兄 2/犬 エンディング
本当の最初には、彼は自分が犬なのだと思っていたが、妹と暮らすうちにその誤解は解けていくこととなった。彼は犬ではなかった。彼は妹の兄だった。本当の最初の頃は、いなくなった犬のことを気にかけている時間が一日のうちのいくらかを占めていたはずだが、それも日を追うごとに減った。牙と鼻と毛皮を頼りに獲物を求め、四足で地を駆けた記憶があったような気がしていたが、それも気のせいだと切り捨てるようになる。
「お兄ちゃん、なにぼんやりしてるの?」
「ぼんやりしてたか?」
「してた、してた! もう、まだあの犬のこと気にしてるの? 優しいんだから……。お兄ちゃんが気にすることないよ。お兄ちゃんは、わたしを助けてくれただけだよ」
彼が犬のことを思い出したり、知るはずのない犬の最後の記憶を夢に見たりすると、妹はお決まりのように、彼を励ましにきたものだ。彼が薪を割る手を休めて木陰に腰を下ろそうとすると、妹は嬉しそうに同じ木陰に入りこんできたものだ。
風は穏やかに葉を揺らし、木漏れ日は二人の上にふりそそいでいた。他愛もない話をしばらくしたあとに、妹はもういかなくちゃと立ちあがる。スカートにはりついた草の葉を払って、手を振って真昼の町に戻って行く。町で二番目に大きなパン屋の窯が妹の手を待っているのだ。
「レフィカ」
呼ぶと妹は振り返る。悪戯めいた仕草で人差し指を立てて笑う。
「もう、レフィカって誰? 今日のわたしの名前はチャリオットよ、お兄ちゃん」
「昨日まではレフィカだったのに?」
「チャリオットって言ったら、チャリオットなの」
「午後もがんばれよ、チャリオット」
「はぁーい。お兄ちゃんも鉈を滑らせたりしないでね!」
太陽に負けないくらいに顔を輝かせて、妹は身を翻して駆け去っていく。木の幹に背中を預けてまぶたを閉じると、犬の記憶が、これで最後とでもいうように、常にない優しさですり寄ってくるのが分かる。穏やかな気持ちでいた彼はそれを甘んじて受け入れる。
……そうだ。犬は腹を空かせていたのだ。犬は人間と人間の暮らす町が怖かったので、外の野山を駆けずって、鼠や、猫や、鼬や、太った芋虫や、木の根をかじったりして暮らしていたのだ。ある雨の日に崖から滑り落ちて足の一本を折るまでは、そうしていたのだ。飢えが犬の身体に幾万もの針を差し込んだ。一本、一本、もう一本、痛みを切り離す針が刺さって、犬はついに折れた足を引きずって身を起こした。その日は朝から、川向こうから漂う匂いがあって、犬は匂いの正体を暴く必要があったのだ。匂いはきっと身を襲う針を抜いてくれるだろうと本能が教えてくれたのだ。はじかれたように駆けだして、犬は死に物狂いで突進した。勢いのまま流れる川に飛び込む。水を飲みながら対岸に泳ぎ着く。
匂いの元、旨そうなそれは、川のほとりにいた。
犬はその時、叫び声を上げて飛びかかったはずだった。何度叫んでも足りないくらいに涎をこぼして……ふと横を見ると、犬のすぐ横に、息がかかるくらいの距離に、裸の人間がいたのだった。犬は見知らぬ場所にいた。生まれてからずっと四足で踏みしめてきた親しい地面はどこにも見当たらず、犬はぴんと四肢を伸ばして薄闇の空間の只中で硬直していた。人間のほうも犬と似たありさまで、野生にあるまじき無防備さで、身体を丸めて、動揺のまま震えている。薄暗がりの見知らぬ場所で一匹と一人は一瞬眼を見交わした。……目が覚めると、犬は、彼は、涎を口の端から垂らしたまま、川べりにへたりこんでいた。良い匂いのする獲物の前で座り込んでいた。一瞬で、犬は、彼は、犬と彼が犬と彼の中に混ざり合っていることに気づいた。犬は混乱してその場を逃げ出そうと足掻いたが、彼は犬をなんとかなだめてその場にとどめた。人間の記憶がそうさせた。彼は追い出されてきたのだ。犬の中に彼が入ってきたのは、追い出されてきたからで、そうと願ったのは彼自身で、彼は見届けなければならなかったのだ。
本能が犬を振り返らせた。
犬の眼は見知らぬ人間が鉈を振り上げている様子を見た。
彼の眼は彼自身が彼に明確な殺意を向けて、愛用の鉈を振り上げている様子を見た。
夢はいつもそこで終わる。犬の夢は何度でも同じ軌跡をたどり、同じ光景を彼に見せ続けた。最後の瞬間、犬が哀れな声で小さく鳴くところまで同じ。犬の夢を追い払うと彼は木陰から立ち上がった。夢にしてはよくできている。本当によくできている。彼はあくびをかみ殺して、午後の休憩をやめた。