ミスラ 22
二度に渡って破壊された玄関を出て、宵闇が落ちかかる屋敷の前庭に出る。柵の手前で篝火から松明を一本抜き取ると、ミスラは前方でくずれ落ちた虫の方へ足を向けた。既に踏み分けられた草の道をたどる。救いのものはミスラの元へと戻ってきたのだ。
炎の合図を送らずとも、ミスラが二階から覗いていたことにキキオンは気づいていたのかもしれない。黒外套の男は、虫の首関節から突き出した剣の柄に手をかけたまま、その場を立ち去ろうとする気配を見せない。
ミスラは火の粉が爆ぜる音を聞いていた。草を踏む音は、夜の彼方の遠い世界から聞こえてくるようだった。炎が導く邂逅はこれで二度目だ。一度目は、悪魔に願いをかけて救いのものを手に入れた夜のことだ。第五王女の身代と屋敷を劫火が舐め尽くし、ミスラは宵待ち草の花畑からキキオンを拾い上げた。ミスラの感覚ではまだほんの一日前のことにすぎない。
二者の距離が徐々に埋まり、互いの顔が炎に照り返る位置まで近づいてくる。こういうときにかけるべき言葉をなに一つ持ちあわせていなくとも、人形の足は薄情な単調さで歩みを進めていく。向い合って見つめ合うだけの間抜けさが待ち受ける立ち位置へとミスラを連れていく。
キキオンの目線が、屠られた虫の生白い手足から、ミスラの掲げる炎へ向かい、炎に映える人形の顔へと移った。枯れ草色の髪と眼を持つ男は、ミスラが最後に見たときから、その姿をいささかも変えていないように見える。一人夢想の世界で暮らしているような茫洋とした表情と、虚無に斬りかかるような危うさ。炎が揺れるたびに不安定な面が互い違いに立ち現われては消える……それは人形の眼が勝手に読みとっているだけなのかもしれない。
他方ミスラはといえば、人形の四肢に亀裂が入り、首はちぎれかけ、心臓には真新しいあの感じが棲みついて、妄執だけで壊れかけの身体を動かしているのだ。まるで自分だけ時間を進めてボロになってしまったような錯覚が去来する。
(久しぶり)
それだけ言って、ミスラはようやく足に止まれを命じた。少し近すぎるかもしれなかった。互いに相手を利用する立場を標榜するならば、適切な距離はもう少し離れた場所にあるはずだった。暫時考えこみ、後退を実行に移そうとしたとき、キキオンがふいと視線を外した。目線の先で、柄に軽く添えられていた手のひらが握りこまれる。
湿った音に続いて、虫の体内から濡れた刃が現れる。
キキオンは適当な手つきで外套を使い刀身を拭っている。夜がざわめき、ミスラは心臓が興奮におののくのを感じとっていた。
シロラマロモッコの手足が生えてきたときの音と、今しがた耳にしたそれとは、まるきり同じだった。生誕を告げる音と死を告げる音が同じなのは、一見不思議なようでいて、実はそうではないのかもしれない。表裏一体のそれは、同じ音でしかるべきなのかもしれない。
この音を忘れなければ、とミスラは考えた。この音を憶えている限り、ミスラは必ず悪魔を滅ぼすだろう。たとえ、どれだけの月日がかかったとしても。
自然と身体が震えていた。本当は心臓を守りたかったが、叶わずにミスラは両腕で身体を抱きしめるにとどめた。目を閉じていると興奮の波が緩やかに引いていく。やがて硬い金属の音がミスラを草原に連れ戻した。キキオンが腰から吊った剣帯に剣を納めたのだ。
「もう動かないのかと思っていた」
キキオンはそう言った。そうね、と内心で同意したところで、ミスラは心臓と人形の身体が正しい状態に落ちついたことを知った。
(でも、こうして動いているわ。……私を置いて行ったわね)
詰るように告げると、キキオンはさほどの逡巡もなく首肯した。
(あなたのことだから、一人で上まで行ったんでしょう。でも玉座に続く最後の扉を開けることができなかったのね? だから探しにきたの? 私にしか開けられないと教えたから……)
「おまえも約束を守っていない」
つまらなさそうな口調で言うと、キキオンは草原の彼方に目線をふった。ミスラもつられてキキオンが眺める先を追いかけるが、静かな夜の闇がたたずんでいるだけだ。疑問を浮かべようとした瞬間、ミスラは思いだした。このやりとりに覚えがある……犬の始末のことだ。ミスラが思い当たったことに気づいたのか、キキオンは形だけの薄い笑みを浮かべた。
「おまえが始末すると言った犬は、まだ、そこにいる。それはもういい。犬さえ惜しくなる時がくる。じきに……そう遠くないうちに」
(どういうこと?)
一歩踏み出しかけて、ミスラは続ける予定だった言葉を呑みこんだ。
視界がゆっくりと、傾いた。
頭蓋の振動は感じとることができなかった。
丈の長い草でおおよそ丸く縁取られた夜空が、視界いっぱいに広がっている。遅れて、首が落ちたことにミスラは気が付いた。さんざん乱暴に扱われた結果、きわどく繋がっていた最後の頼りの糸がちぎれたに違いない。立ったままの身体と、地に転がった頭が、ばらばらの感覚を心臓に教えてくる。うろつく鬣犬がふたたび牙を剥くように、拡散の痛みが戻ってくる。
「おまえを置いていったのはもう動かないと思ったからだ」
心臓の音に耳を澄ませていたはずだったのに、草と夜空ばかりの世界に聞こえてきたキキオンの声は、人形の耳によく響いた。
「この階層に捨てたのは、諦めた場所がここだからだ」
声は上から降ってくる。しばらく草が揺れる音が続いたあと、人形の身体は、突然場違いな感覚を伝えてきた。眼に映る虚しい光景は、首が草の海で漂流した孤独な遭難者であることを示しているのに、身体のもたらす感覚はそれを裏切っている。ミスラの心臓はほとんど恐慌のていで狼狽していた。首が見つめる夜空の只中にキキオンの手が割って入り、それが近づいてくることを知って、さらにうろたえる。
指が人形の髪に絡み、力強く引き絞られる。ミスラの首は草の中を勢いよく引きずられた。頬を無数の草に叩かれ、思わず悲鳴をあげかける。
(何をするの!)
抗議の結果かどうかは不明だったが、幸いなことに乱暴な移動は直ぐに済んだ。落ちつかない心臓が、かろうじて知覚した情報を伝えてくる……首と胴体は再びつながった。恐らくキキオンが首を拾って、元の位置に戻してくれた。ミスラの手にあった松明は、いつの間にか近くの地面に突き立っている。そこまでは分かる。分からないのは、その後だ。
ミスラは人形の眼をまず疑った。だが見えるものは変わらない。
次に人形の身体を疑った。だが伝わってくる温かさは本物だ。
やはりミスラの今置かれた状況は本当の事なのだ。……つまり、座ったキキオンの膝の上に肩から首のあたりをもたれかけて横たわっている。膝枕だ。
ちぎれた首の糸の残骸をたくさんの指が触っていく感覚がある。キキオンは人形の首を両手で包むようにして、そこの様子を検分しているようだった。
「おまえの言うとおり、扉に阻まれた。だから戻ってきた。おまえが鍵になるなら上まで連れて行く。だが、その首で上まで登る気か? 自分の首を自分で持つつもりなら、止めはしないが」
ミスラが反論を返せないでいるうちに、キキオンは残っていたちぎれた糸を引き抜きにかかったようだった。首にかかっていた糸が引っ張られ、抜けていくのを感じてミスラは身震いした。たかだか人形の身体だ。心臓に触れられたわけでもない。何をされても平気なはずだ。だというのに、えもいわれぬ不愉快な感覚にぞっとする。
ミスラが感じている未知の感覚は、ほとんど怖れに近い反応で人形の手足を揺らした。キキオンは人形の身じろぎなど気にも留めなかった。雑な手つきであっという間に糸の名残を抜き去ってしまった。
「おまえ、元は人間なんだろう」
キキオンは首を確かめていた手を一本に減らすと、彼自身の外套の中を探りはじめた。懐から短い木の棒に糸が何重にも巻きつけられた裁縫道具を取り出して、糸で巻きつけていた縫い針を抜き取る。
「なんで人形なんかになった?」
仰向けに固定されたミスラの頭上で、細やかな作業に向いていなさそうな指先が糸を手繰る。針の先に糸が通らないことをしばらく繰り返したあと、キキオンは繊維の先端を軽く口に含んだ。湿り気を帯びた先端は、今度は簡単に針を通り抜ける。
「訊き方を変えたほうがいいか? なぜ人間を止めた」
ふいに首を支える手に力が入り、人形の内側に鋭いものが差し込まれる感覚があった。先端は、人形の内側を突き刺しながら移動して行く。
(まるで尋問みたいね。針で首を刺すなんて残酷なこと、蛮族だってしないわ)
キキオンは応えず、ただ針の先だけが動いていた。何十かの往復を繰り返すうちに、ミスラの身体は膝の上で徐々に転がされた。針が首のちょうど真後ろの辺りにきて、キキオンの身体に鼻が埋まり、何も見えなくなる。うなじの辺りを針が進んでいく。少し止まって、綿を詰め直すような動きがある……また針の運動が再開される。
(悪魔の誘いに乗ったのよ)
針の動きに何の変化も起こらなかったことに、ミスラは内心安堵して、続けた。
(悪魔は願いを叶えてくれると言ったわ。引き換えに、私は、私の持ち物を全部あげた。心臓以外の全部よ。それで、気がついたら、人形になっていて、代わりに、悪魔を滅ぼす救いのものを手に入れた。それだけ)
「そのあとは?」
(そのあと?)
思いもよらぬところで疑問を差し挟まれ、ミスラは困惑した。キキオンがまさか「そのあと」を考えることのできる人間だと、思っていなかった。
「悪魔を殺したその後だ。心臓しか残らない」
それは疑問ではない、とミスラは確信した。
虚無の搾りかすのような声音で、かつての人間が衝動で定めた未来の末路を断罪しているのだ。キキオンはミスラを責めていて、しかも彼がふるったものは自身に跳ね返る刃に違いない。見えもしないものが、人形のまぶたの裏にありありと浮かびあがる。枯れ草色の瞳は、人形の首の縫い目を離れて、彼が舵を切り損ね、足を踏み外した遠い昔日を見ているのだろう。
縫い目は着実に時を刻み、キキオンの手がまた少し人形の角度を変えた。うつ伏せだった頭が横倒しになり、扁平な黒を見せていた外套の覆いが遠のいて、松明の炎が奥ゆかしく深淵を暴く夜の景色が戻ってくる。
そのとき、ミスラは目の高さで揺れる草の茂みの向こうに、獣の影が横切るのを見た。はっきりとした色味は分からないが、茶か灰色か、そのような毛並みの獣が、少し離れた茂みの中に潜んでいる。輪郭を揺らめかせながら、円を描くように草の中を移動している。
まるで獲物を窺い見るように、四足の獣の眼がこちらを注視している。
――犬の眼がキキオンを見ている。
ミスラは本能的に悟った。あれがキキオンの犬だ。風が吹き、草原がそよいだ後には消えてしまうであろう幻の犬……。
「終わった」
唐突な宣言のあと、ミスラは膝の上から落とされていた。衝撃にまたたいた隙に犬は姿を消していた。四周には炎の爆ぜる音と風が草原を渡る音だけがある。キキオンは既に立ちあがっている。裁縫道具も捨てるかしまい込むかしたのか、もはや見当たらない。ミスラはよろめきながら立ちあがった。
(さっき、あなたの犬が見えたわ)
ミスラが告げると、キキオンは首を振った。松明を拾い上げて、ミスラに差しだす。
「見えたところでもう意味はない。おれにはもう妹が残っていない。せいぜい犬を大事にするしかないさ」
松明を受け取るときに、ほんの小さな声が聞こえた。
「おまえが教えてくれたことだ」
(教えた覚えはないわ)
ミスラの否定は鼻で笑われ、あしらわれた。
ここで会う人間はまともな会話すらままならないことばかりだ。……分かっていたことを、なぜこう何度もしつこく念押しされるのだろう、とミスラは考えかけて、頭をふった。知っている。そのたびごとに期待をしているのはミスラの側なのだ。
(ばかみたい)
時間の経過で、背中に感じていたぬくもりが去っていくのが分かる。去りゆくものを確かめようと首に指を伸ばすと、真新しい縫い目の感触が触れた。どうやら首はしっかり胴体に縫いつけられている。相変わらずの、汚い縫い目で。
と、人形の指に生身の手が重ねられた。
キキオンは松明を手渡したままの距離にいた。人形の首筋に手が添えられていたのは一瞬で、すぐに手は下に落ちた。キキオンは首の縫い目から垂れていた切り忘れの糸を指で引いた。ミスラは逆らわず前に出て、後悔した。糸切り歯を名に負う通りに使われると知っていたら、その場にとどまってなどいなかっただろう。




