兄 4
大樹の国ウラシリオロに行きたいと言った妹は、次の日には、東の果てにある蛮族の国を見てみたいと言っていた。行く先を変え、見知らぬ町に流れては日雇いで路銀を稼ぎ、また次の町へと流れていく。あてどない旅路は、彼自身が想像していたよりも、長く続いた。
もちろん彼は、この漂泊が長続きするものではないと知っていたのだ。
浮沈する根なし草の生活は、妹のような繊細な人間をすり減らすだけだということを、彼は良く分かっていた。あの町から遠く離れた地で、腰をおろして二人で暮らそうと、彼は幾度となく甘い声音で誘ったのだ。
「だめよ」
その日も妹はそう言った。
さまよう旅路の果てに、辺境の街道で、一晩の宿を借りていた。二階建ての宿の階下で、二人で静かに夕食を片付けたあとのことだった。
「まだ誰かがわたしたちを探しているかもしれないわ。もっと、遠くまで逃げないと」
そう妹が決めたならば、彼に逆らうすべはなかった。彼にとっては、妹が全てなのだ。妹の声を聞くと、頭が鈍く痺れたようになって、……またその感覚が得も言われぬほど快感なのだが……彼は一も二も無く頷いてしまうのだ。
「おまえがそう言うのなら」
「ありがとう、……イグルス」
テーブルの向かいで、妹が眼を細める。イグルス。妹の、恋人だった男の名前だ。妹が彼のことを死んだ男の名で呼び始めたのは、いつの頃だったろうか?……もちろん覚えている。
あの町を離れて直ぐの頃は、まだ彼のことを兄と呼んでいた。本物のイグルスが死んで、十回目の晩だ。またどこかの宿で、おやすみを交わすときに、突然妹が彼のことをイグルスと呼んだのだ。
最初は、ぎこちなかった。妹自身でさえその呼び方に不信を覚えていたことが、彼には手に取るように分かった。あえて苦痛のある道を選んだ妹に、彼は真意を問うたが、妹は曖昧な笑みを浮かべてこう言った。
「偽名を使ったほうがいいでしょ?」
よりにもよって殺された男その人の名を? あるいは妹は、彼が疑問を返せない立場であることを見透かしていたのかもしれない。答えになっていない答えを返して以後、妹はその話題を避けた。彼も、妹の態度が気にならないわけではなかったが、それもすぐにどうでも良くなった。イグルス、と彼のことを呼ぶ妹の声に、確かに甘い響きを感じとっていたからだ。路銀の節制は、もはや建て前だった。彼は一つの寝台で妹に寄り添って眠りに就いていたし、妹もそれを許していた。ときには、妹の方から手を絡めてくる夜もあった。接触の頻度は、時間をかけて、少しずつ濃密になっていった。
そして、今この時だ。
「もう休みましょ」
妹は彼の頬に優しくくちづけを落とすと、いたずらな笑みを浮かべて、軽やかに階上に駆けあがって行った。自分の顔が紅潮するのが、はっきりと分かった。彼は思わず手で頬を抑えて、緩んだ表情を誰ともなしに隠した。眼を閉じて、柔らかく触れていった唇の感触を反芻する。つぼみがほころんだ先に待つものを夢想する。可愛らしく並んだ歯の奥では、艶めく桃色の舌が暴かれる時を待っているのだろうか……。
鋭い視線を感じて、彼は目を見開いた。
奥のテーブルから、彼を見ている者がいる。埃じみた空気を切り裂く鋭い眼。
害だ、と彼は決めた。この視線の主は、彼に、ひいては妹に害をもたらす者に違いない。妹の残した誘いの名残を身体の奥底に沈めて、彼はゆらりと席を立った。剣に研ぎ換えたかつての鉈が腰の皮帯で小さく揺れる。結わえつけられた重みを感じながら、奥のテーブルへと進む。そいつを、排除しなければならない。その男。薄汚れた黄橙の衣をまとった鉄仮面の男を。
その男が、とても目立つ容貌をしていたから、常日頃から妹以外に関心を払っていなかった彼でも憶えていた……わけではなかった。顔の前面を覆う鉄仮面は人目を引きはしたが、彼が注意を払っていたのは、その男が彼の眼を盗んで妹とどうやらなにがしかの会話をしていたらしいと知っていたからだ。
その日宿に着いたのは、昼をかなり回った夕暮れに近い頃合い。彼が少し目を離した隙に、妹はふらりと姿を消してしまった。彼がようやくその姿を見つけた時には、満足げな表情で隅のテーブルから離れるところだったのだ。
何を話した?
誰と言葉を交わして、そんな顔になった?
問い詰める彼を、妹は半ば強引になだめて黙らせた。細い指を二本立てて、口の端をつままれてしまえば、彼にできる抵抗などたかが知れていた。降参の形に両手を挙げたが、彼は奥のテーブルに座る人物をしかと認めていた。鉄仮面の男。黄橙の外套と、鉄仮面の額に頂かれた翼の印象は、信徒の証だ。彼ら兄妹の暮らしていた町にも、放浪の信徒と呼ばれる者たちが身を寄せ合っている教会があった。彼らが妹を指してミスラと囁く声を、幾度となく耳にしてきた記憶がある。彼は無意識のうちに唇を舌で湿していた。
「イグルス」
彼の埃じみた外套を引く腕がある。遅れて、しっとりとしたぬくもりが布地越しに背中に触れてくる。
「それってわたしより大事?」
妹のたった一言で、彼は手の届く距離にいた仮面の男を後回しにすることを決めた。首を振って否を告げて、彼の神さまに向き直る。妹は彼の腰に巻きつけていた腕を解くと、彼の手を取って、階上の部屋へといざなった。これから向かう先で楽しい泥遊びをするのだとでも言いたげなはしゃぐ少女の足どりで、道を失くした獣の心を導いていく。
安宿の部屋に転がりこんで、灯りを点ける手つきも乱雑に、彼は妹を抱きしめた。
たまらなくなって妹の名を呼ぶ。
「メリエ……」
「違うわよ」
くすぐったげに身をよじって腕の中から逃げ出すと、妹は窓を背にして微笑んだ。いつからか開け放たれていた窓から夜風が流れ込む。ほとんど本能のまま彼は揺れる黄金の髪を追いかけた。捕らえる寸前で、妹が牽制のように両腕を突き出す。最初は、彼に見せられていた両のてのひらが、くるりと回って床を向く。
「踊って、イグルス」
「ああ」
寂しげに揺れていた手を取って、彼はふと困ってしまった。てのひらの上でお行儀良く並んだ妹の指を端から順に眺めたあとに、つぶやく。
「ダンスなんて、やったことは……」
「こうするの!」
妹が身体ごと飛び込んでくる。右腕を使って受け止めて、勢いのまま、彼は妹を抱えてその場で一回転した。
「そう、そう」
妹が笑う。そのあとは、二人で飛び跳ねるようにして床に弧を描いた。指をからませて、回る。回る!
「ソシエ」
「またはずれ」
歓喜を乗せて妹の名を呼ぶ。遠目には、輪舞曲を踊る二人に見えなくもないかもしれない。その実態が、暴れる心臓に振り回されているだけなのだとしても。
妹の名を呼ぶ。
「サファーナ」
「いったい誰の名前?」
乱暴なステップを踏んでいた足を、突然妹が乱した。よろめき、二人でもつれ合って倒れ込んだ寝台が悲鳴を上げて軋む。とっさに体位を入れ替えて、彼は妹の下敷きになった。彼の胸に手をついていた妹が、その手をゆるやかに上へと這わせていく。妖精が身体の上を散歩しているみたいだ、と彼は思った。未知の神秘が触れている。燭台の頼りない灯りが妹の美しい横顔を照らしている。柔らかい指先が首筋をたどり、彼は自分が薄く汗をかいていることを知った。妹が彼を見下ろしている。ほとんど凝視と言っていい強さのまなざしで、彼の瞳を覗きこんでいる。まるで彼が目の中に秘密を隠し持っていて、それを暴こうとしているかのように。
「今日は、おまえ、どうかしたのか……」
「イグルスはわたしを抱ける?」
鼓動が跳ねた。ふいの息苦しさを憶えて寝台から身を起こそうとした彼を、妹は常にない強い力で押し返した。
「いつもそうしてるみたいな、抱きあって眠るって意味じゃない。わたしを抱けるかって聞いているのよ」
寝台に押し倒されたままの彼の唇を、妹はすばやく奪っていった。今まで、たわむれに頬や額に接吻をしてきたことはあった。彼は夢見る者の心地でおのれの口元に触れた。ここに、妹のかわいいところが落ちてきたのだ。
彼の全てである妹が、自ら彼の傍まで下りてきた。
手の届くところまできた。
身を捧げると言った!
「抱いて。できないの?」
返事の代わりに、彼は腕を伸ばした。片腕で自分に跨っていた妹の腰を捕まえて、もう一方の腕で身体を起こす。平衡を崩して彼の腿の上で尻もちをついたような格好になった妹を引き寄せて、首すじに噛みつく。上がった悲鳴は、痛みによるものではないと彼は確信していた。甘噛みの途中で少しだけ舌を使うと、淡い塩の味がした。
「おまえが望むなら」
腕の中に捕らえた妹にささやく。
その瞬間、妹の小さな体が震えた。知らず彼は最後の薄氷を踏みぬいていた。
「わたしが望むから……?」
凍える冬の声で妹が呻く。皮膚の下一枚に通っていたはずの熱い血潮が去っていく。服の下に潜り込んでいた彼の手を邪険に払い除けて、妹は転がり出るように寝台から下りた。
「わたしが願えば何でもするって言うの?」
「おまえのためなら、おれはなんだってするよ」
「ああ、そう」
床に座り込んだままの妹に手を伸ばす。妹は躊躇いなく彼の手を払い除けた。それ以上追えなかった彼を認めて、妹はせせら笑った。今まで一度も見たことのない顔で、妹が言った。
「じゃあイグルスを殺したのもわたしのため?」
あの町を出て以後一度も口にしなかった疑問をなぜこのときに訊くのだろう、と彼は考えた。妹の言うイグルスが彼を指してのことではないことくらい、分かっていた。足元から震えが這いあがってくる。彼は怯えた。美しい世界に亀裂が入っていくのを感じる。崩壊の予兆がめまいを呼び覚ます。正面からの冷ややかなまなざしを受け止めることができずに、視線を床に散らす。
「おまえはおれの全てなんだ……」
震えを止めようと、彼は自分の身体を抱きしめた。
「必要なのは、おまえだけ。おまえさえいてくれるなら、他に何も要らない」
自分で吐いた言葉を支えに、彼はかろうじてその場に踏みとどまった。もう一度顔を上げて妹を見つめる。妹の瞳の中に猛る炎が見える。金剛石の瞳、と褒めそやす者もいたが、彼は妹の眼の中に夜空で瞬く星の輝きを見ていた。蒼く燃える星の光は、しかし、もはや彼を導いてはくれない。断罪の焔が彼の胸を灼いた。
「わたしの名前も知らないくせに。あなたは……お兄ちゃんじゃないのね」
ふいに、妹の目元が和らいだ。それを許しの証だと楽観できるほど、彼は妹を知らぬわけではなかった。許しではない。それは、憐みの光だ。
「そう。分かった。分かったわ。もうお兄ちゃんはいないってことね。ずっと昔に、犬に噛まれて死んでしまった。わたしがそれを認めなかっただけ。偽物なんかを侍らせて!」
悔しげに表情を歪める妹を、彼はただ見ていた。身体のどこかに、致命的な亀裂が入って、今なお広がり続けているような苦痛を感じる。妹に否定されてなお生きていくことなど、彼にはできないのだ。
「教会の門をくぐった日から、わたしは、悪魔に魅入られていたのね。兄を殺す、恋人を殺す、絶望だけを抱えて、清らかな身のまま死ぬ……だから、まだ生きているうちに、お兄ちゃんだけは助けたかったのに。……もう誰もいない。わたしもいなくなる」
妹は立ち上がった。彼に背を向けて部屋の扉へと向かう。
「待ってくれ……」
去りゆく背中に声をかけると、妹は振り返った。
「こないで! あなたが誰だか知らないけれど、もう顔も見たくないのよ!」
比喩でなく、その言葉は彼をずたずたに切り裂いた。喉元までせり上がってくるものがあり、彼は血の匂いを嗅いだ。耐えきれずに吐きだす。胃液でなく、鮮血であることは、妹にも分かったのかもしれない。うずくまる彼を見下ろす妹の眉がひそめられる。
「わたしが全てっていうのは本当なのね」
と言って、少しの間、妹は考えこむしぐさを見せた。それが最後の慈悲だった。
「いいわ、じゃあ、あなたに使命をあげる。今夜、夜の一番深い時間に、あなたは生まれ変わる。悪魔を滅ぼすために」
「生まれ変わる……?」
「わたしたちをこんな目に遭わせた悪魔を殺すのよ。その時が来れば、あなたはそういうものになる。わたしがそう言ったんだから、逆らえるわけないわ。なんでもするんでしょ?」
妹は彼に言い放つと、安宿の部屋を後にした。彼は妹を追うこともできずに、苦痛に苛まれたまま深夜を待った。
ある時を境に、彼の吐血は止まった。鉛のようだった身体が、嘘のように軽くなる。同時に、恐ろしい喪失感が胸を満たしていく。彼の中から妹が失われていくのだと彼は悟った。予言めいた言葉の通り、妹の支配が薄れていく。
彼は宿を飛び出した。最後の本能が命じるまま、妹の足跡をたどる。時間はもう残されていない。ぐずぐずしていると、すぐに何も分からなくなってしまうだろう。自分でも分かるくらいに、ある憎しみが鎌首をもたげてくるのを感じる。馴染みのなかったその感情が、妹を追い求める気持ちを塗りつぶしていく。
「悪魔……」
知らず、彼は口にしていた。足が道を失いかける。彼が追うべきものは、妹ではなく、悪魔なのだ。彼は悪魔殺しだ。悪魔を滅ぼすために生まれ変わった。
「違う!」
頭を振って叫ぶ。妹が全てだ、そうでなければならない。そんなに簡単に変節するはずがない。妹はそんなに安い存在ではない……そのはずだ。断言するほどの確信を持てないことに、彼は慄然とした。
一日か、十日か、あるいはそれ以上の夜をさ迷った挙句、気がついたときには、彼の足はどこかの森の川の浅瀬に踏み込んでいた。月のない夜だった。だが、彼の眼は浅瀬にたゆたう者の姿をあやまたずとらえていた。
仰向けの妹が、胸の上で手を組んで、まるで在りし日に木陰で午睡をとっていたときのように、眠っているように見えた。ひくりと心臓が震えた。それだけだった。彼は妹が物言わぬ躯になったことを静かに認めた。半ば水に沈んでいた妹の身体を抱き起こす。妹の肌の深いところから熱が去っていくのを感じる。
「教えてくれ」
妹の額にはりついていた髪を丁寧に払い除ける。美しい寝顔だ。真闇の夜だというのに、妹の顔は輝いて見えた。
「悪魔を殺せば、おれはまた生まれ変わることができるか?」
悪魔を殺す、と口にしたとき、尋常ならざる胸の高鳴りを彼は感じた。かつて妹の声を聞いたときにしか憶えなかったはずの感慨は、こんなところに棲みついた。
「役目を果たして、空っぽになるのか? それとも、また人間みたいになれるのか? 本当におまえの兄をしていた頃みたいに」
川の水がひたひたと彼を侵食していく。外套はすっかり水を吸い上げ、彼はほとんどずぶ濡れのまま、見えない神に祈りを捧げた。妹に言われるがまま、彼は悪魔殺しに生まれ変わってしまった。それは認める。
(だから……せめて)
急激に、眠りの魔手が彼の袖を引いた。
(最後の夜くらい、幸せな夢を見させてくれ)
閉じたまぶたの裏に、彼は必死で一本の木の姿を描いた。二人で語らった木陰。幸せの全てを詰め込んだ象徴にすがりつく。
彼の望んだやすらかな眠りは、しかし、ほどなくして終った。まぶたの裏までずうずうしく侵入してきたそいつは、思い出の木陰にいた彼を巨大な爪先でつまみ上げると、遠く遙かなる珪化木の城へと連れ去ったのだった。




