ミスラ 2
――おまえは誰だ。ここはどこだ?
花のかんむりをかぶせられた男はミスラを見上げて、答えを待っている。
ミスラは満足した。男の発した問いが、悪魔の爪が引き裂いた虚無から生み落とされたものに相応しいものだったからだ。
(私の名前はミスラ。ここは古都ウラシルの白髪城、五の幹、六の枝の、二つある庭園のうちの、北のほう。あなたは悪魔の爪に引っ掛けられて、私の願いを叶えるためにここに召喚された。後ろで燃えているのは第五王女の館。火を放ったのは私)
男の水気を吸い上げた身体は、ミスラの声を濁流に変えていたが、ミスラは気にしなかった。人形の身体に多くを求めても仕方がないことは分かっているつもりだ。身体が乾いたところで絹がかすれるような声しか出ないだろうし、今だってミスラは満面の笑みを浮かべているつもりで、実際の人形の顔には何の表情も浮かんでいないのだろうから。
男は黙っている。ミスラの声に驚いたのかもしれない、話す内容に戸惑ったのかもしれない、泥水を啜るようなミスラの声が聞き取れないのかもしれない。ミスラは半身を起こした状態の男の前に膝をついた。また花が潰れる。
(あなたは私の救いのもの)
「救いのもの?」
復唱したはずみで、男の額にはりついた髪から滴が垂れた。
(あなたにはある悪魔を殺してもらう。あなたはやり方を知っているし、あなたは私の話を断らない。だから私の救いのもの)
悪魔、とミスラが口にした途端、暗い、濡れた眼がミスラをとらえていた。男の興味を上手く引くことに成功したことを感じて、ミスラは動かない表情で笑んだ。
「おれは悪魔の殺し方を知っているが」
言うなり、男はミスラを払い除けるようにして立ちあがった。濡れそぼった外套が影のように寄り添い、花のかんむりは乱暴に投げ捨てられる。男とミスラに押しつぶされた花の残骸の上に落とされる。
「それだけで、おれが話を断るはずがないと、なぜ言える。勝手な理由で呼びつけて……」
(悪魔が約束したからよ)
ミスラは笑みを深めた。
(悪魔は、私のもとに望みを叶える者を遣わしてくれると、そう言った。私は契約通りにものを差し出した。悪魔はそれを受け取った。つまり、現れたあなたが私の望みに反するわけがない)
ここまでは、悪魔がミスラに約束した通りにことが進んでいるのだ。約束通り、悪魔は、悪魔に憎しみを抱き悪魔を殺す手段を持つ誰か、をミスラの前に引きずり出してくれた。舞踏会を踊れなくとも、花を潰すだけの価値がある相手を釣り上げた。
(目的の悪魔は、一の幹、ウラシルのかんむりの、玉座に座っている。ここからだと登るのにも四日はかかるし、上の階層には結晶化した人が残っている。最後の扉は私にしか開けない……)
「悪魔は殺す。だがおまえの願いを叶えるためじゃない」
ミスラを遮る格好で、男は早口に告げた。
(そうしたいからそうするということ? あなた自身が悪魔を殺したいから殺す? 別に理由はどうでも構わないけれど)
ミスラは花畑から立ち上がった。そのとき、男の顔をもっとよく見てみたいと思わなければ、ミスラはさんざん踏み荒らした宵待ち草の放つかすかな光が、ずいぶん弱くなっていたことに気づかなかったかもしれない。花も生きているのだから、潰されて折れれば死ぬ。昼間蕾に蓄えられた光は、暁を待たずに死に向かっている。立ちあがった男の表情は暗がりにまぎれてよく見えない。ミスラは放擲された花のかんむりをもう一度拾い上げた。今度は男の頭にかけるような真似はせず、純粋な灯りの代わりに掲げて、救いのものの顔を確かめる。
花明かりに照らされるそれは、分かりやすい憎悪の形をしていた。