ニャー
少し休憩です。
*
十二月七日。
午後二時。
舞香は、机に頬杖をつきながら何気なく窓の外を見つめていた。
枯れた木の並木道を歩く人たちが見える。お年寄りやベビーカーを押している母親、犬を連れて散歩をしている人もいる。見ているだけで、心が和む風景だった。気持ちがほんわかとしてきて、頭がぼんやりとしてくる。ああ、なんだか眠たくなってきた。犬に吠えられて小さな子供が泣いている。どこかで、舞香の名字を呼ぶ声もした。
……ん?
「おい、美剣。聞いているのか?」
確かに聞こえた。
はっとして声の方に目を向けると、国語科担当の教師が舞香を呆れた顔で見つめていた。周りの生徒の目線まで集めている。横目で横の席の創時を見ると、創時は知らん顔をして舞香に一瞥もくれなかった。
舞香はいっきに不機嫌になる。
もうどうにでもなれと思って、舞香は机に突っ伏して――
――寝た。
夢を見た。
舞香と母親の菜穂が一緒に夕日に照らされながらソファーで寄り添って寝ている夢。
舞香は幸せそうだった。菜穂も舞香と同じような顔で寝ている。
――いつか、事件が起きなければ来たかもしれない未来。
だけど。
チャイムが鳴る。
目を覚ましたのは、菜穂だった。菜穂は舞香の寝顔を見ると、愛らしそうに微笑み、玄関に歩いていく。
夕日が沈み、辺りが急に暗くなる。
舞香は目を覚ます。
辺りの暗さに反応して勝手に点灯した人工の明かりが夕日の代わりに舞香を照らしていた。
舞香は部屋を見渡す。電気に照らされて、上画面が白く光っているテレビがある。窓の向こうの暗闇には、近所の家の明かりがある。キッチンには、スープのいい香りと温かさがある。
――だが、誰もいない。
「お母さん……?」
舞香の呼びかけにも誰も応じない。
そして、気付く。
もう、菜穂は戻ってこないのだと。
「舞香。おーい。舞香ぁ」
遠くで舞香を呼ぶ声がする。
「うぅ。起きてるよ」
舞香は身体を起こす。寝ぼけ眼で時計を見ると、午後三時三十分を少し過ぎたところだった。
舞香は伸びをしながら不思議な夢だったと思った。
だって、今の舞香の感情にはまったく一致しない夢だったのだ。なんだか、現実と非現実を混ぜた感じがして、後味が悪かった。
舞香は後味の悪さを吹っ切るために、「よしっ」と力強く小さい声で気合いを入れる。
「舞香、帰るよ」
創時の言葉に舞香は頷いた。
校門のところに人だかりができていた。
女子たちの黄色い声が聞こえてくる。まるで、有名人がそこにいるかのようだった。
まあ、舞香たちには関係ない。気にせず通りすぎようとした時だった。
「あっ、創時さん」
聞き覚えのある声が人だかりの中から聞こえてくる。そして、人だかりを掻きわけて出てきたのは、ヒトミカだった。ヒトミカの足が生徒の足と絡まり、ヒトミカはバランスを崩す。長い金髪が揺れる。そして、ヒトミカはその勢いのまま創時に抱きつく。ヒトミカは、とても幸せそうな顔をしている。
周りの視線が創時に集まる。その視線は、汚らわしいものでも見るかのような目だった。……いや、オブラートに包まずに表現すると、犯罪者を見る目そのものだった。
やはり、創時はロリコンなのか……。
舞香が本気で警察を呼ぼうと考え、携帯端末を取り出した時だった。
「あっ、舞香ちゃん」
聴き覚えのある声が人だかりの中から聞こえてくる。そして、人だかりを掻きわけて出てきたのは、京一だった。京一の足が生徒の足と絡まり、京一はバランスを崩す。眼鏡が揺れる。そして、京一はその勢いのまま舞香に抱きつ――けるわけはなく。舞香のかかと落としが炸裂し、京一は地面に叩き付けられる。
「おぅ。……いい。……それに、白とな」
めきり。致命的な音がした。舞香が京一の頭蓋を踏みつけたのだ。
「ふーん。何を見たのかなあ? とっても気になるなあ。あははあはは。でも、忘れてくれないかなあ」
何度も何度も踏みつける。
「いい。その、俺を蔑んでいる目もいい。もっと……もっとくれ」
なんだか、触れるだけで穢れるような気がした。舞香は悪寒を感じ、踏みつけるのをやめる。お風呂に入りたかった。せめて、この足だけでいいから、早急に洗いたい。
「いいね!」
いつの間にか京一は復活していた。傷も、なかったことになったかのように綺麗さっぱりなくなっている。とんでもない生命力だった。この生命力を時の守り人の仕事の時に使ってほしかった。……いや、もう、本当に。
舞香は溜め息を吐いて、気分を切り替える。
「で、二人はどうして来たの?」
「創時さんに会いに来たんです」
創時の腹部に顔をうずめたままヒトミカが答える。まだ引き剥がさないということは、やはり創時は犯罪し――ロリコンのようだ。
「いっつも会ってるでしょ」
舞香は呆れ顔でそう言う。
「舞香ちゃんに会いに来たんです」
「「黙れ」」
舞香と創時の言葉がハモる。これで、京一が犯罪者であることが決定した。多数決というやつだ。
「本当は、舞香さんと創時さんを修行に誘おうかと……」
やっとヒトミカが真面目なことを答えてくれる。
「でも、私今からバイトだし……」
「じゃあ、今から舞香さんのバイト先に行きましょう」
「それは無理」
舞香は全力で拒否する。
「いこう」と創時。
「萌え萌え」と京一。
なぜ乗り気なのか……。京一に関しては、燃えればいいと思う。
舞香は盛大に溜め息を吐く。
「絶対来ちゃだめだからね! 絶対だよ!」
舞香はそう忠告して、逃げるようにその場を去った。
もの凄いスピードで離れていく舞香の後ろ姿を見つめながらヒトミカが呟く。
「ふりですかねえ」
耳がしっかり生えている。しっぽも異常なかった。ひげの角度を猫手で少し変える。
舞香は立派な猫になっていた。
更衣室の鏡でおかしいところがないかチェックした舞香は、厨房へ。ちょうどできた料理を受け取り、お客様のところに運ぶ。
「猫の世界カレーにゃ」
普段の舞香なら、バカバカしい名前だと思うだろう。だが、今はそんなことを思わない。なぜなら、舞香はこの道のプロなのだから。……しかし、猫は猫舌ではないのか……。
「ねえ、ふうふうしてよ」
もういい歳のおっさんがこんなことを言い出した。普通はそんなことはしないのだが、相手はお客様だ。どんなお客様であっても、愛想よく対応しなければならない。
舞香はスプーンでカレーを掬い、息を何度か吹きかける。
「これでいいですにゃ?」
スプーンをおっさんに手渡す。するとお客様はうれしそうにそれを口に運んだ。
舞香は、また頼まれないようにその場を離れようとした。
その時、来店を知らせる鈴が鳴った。
ちょうどいい。これで離れられる。
舞香は素早い動きで入口まで行き、両方の猫手を顔の前に持ってくる。店で「にゃーのポーズ」と呼ばれている、お客様を迎える時のポーズだ。
「いらっしゃいませにゃー」
舞香の挨拶が店内に響く。
「何名にゃ……ぁ……あああああああああああああ」
お客様の顔を見た瞬間、舞香は発狂していた。一人は、頬を赤く染めながら硬直していて、一人は、にやにやとやらしい目つきで舞香を見ている。そして最後の一人は、冷たい目で舞香を見ていた。
「……」
硬直しているお客様――創時は、未だに何も発さない。
「萌え萌え」
にやにやとやらしい目つきのお客様――京一は、何か言った。だが、どうやら舞香と使っている言語が違うようだ。聞きとることができない。
「もういい歳なのに、こんなことしてるんですね」
冷たい目のお客様――ヒトミカは、今度は憂いの目で舞香を見る。
ヒトミカの言葉に舞香の心が抉られる。十一歳のヒトミカに言われてしまえば、何も言い返すことができない。
――どんなお客様であっても、愛想よく対応しなければならない。
さきほど舞香が感懐した言葉が復活する。まさか、この言葉に足元を掬われる日が来るとは……。
さっきから店内の目線が舞香に集まっていた。このままでは店側に迷惑をかけてしまう。
舞香は心の中で深呼吸する。
「三名様にゃ。こちらへどうぞにゃ」
まるで今までのことがなかったかのように振る舞う。舞香に集まっていた視線も四散していく。
「あっ、すみません。帰りますから」
……んんんんん?
舞香は耳を疑った。ヒトミカの言葉が信じられなかったのだ。
「えっと、なんて言ったにゃ?」
聞き間違いかもしれないので、訊いてみる。この時も猫語を忘れないというのは、やはりプロだった。
「だから、帰ります。私の家で修行してるので、終わったら来てください」
……。
じゃあ、何のために来たのだろうか?
きょとんとしている舞香を後目に、創時とヒトミカと京一は店を出て行った。ちなみに、創時はまだフリーズしていたので、京一に引きずられていった。
舞香はその場でフリーズしていた。嵐に全ての財産を持っていかれたような気分だった。
数分後、他の猫に肩を揺さぶられ、舞香は我に返った。
「知り合いにゃ?」
仲間の猫が疑問符を浮かべる。
舞香はロボットのような動きで頷く。
「仲いいんだにゃー」
猫が微笑ましそうな顔をする。
どこがだ。
「今度、あのイケメンの人紹介してにゃー」
猫はそう言って仕事に戻っていった。
あいつはやめとけ。
舞香は猫手で頬をぱんぱんと叩き、気合いを入れると、猫の世界に戻っていった。
本当に、何がしたかったのか……。
その謎は、これから永遠の謎として舞香の心に居座り続けることとなる。(そこまで重大ではない)
バトルはもう少し待ってください。すぐ来ます。




