ミスラ 23
第二王女の館を去り、二の幹九の枝の門をくぐり、ミスラは再び樹幹の螺旋階段に戻った。後ろにキキオンと松明の影を従えて、ところどころ崩壊しかけている石の段を避けながら最上階へ続く階段を登る。樹幹の内側を縦横に走っていた無数の螺旋階段が、徐々に合流を重ねてくる。松明の炎の外側から、不意の来訪者のように、交差する階段が現れては、既に踏破してきた足元の石段に混じってゆく。下層ではそれらの行く手が関所につながっていたように、二の幹ではこれが最上層への門、天上の梢に据えられた玉座の間へと続いているのだ。ミスラが覚えている限りでも、第五王女が玉座の間で父王への謁見を許されたのは、たったの一度きりだ。四日をかけて各層を登った。行きは気まぐれで呼びつけられたものと思っていた単なる労苦だけの道程が、そんな気楽なものではなかったのだと直ぐに思い知らされることになった。十二を迎えて直ぐの頃……。
と、足が欠けた石段の窪みに取られて、ミスラは現実に立ち返った。遠い昔、古い時代に造城された珪化木の城は、あちこちに崩壊の予兆が現れて久しい。当然のことだ……ミスラはこの城の寿命についてふと考えた。開祖がウラシルの民を率いてこの地に居を構えた王国の創世期は今は昔、何百年も前のことだと伝承されている。
悪魔が滅びて、停滞していた時が流れる水のように動きはじめたならば、いつかこの城にも終焉の時が訪れるだろう。雨に溶出する珪化木だ。永遠の時を同じ姿のまま栄えていくことは叶うまい。悪魔の円環で踊る限りは崩落の運命から逃れられているという見方もできるのだから、ともすれば、長い目で見るとミスラの行為は白髪城を……ひいてはウラシリオロ国を滅ぼす途上にあるのかもしれない。地上の楽園と謳われたとこしえの世、珪化の国を崩壊に導く致死の矢じりは放たれた。
「止まれ」
突然背後から聞こえてきた声が、内心を咎めたものかと、瞬間ミスラは身構えた。当然、くだらない危惧は裏切られ、ミスラはすぐにキキオンの発した警告の意味を知ることとなった。
階段の少し先に誰かの影がある。
まるで行く手を遮るように、石段の真ん中に立っている。松明を前に出すと、それは見覚えのある姿に化けた。炎に赤く照り返る鉄仮面を認めてしまえば、ほとんど色の見分けもつかない外套も元の黄橙色を思い出すことはたやすい。
(……信徒)
ミスラのつぶやきを、仮面の男は腕を広げて受けとめた。
「貴女にまたお会いできて嬉しい。我が名を呼んでいただく栄誉を得るまで、今しばらくの辛抱というわけですね」
(あのまま草原でずっと泣いていてくれて良かったのに)
「ご冗談を」
試すようにミスラは一歩前に進んだ。仮面の男は動かない。道を譲る気などまるでないように、泰然と構えている。
「おや、貴方……」
仮面の男が首を傾げる。仮面のまなざしをミスラから外して、彼の出現からずっと沈黙を守っていたキキオンへと向ける。
「何処かで会いましたね? 何処か……何処か……」
黄橙の外套から突き出した二本の腕が、仮面の表面をもどかしく掻き毟る。爪と金属がこすれあう不快な音が樹幹の薄暗い闇に反響する。戸惑うミスラの背後から、もう一つ、甲高い音が鳴る。既に馴染みの音になりつつある。それは鞘走りの音だ。
「おれはおまえを知らない。おまえに用もない」
キキオンが滑るように闇の中から抜け出してくる。ミスラの横をすぎ、前に出たとき、抜き身の刃が不気味に輝いた。それを血に飢えた獣の欲望のしるしだと人に教えられたならば、信じるかもしれなかった。
「どけよ」
有無を言わさぬ語調で吐き捨て、石段を登っていく。仮面の男は動かない。意味を為さぬ言葉をうわ言のように漏らしながら、まだキキオンを指して考えこんでいる。
「何処か……何処で……」
もう互いの距離はいくらもなかった。間に十とわずかばかりの石段を挟んで、遠い国に暮らしている者同士が対峙する。
「その顔」
瞬間、仮面の男が掻き毟る指を止めた。
「その顔。あの宿。……ああ、貴方でしたか」
ようやく合点がいったのか、揺れる白刃を前にして、仮面の男は顔を上げた。鉄仮面の下から、低い笑い声が漏れる。決して歓喜とは呼べない感情を含ませて、喉を震わせる。
「憎々しいお顔だ。貴方だ。よくよく貴方とは、最後の間近で会うようですね? なぜ貴方ばかりが……」
白刃が薄闇に閃く。
言葉ごと信徒を切り裂かんと迫ったキキオンの刃は、すんでのところでかわされていた。身を翻した仮面の男は、避けた勢いのまま石段を数段登ると、切り裂かれた外套の胸のあたりをつまんだ。水平に裂かれた布地を見て、また含み笑いをこぼす。
「我らが渇望も知らぬ身の癖の分際で、なぜミスラのおそばにいるのです。一度はミスラをみすみす失った貴方が」
キキオンは無視して石段を登った。
「不本意は貴方も同じですか。……ですが、今ばかりはこの縁、この邂逅に感謝します。貴方は私の元に来た。あるいは、ミスラが望むものを私のもとまで連れてきてくれた」
ミスラに軽く会釈をして、仮面の男は腕を外套の中に引っ込めた。再び腕を出したときには、どこに隠し持っていたのか、細長い棒のようなものが手に握られている。
ミスラの眼に見えたのは、仮面の男が棒の先端を素早く口に含んだところまでだった。次の瞬間、石段からキキオンが転がり落ちてきて、ミスラは混乱のままとにかく身体を受けとめた。もろとも転がり落ちそうになるが、とっさに腕を伸ばしてこれまで足を取られてきた石段の欠けた窪みに指先を突っ込む。幸い、ミスラの腕が関節から裂けるほどの勢いはなかったようで、キキオンを片腕で受けとめ、もう一方の腕を窪みに差し込んだ姿勢で、滑落は止まった。
「そのまま、抑えていてください、ミスラ」
仮面の男が、弾むような足取りで、座り込むミスラのそばまで下りてくる。
「貴女の望みは私が叶えて差し上げる。約束をしましたからね」
その段になって、ミスラは仮面の男が抜く手もみせぬ早業で、キキオンに吹き矢を撃ったのだと知った。手に持った棒の先端には穴があり、ちょうどその穴と同じくらいの太さの短い矢が、キキオンの顎の下に刺さっている。ミスラはそっと矢を引き抜いた。血が少し出た。キキオンは眠るようにまぶたを閉じて、動かない。奇妙なほどに呼吸は穏やかで、目覚める気配はない。
(何をしたの?)
踊るような足どりで、仮面の男がやってくる。
(……何をするの)
「おや、お分かりかと思いますが……貴女の望みですよ。貴女に首を差し上げるのです。この男の首が欲しかったのでしょう?」
吹き矢を後ろ手に放り捨てると、仮面の男はそばに落ちていたキキオンの剣を拾い上げた。片手に持ち、手触りを確かめるように柄を握って回転させる。刃を垂直に立てると、軽く切っ先に指で触れる。みるみるうちに男の人差し指の先端から赤い玉が膨れ上がり、石段に滴がこぼれる。男の楽しげな声が聞こえて、ミスラは今の行為が切れ味を確かめるためのものであったことを知った。
彼はキキオンの首を落とそうとしている……それを、ミスラへの捧げ物にしようとしている。
(要らない。私はこの人の首なんて欲しくないわ)
「いいえ」
迷いのない口調で否定する。
「欲しいと言ったのです、他ならぬ、貴女が。この男の首と引き換えに、貴女を得る栄誉を授けてくれると、そう言った!」
高々と掲げられた刃は、しかし、キキオンの首を打ち落とすことはなかった。ほとんど首を絞めるような格好で、ミスラの腕がキキオンに巻きついていたからだ。
「その手は何です? ミスラ」
仮面の男が呻く。
「私の信心をもってしても、理解に苦しまざるを得ません。貴女は一度はこの男の前に破れ去ったのでしょう? ですから。ですから、私めが、僭越ながら御身の仇討を……」
(あなたは誰の話をしているの)
「おお……」
弱々しい声が仮面の下から漏れる。含んだ苦悩をありありと滲ませる。
「まさか、貴女は嘘を? 尊い導きの言霊をさえずるはずの可憐な唇に、罪を含んだとおっしゃるか。私の信心に、応えられぬとおっしゃるか……」
信徒はついに力尽きたように、一度は振り上げた刃を震える手で脇に戻した。剣が再び動き出す前に、ミスラは手を打たねばならなかった。仮面の信徒を退けて、最上階の悪魔を滅ぼすために……。
考えた時間は短かった。思いつきはあまりに簡単すぎて、ミスラは実行に移すことをしばらく戸惑ったくらいだった。一番簡単で、手早く終る、安心なやり方がある。
(シェルドゥルファトム)
選んだ言葉は、ミスラが想像していた以上に劇的な効果をもたらした。仮面の男の身体が、雷鳴に竦んだように小さく跳ねた。動揺の余韻は、無意識に手放され、石段に落ちた剣の音さえ彼の耳から遠ざけてしまったかもしれない。完全に無防備な体勢で、仮面の信徒はよろめいた。螺旋階段の中央、樹幹の深淵、深い深い空洞に落ち込む寸前で踏みとどまると、震える吐息を絞り出した。仮面が感情を窺わせないなどとは嘘だ。座るミスラを見下ろしていたのは信徒のほうだったが、ミスラはむしろ母にすがる子どもの眼をそこに見た。鉄の面にうがたれた二つの穴は、約束された幸福を期待する無辜の瞳か、あるいは叱責を恐れて震える瞳か。ミスラはキキオンの身体をそっと横にどけると、立ちあがった。首の縫い目もあらわで、ドレスは薄汚れ、その布地の下に包まれている四肢には亀裂が入っている。到底、地上に顕現した奇跡の御遣いには見えないだろう。だが威厳をまとう必要はなかった。神々しさも要らない。全て、仮面の男が勝手に見出してくれる。
(あなたのことは良く分かった。辛い道を旅してきたのね)
「あの夜の、約束は……」
(目を閉じて、シェルドゥルファトム)
「約束は……?」
(守られるわ。さあ、目を閉じて)
仮面の下の様子を知ることはできなかったが、返る沈黙に、ミスラは信徒が素直にまぶたを下ろしたことを確信した。一歩ずつ、踏みしめながら、石段を登っていく。足音を聞き逃すはずがないと分かっていても、震える信徒にミスラの接近が伝わるように。敬虔な信徒は、今こそ他ならぬミスラの現出を待っていた。神話の国の住人がふいに見せた道筋を、どうにかして掴もうとしている。
手を延べる者は、導く者の恍惚を覚えるのかもしれない。
だがミスラは自分の身体が単なる人形にすぎないと知っていた。たまたま王女の心臓のそばにあった、都合のいい器だ。もう信徒との距離は最後の一歩分しかなかった。ちょうど一歩分だ。人一人を奈落の底に突き落とすための助走の距離。
ミスラは両腕をそろえて前に突き出した。抵抗はなかった。悲鳴も。信徒はミスラに胸を押されるまま、すんなりと樹幹の中央洞の底に落ちていった。
振り返ると、薄眼を開けてミスラを見ているキキオンの姿があった。まだ立ちあがることはできないようだが、意識を失くしていた時間が短かったことと、顔色がそれほど酷くないことが、ミスラを安堵させた。吹き矢の毒はキキオンの動きを止めただけで、冥府に連れ去るものではなかったのだ。
(あなたの知り合いだった?)
ミスラは訊いた。キキオンは何事か口にしたようだったが、舌が痺れているのか、聞き取ることはできなかった。




