ミスラ 3
救いのものはそうと呼ばれることを拒んだ。
(ではどう呼べばいいのかしら)
「おまえから一番遠いところにある名で呼べばいい」
ミスラは救いのものの様子を見ていた。濡れた外套を脱ぎ、花畑のわきに植えこまれている灌木の下に立つ。鞘走りの音がして、樹から何かが落ちてくる。それを二度三度と繰り返して、救いのものは地に落ちたひと抱えのものを、いまだ燃え盛る建屋の方へ運んで行く。
(一番遠いところとはどこのことかしら。珪化の国?)
その国では、空も、海も、城も、人も、石でできている――珪化の国。約束された常世の国。誰もがその国を去らず、誰もが永遠の時を刻む、美しく残酷な国。
伝承に謡われる幻の国を挙げて、ミスラは少し笑った。人去りし古都ウラシルがまだ大陸の華王都ウラシルをしていた時分、流れの吟遊詩人や夜語りの婆が好んで語った珪化の国の伝説は、すでに現実に顕現してしまった。珪化は白髪城の最上階に端を発し、徐々にウラシルをむしばんでいる。やがて珪化は国境までたどり着き、この国全てを石に変えてしまうだろう。珪化の国は、ミスラにとってそう遠い場所ではない。
遠いところ。もうずっと前に南へ向かうと言って城を出た侍女がいた。西方の砂漠に行くと言った家庭教師がいた。北に知り合いはいなかったが、極東の海域に用があると言って旅に出た従兄がいた。そしてここには炎に巻かれて灰になった第五王女がいた。ほんの少し前まで自分の最も近くにいて、隙間なく寄り添っていたのに、今は火焔と煙に隔たれて、二度と手を触れることもできない。
(キキオン)
灌木から切り落とした枝から、葉を削ぎ落していた様子の救いのものに呼びかける。救いのものは枝を二本取って地に刺すと、二股に分かれた先にもう一本の枝を渡し、花畑に捨て置いた外套の所まで戻ってきた。
(ではキキオンと呼ぶわ)
「好きにしろ」
キキオンは外套を拾い上げ、水気を絞りながら、再び炎の傍の枝まで戻る。刺し渡した枝に外套を干していることを確認して、ミスラは自分の湿った身体のことを思いだした。花畑を出て自らもまた炎の元へ向かう。押し寄せる熱気は一時期よりも勢いを弱めている。朝までには熾き火になっているだろうか。簡易物干しの強度を確認しているキキオンの隣に並んで、ミスラも見よう見まねで枝を引っ張った。少し揺れる。だめかもしれないし、いけるかもしれない。
(私も干してもらえるかしら)
見上げるとキキオンは妙な顔をしていた。頭のおかしい奴だと思われたのだろう。ミスラは背伸びをした。両手でキキオンの顔を捕まえて引き寄せる。虚を突かれたような顔がこわばる。振りほどかれる前に、ミスラは言った。
(よく見て)
炎に照らされた瞳孔が、ミスラの姿を映している。ミスラの眼もまた、キキオンの姿を映しているだろう。見れば分かるはずだ。至近距離。炎のおかげで十分な光源もある。ガラスの目玉と、作り物の髪、人のものではない身体。一語一語を噛んで含めるように告げる。
(よく見て、私は、人形よ)
炎に照らされた瞳孔が、人形の姿を映して揺れていた。