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珪化の国  作者: しおなか
悪魔の玉座
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ミスラ エンディング

 最初に気づいたのは、地面の揺れでもなく、幹の砕ける音でもなく、ではやはりと言うべきなのかもしれなかったが、匂いの変化だった。血の臭いではない。草原の匂いとも違う。

 ミスラの向かいで棒立ちになっていた男もそれに気がついたのだろう。不思議そうに四周を見渡している。

「夜明けか」

 首を巡らせている途中で気がついたのか、小さな声で言った。ミスラもまた夜が去りかけていることに気がついた。玉座の間を取り囲む松明の炎のために気がつかなかっただけで、もうずっと前から薄白い朝の気配は白髪城を包んでいたのだろう。ミスラは急速に視界が開けていくのを感じていた。白みはじめた夜に追いつこうとするように、変化を告げる匂いは徐々に濃くなっていく。

 悪魔が滅んで最初の夜明け。

 何かが起きるとしたら、このときをおいて他はないはずだ。

(樹の匂い……?)

 白髪城に植わっている樹はそれほど数も種類も多くない。家具のほとんどは石造りで、たまに木製のものがあっても古い年代物だ。真新しい生木の匂いを嗅ぐ機会はそれほど多くなかったが、口に出してみて、ミスラは確信を深めた。これは樹木の匂いだ。まるでそこらじゅうで片端から生木を切り倒したかのような濃密な匂いが辺り一帯に満ちている。

(でも、どこから?)

 つぶやいた問いの答えは自分自身でうすうす予感していた。ミスラは太陽が昇ろうとしている方角を見定めた。そこから駆けて来る。何かが来る。

 夜明けの空気を切り裂いて、正面から強い風が吹きつけてきた。白髪城に必ず訪れる、夜明けを告げる風だ。普段の通りの一日を過ごしていたならば、五の幹六の枝の第五王女の屋敷の寝台で、夢うつつに石の葉がこすれ合う硝子の音を聞いていることだろう。

 だが、ミスラが耳にしたのは響き合う高音ではなかった。

 導かれるように頭上を見上げる。おおい茂る梢を見つめる。葉と葉の隙間から夜明けの群青が覗いて見える。強い風が人形の髪を乱暴にかき混ぜる。視界にかかる金色の絹糸に眼をくらまされぬよう、ミスラは天を見定めた。

 最初は、夜明けの薄明かりが見せたまぼろしだと思った。

 だが、天上でざわめく梢の葉の音は。

(柔らかい音がする)

 ゆるゆると舞い落ちてくる葉の影の色は。

(緑の葉が降ってくる……)

 今やほとんどにわか雨のように葉が落ちてきていた。石の葉ではない、生きた緑の葉が降ってくる。大樹がざわざわと風に身を揺らせている。

 人形の首を縫い合わせていた糸が引きつる感覚を連れてきて、ミスラは自分が千切れそうなくらいに首を上向けていることに気がついた。逸る鼓動を落ちつけようと、胸に手を当てて視線を頭上から戻す。ミスラの向かいでは、救いのものが呆然とした面持ちで梢を見上げている。

 ふと、ミスラは救いのものの背後を見咎めた。めった刺しにされた玉座の後ろ、永遠を手に入れた王の姿がそこにはなかった。救いのものの脇を通り過ぎて、慎重な足どりでミスラは玉座の裏側に回り、ウラシリオロ王の最期を見た。

 王だった琥珀色の石は、砕けて地に転がっていた。王の残骸はミスラが見ている間にも急速に風化しているようだった。風が吹くたびに砂埃を巻き上げて、輪郭をおぼろげにして、やがては完全に吹き散らされてしまった。まるで最初からそこには何もなかったように。

 そのとき、予感めいたものを覚えて、ミスラは背後を振り返った。

 遠く地平の彼方から、最初の夜明けの光が射し込んだ。

 地上から遙か高い位置にある玉座の間を、下から突き上げるような朝日が照らしだした。絨毯を踏む足元も、絡み合う梢の枝も、降り続ける柔らかな葉も、全て光が暴きだす。

(そう。あなたの匂いだったのね)

 樹肌は普段の半ば透き通るような琥珀色をなくしていた。赤味の強い茶色は元の色そのままだったが、濃く締められた樹の色は、生木の持つそれにほかならない。悪魔は滅びた。時は動き出した。せき止められていた時の洪水は、白髪城をも太古の化石からよみがえらせたのだ。かつての一本の大樹としてそびえていたときの姿に。

(きれい)

 これを地上から眺めたら、どれほど荘厳な眺めだろうか。寂寞たる草原が広がるウラシリオロの大地に悠然とそびえる大樹の姿は、見た者の心を掴んで離さないだろう。これほど美しい樹を、ミスラは他に知らない。人形に姿を移して以後覚えることのなかった安堵が胸の裡に広がっていく。先ほどまで興奮に暴れていた心臓が穏やかになっていく。緩やかに、拍動が、静かになっていく。……冷えていく。

(待って)

 ミスラは喘いだ。

 心臓は確かに落ち着いていた。そう遠くないうちに脈打つことを止めてしまうだろうとミスラが自覚するほどに。

(まだ、私は……)

 玉座を離れて、ミスラは救いのものの元へと駆けた。彼は相変わらず梢を見上げている。ミスラの変調に気づいていないのか、人形への興味を完全に失くしたのか。分からないままミスラは黒外套にすがった。すがろうとして、虚しく空を切る腕を見た。人形の手足の制御は限界で、ミスラは絨毯の上に倒れていた。天上から降りそそぐ葉の雨が、埋葬土のように身体の上に降り積もり、やがてミスラの視界は落葉で失われた。

(私はまだダンスを踊ってない)

 大樹の葉に埋められたまま、ミスラは脳裏に閃く紅白の花を追っていた。こんなときにどうして思い出すのだろう? かつて第五王女の心を占めていたささやかな望み、宵待ち草の花畑を踏みつけて踊り明かしたいと願った日のことを。

 首を斬られたときにも似ている、全身が拡散していくような錯覚の中、ミスラは必死に感覚をかき集めた。

(右腕一本で良い。もう一度、這いずってでも、起きる力が……)

 ぴくりと腕が動いた。頼りない人形が、片腕で葉をかき分ける音が聞こえる。

(さあ、起きて)

 手が地面を掴む感触がする。仰向けの姿勢をどうにか作り、あとは身体を引き上げるだけ、という段で、突然襲ってきた揺れがミスラの足掻きを御破算にした。持ちあがりかけていた後頭部が再び打ちつけられる。

 ミスラは大樹が鳴動する音を聞いた。

 地響きとともに、生木が軋んで裂ける悲鳴のような音が聞こえてくる。

 ――知っているかしら。

 ミスラは思い出していた。つい最近、そう尋ねたのは、自分自身だ。

 ――木って育ちすぎると自分自身を支え切れなくなって潰れてしまうそうなの。この木も余程大きいでしょ。まだ石になっていなかった頃、この木は何度も潰れて、潰れたところからまた伸びて、繰り返してとうとうこんな大きさになってしまったのですって……。

 悠久の時を珪化木として過ごしてきた大樹が、生木に戻ればどうなるか。誰に訊くまでもなく、答えなど分かりきっている。もう一度ミスラは腕を振って、顔の上まで積っていた葉を押しのけた。青々とした緑の葉は、いつの間にか赤茶けた色に変じていた。

(そう。そういうことなのね)

 つぶやくと同時に、視界がかげる。枯れ葉の布団ではない。崩壊の只中にある大樹に降りそそぐのは、当然、無害な葉だけではないのだ。

 梢のどこからか剥がれ落ちてきた巨木の枝が、ミスラの身体を打ち砕いた。

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