プロローグ
20世紀前半から爆発的な進歩を遂げた仮想空間ネットワークシステム。
いわゆるVRMMOと呼ばれるようになったネットゲームが流行し始めたのは20世紀の中頃であるが、従来のヘッドギアを装着して操作するタイプではなく、部屋そのものを媒介装置としてリアルの個体情報を仮想量子空間にリアルタイムで投影するシステムがVRMMOの進化形として開発されていった。
規模は近年に類を見ない。
当時、世界最大手と目されるママクロソフト社とオレンジ社の合併により立ち上がったレイガース社はその莫大な資金と豊富な知識を動員して新たな企業展開に着手。
部屋そのものを媒介装置として行われていたコストパフォーマンスの悪さを改善し、
本来は医療用目的として開発されたヴァーチャルシステムを商業用として改変していく。
これは、身体が動かなくなった人間や、高年齢の人々を対象とした一種のメンタルケアに主眼を置いた医療娯楽として発展していったものだったが
そのヴァーチャルシステムがゲームと融合し、一般人を対象として収益を上げる目的で作られた初めての形が・・・ここにある。
それが”ノア”と呼ばれるゲームである。
今となっては常識である内蔵型の携帯受信機を媒介して、生体情報を仮想空間に送るシステムはその規模と、宣伝によって知らない人がいないほどである。
まだ発売されてもいないのに、街の高層ビル街に取付けられた立体ビジョンを見上げると嫌でも目に入ってくるし、内蔵された携帯受信機を用いて視覚の一部にテレビジョンを再生させると流れてくるCMではここ何ヶ月かの間ずっと同じものが入ってくる。
もはや、需要と供給が釣り合っておらず、一部の辺境でしか使われていない紙媒体の情報誌・・・新聞の広告欄のどこかにもかならずノアの文字と、秀麗な書体の横に描かれている第二の人生という文字が見つけられるだろう。
そんな空前絶後の大規模ソーシャルヴァーチャルネットゲーム”ノア”。
ノアのクローズドβと呼ばれる試用運転期間は一般市民の中から抽選で選ばれ、一週間後に差し迫ってはいる。
その応募枠はこれまたその世界の常識を簡単に覆す数値だった。
応募定員10万人。
その数が異常であれば、応募数も異常の極みであった。
なんと1億5000万人。
現在の東南アジア連邦東域支部・・・以前、日本と呼ばれていた国の人口が3億人ということを考えれば2人に1人が応募している計算になる。
2094 9.11 AM 2:12
「副局長! 来てください。 第三セクターのエレキテルパーソナリが・・ 閉じないんです。」
まったく。
ようやく仮眠がとれるとおもったらこれだ。
やれやれだ。
日が落ちた真っ暗な部屋は周囲のビル郡からの眩しいばかりの光で色とりどりの虹彩を漆喰でできた情緒ある天井に描いている。
顔にかけたタオルをとらずに、ソファーからひらひらと手をふりながら答えてやる。
「第ニセクターがつかってんだろー。 緊急事態ならアインに連絡とって閉じてもらえー・・・ 第ニが落ちたら使えるはずだ。
第ニのほうが期日がちけーんだ。 あっちを優先しろ。 ・・・ ああ、ついでに連絡がついたらフェルガノスのコピーもらえ。
ついでに、VR試験のほうからもデータもらってサーバーに落とし込んどけ。 あと・・・ なんだっけ。眠らせろ。」
分かりました、と自動ドアから顔を出した頭部にある一部分においてやや欠損症状が見られはじめたぽっちゃり系男子、部下の杉浦が青ざめつつ走り去っていく。
やや遅れて自動開閉のドアが閉まる音が響く。
ソファからだらしなく左手をぶらんと放り出し、長くスラリとした足をソファーの上で組み直す。
顔を横に向けて窓を見ると、黒と銀で彩られた美しいいつもの光景が広がっていた。
地上から見ると対を成した巨大なタワーに見えるこの超高層ビルは世間からはレイガースタワーと呼ばれている。
レイガース社旧日本支部の総本山である。
今では レイガース極東地域支部と名前が変わっている。
レイガース社は基本的に内部で開発を行っているわけではない。
取り扱う分野はそれこそ100を超える分野を幅広く取り扱っているが、レイガースはアイデアを出すだけである。
生産など下請けに出せば良いのだ。そして、資金を提示し、下請け同士でコンペさせ、一番良いものを採用する。
コストパフォーマンス的には実に効率が良い。
大企業ならではのもの、だが。
生産を他社に割り振るとはいえ、莫大な事業数のため、毎日の来社数は恐らく東のほうにある、とある遊園地の数を超えるであろう。
超過密地帯であり、それなりのリザルトが出せていないとブースの一つさえ取れない。
個室が与えられるなど限られた一部の人間だけだ。
そんな日本一といっても過言ではない超高層ビルディング78階の一室でぐーたら 寝ている男がいる。
(あと一週間か・・・・。)
万全は期したはずだ。
度重得るテスト、組織の編成に同期のテスト、宣伝告知、システムのヴァリデート、各社への見積もりに決済、決算シミュレート、テスターチームへの配慮、またそこの責任者からの仕様書提出、著作権侵害を犯してきた某中華企業への損害賠償訴訟への手続き・・・。
ガシューン。
またもや呼び出し音すら鳴らず、かわりにドアの開閉音が鳴り来客を告げる。
荒々しい靴音が鳴って、顔に掛けたタオルを剥ぎ取られると、柔らかい感触が唇に押し当てられ、歯があたってガチンとなる。
「下手くそ。」
「あら、起きてたの? 寝てても起こすわよ。」
「眠い、寝させろ。 相手は今度してやる・・・」
「それどころじゃないのっ。 アンタんとこの小デブちゃんが第3セクターにフェルガノスのコピーを移す際にバックアップのほうをあげちゃったのよ。 こちらかは操作できないし、なんとかしなさい。天才でしょ!」
「なんとかもなにも俺はプログラマーじゃねえ~・・・ おまえが言や~いいだろが。」
「アンタんとこは本部の直轄部門なんだからアタシが入って動かしちゃったら問題でしょうが。」
「天才も睡魔には勝てないのだ・・・」
ガンっ とソファーを蹴りつけられ微振動をたてた。 高級ソファーを支える脚部の木目に傷がいった。
男は惰眠を貪っていたのが嘘のように飛び起きて、屈み込み、傷が付いた部分をさすりながら恨みがましい声をあげた。
「ああっ 俺のステファニーちゃんになんてことをっ!!」
「だまらっしゃい、家具ヲタク。 もっかい蹴るわよ。」
「や、やめろおおお! うら若い乙女の肌に傷がいくことがどんなに酷いことかわかっているのかっ」
「・・・ソファーに名前をつけるだけではあきたらず、乙女扱いするアンタのこの変人ぶりをアンタが通りすがるたびに羨望のため息を漏らす女性スタッフ陣にみせてやりたいわ。」
「まあ、俺は天才だし、イケメンだし、年収は軽く1億超えるし、今をトキメク天才だからそれは仕方ない。 2回言ったのはわざとだ。」
と男はナルシストなことを呟きつつ、ふぅ~ふぅ~と息をソファーの脚部にかけてさすっている。
ドゴっ 決して小さくない音が部屋に反響する。男がさすっていた側と逆の脚部がスレンダーな美しい足から暴力的な音を立ててソファーが吹っ飛んだ。
「~~~~!”#$$(($! 」
言葉に鳴らないわめき声をあげて、女性に掴みかかろうとするが、壮麗な紅いスーツに身を包む女性が影となってブレると、瞬間的に男の足を払う。両足を見事に払われて顔面から床に口吻しようとするところで男は両手と全身のバネを使って見事な側転をし、着地をすると
髪が舞い上がり男とは思えない美麗な顔がのぞく。 しかしながら、目元には幾分か水分が見て取れる。
よっぽどソファーが大事だったらしい。
涙目になっている男は足払いを受けたことに対しては全くきにしてないようだ。
どうやら この男女の間ではこういった出来事は日常茶飯事と見て取れる。
一方、足払いをかけた張本人はスーツを片手でパンパンと払いながら直立する。
素晴らしいスタイルが窓から差し込む街の光に照らされて輪郭を現した。
ライトが消してある真っ暗の部屋で顔こそ分からないが、さきほどのやり取りの声を聞く限り、さぞかし麗しい容姿に違いない。
「相変わらず内勤ばかりだってのに反則的な身体能力ね。 テストチームなんて作らずに自分でテスターやればいいのに。」
「ふん。 どこの世界にも俺より上なんていくらでもいる。 俺は天才だが、一分野を極めた天才には勝てん。 動作テストの責任者、かつ第一チーム長であるおまえにもな。 しか~し、天才は天才を使ってこそ真の天才なのだ。」
「分かったよ、真の天才さん、それなら天才らしくとっととフェルガノスの件、処理して頂戴。 あれが滞っちゃうと最終動作テストのチェックに入れないのよ。 まかせたわよ、露瀬。」
それだけ言うと、美しい影は颯爽と踵を返すと入り口の扉から出て行った。
廊下を照らす光源によってようやくその影が姿を明瞭とし、美しく艶やかな腰までかかる黒髪を揺らしながら、
スタイルバツグンの背後姿が分かる。
自動ドアが締まり、部屋が本来の暗がりを取り戻してから男はポツリと呟いた。
「ステファニー・・・」
露瀬と呼ばれた黒髪長身の美麗夫から一筋の水滴が流れ落ち、敷かれてある豪奢なカーペットの一部を変色させた。
「ああっ、 レリーナ、君の肌に染みがっ!!」
つい15分前までは静謐だった情緒溢れる空間はドタバタと騒がしい音を立てて その雰囲気を台無しにしていた。
2094 9.11 AM 2:19
「ヴぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「ヴァヴァッ、ヴァーーーーーン!」
奇怪な声を挙げて、フルフェイスマスクを被った小柄な人物が広大な室内で優雅なダンスを踊っている。
相手が誰もいないため、何の事情も知らぬ人が見たらただ単なる発狂した人間にしかみえない。
室内を縦横無尽に駆けまわり、時折数メートルはあるであろう天井の中ほど跳躍したかと思うと、腕や足を洗練された動きで大気を切る。
さながら なにかの相手をしているかのようであった。
目が追いつかないほどの立体的な動きが不意に止まると、全身タイツのようなピッタリとした白で統一された服装の小柄な女性がヘルメットを脱いでまだ幼さが抜け切らない可愛らしい顔が現れる。
その表情は少し憮然としている。
癖がかかったセミロングの金髪を指先に絡めながら、片方の腕でヘルメットを脇にはさんで室内の一角へと向けて歩き出す。
壁に備え付けられたヴィジフォンの一部分に瞳で認証し、画面の向こう側に現れた黒髪、赤目の美女に文句をつけた。
「ちょっとぉ~、今いいとこだったんだけどぅ? 突然切るならその前になにかいってよねぇ!ナミ姉!」
「ごめんなさい。 今さっき我が社一のナルシスト馬鹿に話しをつけてきたわ。 もうすぐしたらフェルガノスの動作テストに入るわ 」
「およょ~! まってましたあ! それにしてもロゼ兄も抜けてるわね! でもさー? あたしはよくわかんないけどー
バックアップって本物の予備みたいなもんなんでしょ~? テストしてもよかったんじゃないの、時間もないし」
「そうよ、普通はね。 ただあの馬鹿のとこ、通したデータは大抵あのド馬鹿が趣味の一貫でなにかしらいじくりまわしてるから、もともとのデータがあるものもあれば、 もはや改竄されて原型留めてないものまであるわ。 キークリスプおぼえてるかしら?
序盤にでてくるハチのモンスターだけど。 あれのバックアップがどうなってるかしってる?
グラフィックまでご丁寧にイラストレーターと3DGソフトウェアを使って変えられているのをはじめとして、プログラムの内部数値いじくって速度は3倍に近い、亜音速で飛来してくるわ。あげく針のCT数まで0にしてるから間を置かずして針を連射してくる。 あんなのゲーム後半でも倒せないとおもうわ。
趣味と仕事を混ぜるのはほんとやめてほしいわ~・・・
話がそれちゃったわね。 つまりフェルガノスも変態的な改変が加えられている可能性が高いの。そんなんでテストしても無意味でしょ?」
「あははー ロゼ兄らしいね~! 今度そっちとやらせてもらえないかなあ」
「・・・勤務時間内なら考えておいてあげるわ。 着替えて74階の第一セクター管理室にいらっしゃい。 先にいってるわ」
「は~~い!」
元気いっぱいの声を背中に浴びたところでナミ姉こと、萱野ミナミは第一セクターに向けて歩き出した。
彼女とさきほどまでしゃべっていた小柄な少女の名前はエリシア・ルートヴェルヒ。
名前のとおりドイツ系の血統を持つ。
幼い顔立ちなのは当然だ、彼女はまだ16歳である。
ただし、その運動神経は常軌を逸しており、彼女が抱えるチームでも戦闘能力、俊敏性、状況判断能力は
トップクラスだ。 扱える予算を一時的に空にしてでも某西方諸国連合国軍の研究施設から引っ張ってきた彼女の切り札の一つ。
エレベーターに向かう途中で廊下の向こう側から3Dテストルームのプログラムチームの身長差が激しい歪な三人組が歩いてこちらに向かってきているのがミナミの目にとまる。
「お疲れ様。」
「 っ! お疲れ様です! 萱野チーフ!」
「お疲れ様ですっ!!」
「・・・ おつさま~。」
挨拶を交わし、すれ違い、18基あるエレベーターのボタンを押し立ち止まる。 廊下の奥からさきほどすれ違った男達のなにげない会話が耳に届く。
「萱野さんと挨拶しちゃったよ~~・・・ くぅぅう たまらん。」
「ああ、いいよなあ 萱野チーフ。 一回でいいから抱いてほしい。」
「・・・抱きたい、じゃないんだ?」
「でも、露瀬副局長とデキてるって話だぜ?」
「身のほどはわきまえているぞ。」
「副局長なら・・・許せる。我儘だし、ナルシストだし、横暴だけど、あの人にならついていきたいっ。
一昨日よ、俺の女房が出産するって緊急連絡があったんだったんだけどよ、”落ちるエルタノルティア”の最終調整でどうしても
ぬけられなかったんだ。 そしたらよ、副局長がよ、”俺がやっとくからテメーとっとといってこい!”って。
まじカッコ良かった。 俺 あの人になら掘られてもいい。あの人、ほんとなんでもできるよなあ。
つーか、あの二人が一緒に歩いてるとこみて割ってはいろうとする勇気ある奴いんの?」
「・・・アイン。」
「容姿的には見劣りしないけど、無理だべ。 アインさん、スキルはこの世界常識を2個ほどすっ飛ばしてるけど、極度のあがり症じゃん。
口説くとこなんて想像できないんだけど。」
「・・・電子メールとライン、見た。」
「まじかよ! kwsk。 つーかよ、アインさんといえば、アインさんのスライラインの横の来客駐車場の一角に黒塗りの珍しいタイプの
メルセデスが止まってたなあ。 そこからでてきたのは普通のスーツ着た男だったんだけどよ、 もてなしてのが局長だったぜ?
一体誰だったんだろうな。」
「最上階引きこもリーニの局長が? 珍しいこともあるもんだなあ。」
チン。
エレベーターの到着音が鳴って、控えめに装飾された扉が開く。
エレベーター内に敷かれた柔らかな絨毯をハイヒールで踏みつけた感触を楽しみつつ、ミナミは独り言ちる。
( あの馬鹿、だから3連続徹夜なんて無茶苦茶なことやってたのか。分単位で緻密にスケジュールこなして優雅に休憩時間を家具と過ごす
だなんて間の抜けたこといってたあいつらしくないっておもってたのよね。 納得。 それにしても、局長に直接来社した相手に対して局長自ら
出迎え? 秘書を通さず、私達に告知もなく。 なにかしら・・・。 )
エレベーターの数字が徐々に若返っていき、74を示したところで扉が開いた。
----> 2094 9.10 PM 10:19
その階のエレベーターは一基だけである。
扉が開くと二人の男が大理石でできた廊下に靴音をたてて、突き当たりにある重厚で金の装飾がなされたアンティーク調の入り口へと向かう。
秘書だと思われる女性が一礼して入り口の扉を開けると、さきほどまでのレトロ感とはうってかわって、近代的なアーティスティックな執務室が男たちを迎えた。
天井は全面ガラス張りとなっており、そこが最上階だということを示している。
白い髭に総白髪という年齢を感じさせるが筋骨たくましい男は自ら扉を閉めると、先に部屋に入った金髪碧眼の若い男に頭を下げた。
「この度は自らご足労おかけしまして申し訳ありません。 して、 どういった件でボディガードもお連れなさらず、玉体をお運びになられたので?」
「そう固くなるな。 篠崎局長。 私は敬語は苦手だ。特に日本語はな。」
「っは。」
驚いたことにスーツを着ているとはいえ、着崩した軽薄そうな若い男に対して貫禄を感じさせる初老の男が謙っている。
本来なら局長が座るべき、実務的な椅子にドサリと腰を下ろすと軽薄男は金髪をかきあげながら、横柄にも机に足をのせる。
「どういった件? 君は本当に察しがついていないのかね?」
「いえ、恐らくは・・・と思いいたすところがござ・・・、思うところがありますが、一人で要らした理由がわかりかねまして。」
「何、簡単な祝辞と、変更をな。」
その言葉に初老の男の目が輝くが、すぐに気を引き締めるように元の真摯な顔つきにもどり、神妙そうに言葉を吐いた。
「娘の転院が認められたのでしょうか?」
「そうだ。 まずは、おめでとう。」
「変更とは例の件でしょうか・・・?」
「もちろんだ。 ただな、転院を認めただけであってそこに娘さんがい続けられるかどうかは君の働き次第だな。全世界より先駆けて、ノアの最先端を行くこの東地域支部において、クローズドβ対象にここの全職員を追加する。
理由は分かるな?あとは君の善処に期待しよう。」
篠崎局長と呼ばれた年齢を感じさせない男はその厳粛な顔つきに似合わず玉のような汗を浮かべていた。
胸元からハンカチを取り出して、額の汗を拭き取ると、内心で思ったことを飲み込んで 呟いた。
「承りました。 しかし、計画実行にあたって、アイン氏も追加するので? 彼はさすがに気づきますぞ。 なにしろ実行するプログラムを携わる人間なので。 」
「大丈夫だ。 彼には全データを本部に移管する”道”を作ってもらっている。
彼の変わりは計画発動前日にこちらに送り届ける。 彼はなぜか当日いなくなるが、それは君の感知することではない。 」
っは・・・
と頭を下げつつ、再び額から鼻梁へと流れ落ちる汗を拭く余裕すらない。
自分はとんでもない悪魔と取引してしまったのではないだろうか。
だが、もう引くことはできない。
今年で2歳になる娘は悪性のWPW症候群を患っており、心房細動の状態にある。
2000年初頭とくらべ医療技術が格段に伸びたといっても、それは最先端である旧アメリカ、西方連合国の話であって日本では最先端に設備があっても、それをとりあつかえる医師がいない。
かねてから、西方連合国の病院に転院させる話に、この軽薄そうな本部の男に目をつけられたのはもう1ヶ月前になる。
彼はレイガース社を構成する旧2大財閥の片割れ、実質経営部門と医療部門、電子機器を扱うオレンジ社の跡取り息子であり、
レイガース社においては7席ある常務取締役の顕職についている。
東支部の局長如きが対等に口の聞ける相手ではない。
高度な心臓治療技術を持つ外科を持つ病院にことごとく転院を断れた理由は・・・この男の差金だ。
そして、転院が認められたということは、実質上 この男の持つ鎖に縛られることを意味した。
とはいえ、善良の心がなくなったわけではない。
彼の言う計画がどういうものか・・・ 分かっているのは自分を始めとして両手の人数を超えないであろう。
娘の治療と引き換えにした計画の全容は、こうだ。
クローズドβ開始として、電子上の世界へと旅立つ1億5千万人を電子の世界へと転移させる。
実質上、電子世界にリアルの個体情報を出力させるシステムは完成しており、そちらへ向けて個体ごと送り込むシステムは秘匿されたものである。 それを大規模な実験としてノアのクローズドβで行うというのだ。
これは正気の沙汰ではない。
現実の世界から1億5千万人もの人が一時的に消えることになるのだ。
もしかすると、一時的ではなく永久かもしれない。
ノアはゲームとはいえ、極めてリアリティのある別世界に近い。
とはいえ、適合できるかどうかなど 試していないのだから実質分からない。
成功したらそのデータは極東支部ではなく、彼の所属する西連合支部からの発表として行われ
彼は社内の序列をさらに一歩おし上げることだろう。
それだけの価値が ノア にはある。
実際、極東支部が他の支部に先駆けて行われるのは、彼の部下であり、右腕でもある露瀬の力だ。
彼はまごうことなき、天才だった。
人身を掌握する技術、適材適所、卓抜した管理能力、開発能力 そして、彼自身の能力。
彼に自分の席が取って代わられることなど、当たり前のようなことに思える。
それほど彼は突き抜けているのだ。
昔なら、どんな手を使ってでも自分の席を守ろうとしたに違いないのに、娘のことだけでなく、
彼によって取って代わられるなら それもいいと思わせるだけの魅力が彼にはあった。
問題があっても構わないのだろう、全責任は東域支部レイガース社の暴走によって片付けられる。
おそらく、自分はそのときのスケープゴートとして、全世界から非難を浴び、場合によってはこれからの一生を牢獄で過ごさなくてはいけないかもしれない。
だが・・・ 構わなかった。
娘が助かるのならば それで。
これから起こる未来への出来事に震えながら、彼はそれでも決心したかのように顔を挙げ、机に頬杖をついている男に言葉を投げた。
「なにとぞ、 娘のことを・・・お願いします。」
「ん? 安心したまえ。 君の娘さんは病院機構のトップであるグレニック医師とスレング麻酔医、天才外科医として名高いアルソニック女医が
直接執刀してくれる。もし助からなかったとしたら 天命だ。 諦めてくれ。」