信徒 2
悪魔の存在をはじめて知ったのは、シェルドゥルファトムがまだ小さな子どもだった時分だ。その頃シェルドゥルファトムは町でただ一つの教会の司祭のもとで暮らしていた。それなりの大きさの教会だったので、二人のほかに、掃除婦や、どこからか派遣されてきた修道女や、シェルドゥルファトムと似たような境遇の子どもらが、身を寄せ合って暮らしていたのだ。
静かで、穏やかで、変化のない、少しだけ居心地の悪い思いに眼をつぶれば、十分以上に恵まれた生活だったと、シェルドゥルファトムは振り返って思う。それはあの男が教会の生活に入り込んできてからも変わらなかった。あの男がいたかどうかは、あまり気にしないことにしていた。たとえあの男がいなくても、シェルドゥルファトムは己がやがて悪魔のもとにたどり着いたであろうことを確信していたからだ。
ともかく、いつからか教会にはあの男が住み着いていた。シェルドゥルファトムは、説法を説くでもなく、ただいたずらにのらくら暮らしているふうにしか見えない男が、なぜ教会で寝起きすることを許されているのかを知りたがったが、周りの大人は訳知り顔や嫌悪の顔を見せはしても、決して理由までは教えてくれなかった。見てくれの良い男だった。いつも何かから隠れるように背を丸め、日の光を避けているきらいがあったが、ときに司祭に命じられ、それなりの格好をさせられて、夜の町に消えていく男の背中を見たことがある。シェルドゥルファトムは男が抱える秘密の価値について思いを馳せていた。推量ではなく、ほとんど確信に近い思いで。
その秘密はきっと疚しいものなのだ。罪を犯している者の香りがする。背徳の業がシェルドゥルファトムを惹きつけた。外見の若々しさに不釣り合いな、老人のような眼も気になった。そうこうしてシェルドゥルファトムは当然の顔をして男にまとわりついた。
「坊主のしつこさも大概だな」
シェルドゥルファトムはよくそういう言葉を受け取ったものだった。
「知りたがりの欲は信徒を教会の道から遠ざけるだろうよ」
その日もシェルドゥルファトムにとってはいつもと同じ日だった。秘密のしっぽを捕まえようとして、適当にあしらわれる。シェルドゥルファトムがもっと小さかった頃、教会の門をくぐり信徒になり、教会の影に住む男を意識にとどめた日から続いている、当たり前の風景。だから、男が教会が説く無欲の道を引き合いに出したあと、奇妙に顔を歪めてみせたのを目の当たりにして、驚いたのだ。男はシェルドゥルファトムの頭をなでた。今まで一度もしたことがない、人間らしい手つきで、シェルドゥルファトムに動揺を与えておいて、言い放った。
「坊主は良い顔をしているなあ。悪魔が好きそうな顔をしている」
シェルドゥルファトムは黙ったまま男の眼を見返した。何を考えているか分からない顔つきだ。大人が子どもを傷つけるつもりで放つ言葉ではないような気がしていた。「父なし子」「アンバーラんとこの罪子」といった言葉とは違う。だが教会の司祭がシェルドゥルファトムに向けてくれる慈悲のようなものとも違う。シェルドゥルファトムはとまどった。向けられている感情の正体が分からない。
「悪魔は誰の前にでも現れて、それなりの代償を支払えば、望みをかなえてくれる」
男は秘密の一端を共有するように、シェルドゥルファトムの耳元でささやいた。興奮を押し隠して、シェルドゥルファトムは小さな頭で考えた。悪魔……それは、ひもじいときに、ささやかな労働を対価に、パンを分けてもらうようなことだろうか? シェルドゥルファトムの手足が伸びて、食べ物が足りなくなってきたのに従って、司祭はそういったことをはじめだした。
「司祭さまは悪魔なの?」
いざ口に出したあと、シェルドゥルファトムは自分の答えが間違いらしいと気づいた。悪魔、と口にしてみて分かった。悪魔という言葉が喉を通り抜けていくときの響きは、まがまがしく、それでいて甘い。まるであの人の名前をこっそり呼んだときみたいに、陶酔で頭がしびれたみたいになる。司祭がもたらす安らぎ、それから居心地の悪さとは、まるで対極のの感情だ。司祭は悪魔ではないし、悪魔は司祭ではない。
(だけど悪魔は、ミスラかもしれない)
その思いつきはシェルドゥルファトムの胸を高鳴らせた。
(ミスラが悪魔! 誰のまえにでも……僕のまえに現れるかもしれない!)
シェルドゥルファトムは男に笑いかけた。男もシェルドゥルファトムにほほえみ返した。もはや男と男に類する秘密はどうでもよかったので、男の手が無遠慮にシェルドゥルファトムの体をまさぐりはじめても、シェルドゥルファトムは気にしなかった。精一杯の媚びを含めて、男に聞いた。
「ねえ悪魔に会うにはどうすればいいの?」