救いのもの エンディング
緑のよみがえった大樹が見る間に枯れ落ちていき、崩落してきた太い枝が妹そっくりの姿をした人形を押しつぶしたのを見ても、彼の心は動かなかった。死んだように硬直している。悪魔殺しを成し遂げたときに、得ることができると思っていたものは、とうとう手に入らなかったのだ。半ば分かっていたことだったが、彼は彼を支え続けていた最後の支柱が折れようとしているのを感じていた。かつてはそこに彼自身がいた。悪魔にしゃぶられた日にそれは妹に変わり、妹に捨てられた日にそれは悪魔殺しの使命となった。
そして今は何もない。悪魔殺しの昂揚は去りつつあった。身に覚えのある感覚は、妹を失った時のものだ。あのときは、代わりの憎しみを妹が与えてくれたが、今はそれもない。じきに彼は空っぽになるだろう。そう遠くないうちに。
足元が揺れ始めて、いよいよ城が崩れかかっていることを彼は知った。天上からの葉は降りやまず、あちこちから生木を割ったような、素敵な匂いが流れてくる。
とめどなく降ってくる葉を見上げていると、まるで自分のほうが樹の梢に吸い込まれているような錯覚を覚える。しばらく視覚の見せる幻に酔った後、彼は視線を前に戻した。そこには犬がいた。目の前に、あの犬がいる。前足を揃え忠犬のように座って、彼をじっと見ている。
「おまえか」
呼ぶと、犬は一つ吠えて応えた。これまで彼の視界の一番外側を徘徊していたはずの犬が、手の届く位置にいる。だが、彼には犬をどうこうしようという気は欠片も残っていなかった。
「お利口な顔をしやがって。おれの身体が欲しいんだろう」
犬が立ち上がる。尻尾をふって、断続的な息を吐く。
「やるよ」
裂けた顎から涎が滴り落ちる。なおも彼を疑っているのか、踏み込んでくる様子のない犬に、彼はもう一度言った。
「欲しいならくれてやると言ったんだ。こんなもの……」
大樹の鳴動は続いている。彼からほど近い地面が陥没して、潰れた人形と人形を潰した大枝が、下層に呑みこまれていく。何も感じない。犬が一歩足を踏み出した。溢れてくる本能の涎を裏切る理性の慎重な足どりで、彼の足元までにじり寄ってくる。犬の足が降り積もった葉を踏んでいる。彼は目を閉じた。葉を踏む軽い音が近づいてくる。微かな声が聞こえた。名前を呼んでいる。葉を踏む音だけが聞こえてくる。誰かが妹の名前を呼んでいる。犬の足が妹の名を呼んでいる。乾いた葉と柔らかい葉がこすれ合う音。妹の名前の由来。あの日から一度も思い出せなかった名前が近づいてくる。
「リスカ……フォロン」
彼は眼を見開いた。ちょうど、目の前まで来ていた犬が、彼にかぶりつこうと、地面を蹴った瞬間だった。顎を開いて、牙をぎらつかせて、獣が飛び込んでくる。
彼は犬の突進をかわしていた。犬が着地した足元で、また妹の名前が跳ねる。
「リスカーフォロン!」
叫ぶと、犬が怯んだように後退したのが分かった。犬の背後でも妹の名前が踊っている。妹はどこにでもいた。枯れゆく巨木の、樹冠のそこらじゅうで妹が飛びまわっている。思い出した。彼は妹の兄なのだ。兄妹を愛していた父母は、彼と妹を結び付けてくれる名前をつけた。
「大樹の鼓動。ウユルウド。おれの名だ!」
なおも周囲をうろつく犬に、彼は吼えた。自棄に陥ったはずの心が、我が身への執着心を取り戻していく。
「おまえは一度おれを手放した。誓ってみせろよ! 二度と手放さないと! できないなら、おれの前から消え失せろ!」
叫んだのと、頭上から人形を潰した時のような大枝が降ってきたのは、ほとんど同時だった。犬は悲鳴を一つ残して逃げ去り、それが圧死を逃れるためなのか、彼の咆哮に恐れをなしたのか、とうとう分からずじまいのままだった。彼は崩落する城の中で意識を失い、次に目を覚ました時には、大樹は完全に崩れ去ったあとだった。
瓦礫が彼を潰さなかったのは単なる幸運だ。だが彼はそこに奇跡を見出そうとした。彼ら兄妹の名を教えてくれた大樹が、今度もまた彼を助けてくれたのだと。
いつの間にか太陽は昇り、夜は完全に明けていた。新しい朝を迎えている。ウユルウド、と彼はもう一度呟いた。思い出してしまえば、その名は彼によくなじんだ。この名さえあれば、空っぽの中身を少しずつでも埋めていくことができるだろう。そういう予感がする……。
と、彼は腹部に熱い衝撃を受けて、倒れた。間髪入れず、頭を踏みつけられる。彼は、自分を踏みつける男を仰ぎ見る。仮面の男は、彼に向かって何事かを言ったようだったが、ずいぶん遠い場所からの声のようで、聞き取ることはできなかった。手足が痺れたように力が抜けていく。喉から生臭い液体がこみあげて、彼は倒れたまま血に噎せた。




