蔵庫に貼られたシフト表もキッチンの調味料も。窓の外の月も、街の灯りも。もう、見ることがないと思うと、普段は何とも思わないものも美しく輝いて見える。
ふと、創時の顔が目に浮かんだ。
優しい目の創時が微笑んでいる。
――自分の名前が呼ばれた気がした。
(ばいばい。創時)
そして、舞香は――――
「舞香ッ! 出てくれ!」
扉を叩く音が聞こえる。
「舞香ッ」
確かに自分の名前が呼ばれていることに気付いて舞香は手を止める。
ゆっくりと立ち上がり、血が床にぽたぽたと落ちるのも気にせず、玄関まで歩いていく。
鍵を開ける動作をすると、すぐに音が止んだ。扉を押し開く。
「どうしたの?」
弱々しく、舞香は微笑む。
「舞香、まさか自殺なんて考えて……」
創時の気迫のこもった声が舞香にぶつけられる。創時の言葉が途切れた理由は、視線を見ればわかった。
創時の目は舞香の左手首に釘づけになっていた。今も尚、手首から指を伝って赤い液体が流れ落ちている。
舞香は、創時に怒鳴られると思った。
だけど、舞香の予想は呆気なく破られる。
驚愕、悲壮、遺憾。その順番で表情が移り変わった創時が、舞香に抱き付いたのだ。
「お願いだから、死なないで」
それは、創時の心からの願いだった。
舞香は肩に温かい液体を感じる。
その時、舞香の目から洶涌と涙が溢れてくる。
二人だけの空間を作るように、風が扉を閉める。
舞香は創時の温かみと共に、左手首の痛みを感じていた。
――舞香は、生きていた。
ベッドに転がっていた血液のついたナイフは、創時の幻想時間によって腐らされ、創時の握りこぶしに叩き潰された。今はもう、粉々だ。それはまるで、未来への因縁が解かれたかのようにも思えた。
月光の元、ベッドに座った舞香は、創時に包帯を巻いてもらっていた。
「よしっ。これで大丈夫」
最後に、包帯をテープで留めて、いらない部分を切り取る。
「ありがとう……」
舞香は後悔していた。右手で包帯を擦り、自分の愚かさを思い知る。馬鹿なことをしてしまった。自殺したところで何も変わりはしないではないか。
京一から話を聞いた創時は昨日も一昨日も舞香の家の前まで来たらしいが、結局チャイムを押すことができなかったそうだ。でも、さきほどヒトミカに「もしかしたら舞香さん、自殺しようとしているかもしれませんよ」と言われ、慌てて駆け付けたそうだ。ヒトミカの意地悪が、舞香の生命を救った。……いや、もしかしたらヒトミカはヒトミカなりに舞香のことを心配してくれたのかもしれない。
舞香の頭に、ヒトミカの悪戯っぽい笑みが思い浮かぶ。
……何はともあれ、ヒトミカには感謝しなければならない。
「ねえ創時」
「ん?」
創時が顔を上げる。二人の視線が絡まる。
「私、本当に死んじゃうのかな?」
答えはわかっている。だけど、舞香は訊かずにはいられなかった。
しかし、創時から発せられた言葉は、舞香の予想の範疇外だった。
「舞香、俺たち時の守り人は、過去を変えることはできない」
突然そんなことを言い出した創時に舞香は疑問符を浮かべる。
だが、創時の顔には、自信のようなものが浮かんでいた。
「――だけどね、俺たちは、未来を変えることはできる」
舞香の目が見開かれる。
でも――
「未来は『絶対』じゃないの?」
舞香は愁眉する。
「確かに、知らなければ未来は絶対かもね。……だけど今、俺たちは未来を知っているんだ。なら、変える方法なんていくらでもあるだろう? この件が片付くまで召集に対応しないっていう方法もあるし、現在の久藤を捕まえるって手もある」
創時は優しく微笑む。
舞香の力はふっと抜けていた。
自分は何を先走っていたのだろうか? 少し考えれば、方法なんていくらでもあるじゃないか。自殺する暇があったら、方法の一つでも考えればよかったのだ。
なんだか、舞香は自分が情けなく思えてきた。
自分は、助けられてばかりだと思う。
母親が死んでから今まで、一人で生きてきたつもりだったけれど、本当は誰かに支えられていたのかもしれない。
(はあ……だめだな、私)
舞香は手で頬をぱんぱんと叩き、目を覚まさせる。
もう、頼るわけにはいかなかった。
自分で、なんとかしなければ……。
「決めた!」
急に大声を出したので、創時が肩をびくつかせる。
「……何を?」
「明日、久藤さんの家に行って、久藤さんを説得してくる」
「……本気?」
「本気」
舞香の決意は固かった。舞香は未来で久藤に殺される。だから、少しだけ恐怖があった。だけど、何か因果のような……運命のようなものが自分を導いている気がしたから、舞香はやらなければいけないと思った。
――きっと、未来は変わっている。
そう信じて。
「わかった。後で住所送っておく」
舞香の気持ちを悟ったのか、創時は同意してくれた。
「ありがと」
二人の邪魔をしないように、月の光が申し訳なさそうに窓から射しこんでいる。
静かな時間が流れる。
何の音もしない、まるでこの世に二人しかいないような感覚。
創時は息を呑む。
「舞香……」
思わず、創時の口から声が漏れていた。
創時は舞香の指に自分の指を絡め、身を上げて顔を近づける。
「いや…………ちょっ……と」
舞香の頬は紅潮していた。創時も同様に頬を染めている。だが、創時はやめない。
創時の唇が舞香の唇に近づく。
舞香は手で制止して、拒否することもできた。
だけど、しなかった。
だって、母親が殺されたあの日、喫茶店で寂寞感に駆られながら創時からの連絡を待っていた舞香は気付いたのだ。
(私は創時を――)
ついに、創時の唇と舞香の唇が重なる――その直前。
二人だけの空間に、電話の着信を知らせる音が響く。
創時と舞香は咄嗟に明後日の方向を向いていた。
平常を装った顔で創時は携帯端末を取り出し、電話に出る。
『あっ、今いいところだった? ごめんね。てへぺ――』
創時は無意識に電話を切っていた。
「間違い電話だったよ」
片頬をひくつかせながら創時はそう言う。明らかに、怒っていた。
「そっか」
と言っても、あの雰囲気を今更取り戻せるわけがなかった。
よかったような、嫌なような……変な感覚だった。
その時、再び着信を知らせる甲高い音が響く。
「もしもしッ」
創時の口調は完全にいらついていた。
『おいおい。何でそんなに怒っているんだい? ……ああ、図星だったんだね。舞香ちゃんとパーラダイスだったわけだ』
電話の相手は、間違い電話野郎――京一だった。
「要件は?」
創時は聞かなかったことにした。いや、実際何も言っていなかったのかもしれない。空耳というやつだ。
『言わなくてもわかるだろ?』
「ああ……舞香は平気だよ。ヒトミカちゃんにお礼言っといて」
『そっか。よかったよかった。……あっ、そういえばヒトミカちゃんが、「一日お泊り券を要求します」って言ってたよ。借りなんだから、しっかり返してあげなよ。……追伸、よかったね。これで大人の階段に上れるね』
「……切るよ」
創時は複雑そうな顔で電話を切る。きっと、理性と戦っているのだろう。
会話を聞いていた舞香は激昂していた。
ヒトミカに対してではない。すぐに拒否しない創時に対して、だ。だが、少なからずその中には、『さっき私を襲おうとしたくせに……』という嫉妬も含まれていたはずだった。
しかし、ヒトミカを家に連れ込めば、創時は大人の階段を上るどころか転落するだろう。比喩ではあるが、実際に舞香が創時を突き落してしまうかもしれなかった。
まあ、ヒトミカに生命を助けてもらった舞香がどうこう言える問題ではないのかもしれないが。道を誤るか誤らないかは創時が決めることだ。
「……とりあえず、帰るわ」
創時はのろのろと立ち上がり、ふらつく足取りで玄関まで歩いていく。
まだ決めかねているらしい。……これは、創時が犯罪者になる日は近いかもしれない。
舞香は軽蔑をできるだけ表に出さないようにしながら創時を見送る。
階段を下り、アパートの前を歩いていく創時は猫背で、どこか頼りなかった。
その時、ぐぅ、と変な音が聞こえてくる。音の所在を探してみると、どうやら舞香のお腹らしかった。そう理解した瞬間から、じわじわと食欲が襲ってくる。
(うぅ……お腹空いた)
舞香は冷蔵庫をあさり、いつ作ったかわからない野菜炒めを取り出す。
ラップを開き、匂いを嗅ぐ。
……いけそうだった。
舞香はそれを電子レンジに入れる。
数分待てば、さきほどの野菜炒めが湯気を醸している。
塩コショウのいい匂いが舞香の鼻をくすぐった。
「いただきます」
テーブルについた舞香は合掌して野菜炒めに箸をつける。そして、いざ口へ。
……。
……。
……。
何度も咀嚼したが、野菜炒めが苦味を出すことはなかった。
以外といけるのかもしれない。……それとも、これが人間の作った冷蔵庫の英知なのだろうか? いや、言い過ぎか。
「ふう」
数十分後、充分に腹を満たした舞香は安堵の溜め息を吐く。
考えてみれば、二日ちょっとの間食事をしていないのだ。恐ろしい話だった。人間、その気になれば食事せずにでも生きていけるのだと思う。まあ、これから先この教訓を使う日は来ないだろうが。
その後、銭湯に行って三日間お風呂に入らず、変な臭いを発し出しそうだった身体を清めた舞香は、寝ることにした。もう、眠くて仕方がなかった。それに、早く目の下の隈をどうにかしたかったのだ。
「おやすみ」
誰に言うでもなく、舞香はそう言う。
薄暗い天井に創時の顔が映った気がした。
その顔を見るだけで笑みが零れてしまう。
数分後、舞香は、幸せそうな顔で眠りについた。
深夜、舞香がトイレに駆け込み、そこで数時間過ごしたことは言うまでもない。
次回、久藤の家に行きます。




