ミスラ 5
ミスラは人形だ。たとえ疑問や笑みを表情に浮かべたとしても、浮かべたつもりになるだけで、硬直した顔は動かない。指で自分の顔を触って、動揺を寄せ付けぬ完璧に整った造作を確かめたあと、ミスラは手を除けた。ミスラの前に立ちふさがるキキオンをやめたかもしれないものを見た。
(私が誰で、ここがどこか分からない? さっきと声は違うかもしれないけれど)
問い返して、ミスラは男の眼を覗いた。昨晩と同じ眼をしているようにも見えるし、他人の眼にも見える。嘘を見抜くなどという芸当ができたなら、演技なのか、救いのものが全てを忘れて悪魔殺しがご破算になったか分かるだろうが、ミスラにできるのは思いこむことくらいだ。悪魔の力と自分の犠牲を信じることだ。悪魔が男を遣わした。男はミスラの願いを叶える救いのものなのだから、たとえどの道を通ったとしても、最後にはあの悪魔を殺してくれるはずだ。
(私の名前はミスラ。ここは古都ウラシルの白髪城)
「おまえがミスラと名乗る人形で、ミスラと名乗る人形がここを白髪城だと言ったことは、覚えている!」
言葉の続きは、ほとんど攻撃的な気勢で遮られた。ようやくミスラは思いだした。月のない夜、燃える第五王女の館の傍ら、炎が舐めた男の顔は確かに憎しみにいろどられていたのだ。
「悪魔め!」
あびせられた罵声の矛先が自分であることに気づいて、ミスラは瞬いた。男の手が素早く伸びた。肩を強く押されて、ミスラはなすすべなくしぼんだ花たちの上に尻もちをついた。物干しから落下した時と同じ痛みを心臓が訴えてくる。
(心臓が揺れるから止めてくれないかしら)
ミスラの訴えは退けられた。もう一度突き飛ばされたときには、花畑に倒れたミスラの上に男が乗っていた。ちょうど昨晩ミスラがやったのと立場を入れ替えた格好で、ミスラは少し楽しくなった。楽しい気分のまま、ミスラは内心を吐露した。
(キキオンをやめたわけじゃないのね。よかった)
途端、有無を言わさぬ手つきで胸倉を掴まれる。夜明け前の空気はキキオンの顔を青褪めさせていた。ミスラの襟を締め上げたまま何も言わない。眼だけはせわしなく動いて、まるでミスラの一つ一つを確かめているように見える。何かを探しているのかもしれない。誰かとの類似を、あるいは差異を探しているのかもしれない。昨晩は闇を照らす神秘の花にまやかされ、見えていなかった真実が、今のキキオンには見えているのかもしれない。
「なぜ」
間近で突然発せられた声を聞いて、ミスラは布にくるまれた自分の心臓がすくんだことを感じとった。身に覚えがある。この声は知っている。見たくないもの、知りたくないことを、確かめざるを得ないときにもたらされる苦痛だ。本当はとうに分かっていたことを、改めて噛みしめる、自分の一番柔らかいところに、自らの手で焼きごてを押しあてるような痛みだ。
ミスラは人形の鼻で花の香りを感じとっていた。下から、上から、まとわりつき絡みついてくる。花を下敷きに寝ていた男は当然のように甘い花の移り香をまとっていて、ミスラは燃えてしまった第五王女の屋敷のことを、少しの間忘れることにした。
「なぜ、その姿で現れた……」
苦悩をありありとにじませた声を絞り出したあと、キキオンはよろめきながらミスラを解放した。そのまま、息を荒らげて地にうずくまる。背を丸めて震えている。泣いているのかもしれない、とミスラは思った。夜が明けるまであと少しだった。




