ミスラ 21
寝室の手前にはがれきに埋もれた一組の男女がうつぶせに倒れていた。
とうに動かなくなってしまっているであろう男女を見て、彼らもまたあの男のような守護者だったのかもしれない、とミスラは考えた。
ミスラが鳥の紋章を彼らの装束から見出す前に、虫は倒れていた二者を無造作に踏みつけると、開け放しのままになっていた扉をくぐり、シロラマロモッコの部屋に足を踏み入れた。入り口は既に破壊された後で、虫の体幅はわずかに引っかかるのみだ。木枠を通りぬけるとき、ミスラは虫の背上で申し訳程度に身をかがめた。
中に入ってすぐ虫は歩みを止めた。ミスラは虫の甲殻から滑り降りた。
夜はすっかり寝室の中まで這入りこんでいた。光量の抑えられた燭台が、貴人の寝所を慎ましやかに照らし出している。部屋は荒れ果てていた。ミスラは人づてに耳にしただけであり、実物を見たことなどなかったが、盗人が荒らしまわったあとの部屋というものはこういうものなのかもしれなかった。あるいは、つむじ風をまとった妖異のおとないを受けたとでもいうべきか。
調度品はことごとく倒れ、寝台を覆い隠す天蓋は破れ、姿見は砕け散り、あらゆる抽斗の中身をぶちまけたように、絨毯の上にはペンや手紙や書物のような小物が散乱している。第二王女の姿は見えない。虫はおとなしい忠犬にでもなったかのように、部屋に入って以後、脚をたたんで腹を地に付け、その場から動こうとしない。ミスラが戸惑いを覚えて、また数歩中に踏み込んだ時、その声は聞こえてきた。
「見つからなかったのね」
氷の手で心臓に触れられたようにミスラは動きを止めた。燭台が照らしきれなかった部屋の隅から、幽鬼のように起き上がる影があった。
「私がいけなかったのだわ。出し惜しみをした罰かしら」
人形の眼で暗がりを追い払うと、それの全てが見えてくる。まずミスラはちぎれたドレスを身にまとった女を見た。そのドレスが黒い染みでまだらに汚れているのを知り、ぶかぶかのドレスの足下が存在しないことを悟り、倒れていたであろうその女がどうやって身を起こしているのか、その手段が分かる。
(シロラマロモッコ!)
ミスラは声を抑えきれずに叫んでいた。
下半身を失っていた第二王女は、ミスラの良く知る金属管に腕をからませてその身を起こしていた。ミスラは駆け寄り、人形の腕で王女をかき抱いた。
(シロラマロモッコ……私はここまで来た。貴女の教えてくれたとおりにやって、悪魔の呪いを知って、ここまで来たのよ!)
かつてのたおやかなる美姫の姿は、面影は失われていた。血の気が引き、やつれた頬は、第二王女を年齢以上に見せている。唇はひび割れ、絹糸のようであった髪はさんざんに乱れ、諦念の影が半身に差している。金属管にすがっていた腕が滑り落ち、ミスラの膝を叩いた。
「たぶん、腕が足りなかった……救いあげるための腕」
(シロラマロモッコ……?)
第二王女は自らの身体を抱きかかえる人形に気を留めるふうではなく、ただ訥々と嗄れた喉で言葉を紡いでいた。ミスラは王女の顔に落ちかかる髪を払い除け、硬直した。眼があるべき場所に、黒々とした空洞が口を開けていた。
「足だけではだめだとは思っていたの。だから、眼だってあげたのよ」
抉り取られた眼は、しかし、ひたとどこかを見据えているようだった。おぼろげな直感に従い、ミスラは背後を振り返った。視界は大きな黒い壁に覆われていた。部屋の入り口でおとなしくしていたはずの虫が音もなく這い寄っていたことに、少しの驚きも覚えなかった自身を自覚して、ミスラは気がつかざるを得なかった。うすうす感じていた通りだ。シロラマロモッコは、ミスラではなく、ずっとこの虫に語りかけていた。
「こっちへおいで、……私の赤ちゃん。腕をあげるわ」
瞬間、虫が顎を振り上げ、ミスラは部屋の壁に叩きつけられていた。首がちぎれかけているのを感じながら、ミスラはねじれた腕で身体を壁から引きはがした。心臓が衝撃に揺れている。生身の人間だったなら、とうに吐くか泣くかして……あるいは、死んでいる。
「必ず、必ず見つけてきてね、赤ちゃん。必ずよ」
虫が第二王女をむさぼり喰う合間に、懇願のような嗄れ声がまぎれて聞こえてくる。
「何のために、あなたを産んだか、忘れないでね、赤ちゃん。その足で探しまわって、その眼で見つけて、その腕で抱いて帰ってきてね。お願いだから……後生だから……」
虫が忙しく動かす顎の隙間に、ミスラは第二王女の微笑みを垣間見て戦慄した。
「どこかにいるはずなのよ。誰かは分からないわ。でも声が聞こえるの。助けてって言っている、可哀想な声が」
その告白はミスラの心臓をたやすく締め上げた。
――助けて。
それは、かつて五の幹六の枝で、第五王女が何度も口にしてきた言葉だった。生まれ変わり続けた汚れなき身体と、相反するように蹂躙されなおす記憶。朝も夜もなく苦痛に苛まれ、嘆きのはけ口として選んだ先は、返事を久しく返してくれないとはいえ、昔日のあまやかな思い出が詰まった金属管だった。気が違ってしまいそうになるたび、金属管の蓋を開けて叫んだ。どれくらいの間そうしていたか、すぐには思いだせないくらいに、毎日毎日繰り返し詮無き助けを求めていた。
「そうね、……助けを聞きとる耳も足りないのかもしれないわ。もしかしたら、呼びかけのための人間の声も」
雷鳴のような突然の直感がミスラの心臓を責めた。思いだした。屋敷の前に続いていたなぎ倒された草の道と、寝室の外に倒れていた男女と、屋敷の破壊された玄関の扉だ。なぎ倒された草は、ミスラたちが来た方、樹幹のほうへと倒れていたのだ。倒れていた男女の上になだれかかっていた瓦礫は、寝室の扉周りの壁だったのだろう。そしてひしゃげた玄関扉は、外に向かってねじれ倒れていた。化け物の足どりがこの屋敷に端を発していることは明らかだったのだ。
化け物はここから生まれた。そしてここに戻ってきた。
(もうやめて……)
助けを求める声の主を忘れ、理由も分からぬまま、優しい優しいシロラマロモッコは、その身を化け物にやつしたのだ。哀れな声を上げる誰かを助けたいという一念で珪化した。化け物を産み、自らの身を差し出して、それでも足りぬと全てを捧げようとしている。
(やめて! シロラマロモッコ!)
「仕方がないのね。……もう、全部あげるわ。私の、赤ちゃ、ん」
言葉尻は濁った泡がはじける音に化けた。ミスラの見ている前で虫に丸かじりにされた王女は、最後の言葉を涎の滴る化け物の口内で発していたのだ。ひょっとしたら、今でもまだ訴え続けているのかもしれない。必ず助けてほしい、と身を切られながら懇願しているのかもしれない。
やがて虫の巨体から、水音とともに幾本もの腕が生えてくる。しばらくは生まれ変わった身体を休めるように震えていた虫は、唐突に足を動かしはじめると、身を反転させた。立ち竦むミスラの横を通り過ぎて、通った道をそのまま引き返していく。シロラマロモッコの言う通りに、助けを求めている誰かを探しに行ったのだろう。声の主が人形になっているとも知らず。
ミスラは不安定に揺れる首を片手で支えながら、寝室の窓に歩み寄った。弱々しい縫い糸がかろうじて首をつなげていることが分かる。反対の手で窓を開け、二階から地上を見下ろす。四周はすっかり夜の帳に包まれている。しばらく待つと、眼下に悠々とした歩みで玄関から出て行く虫の姿が現れる。
(分かっているわ。こんなもの)
ミスラは虫の背中に向けて言った。
階上からの眺めは広く、ミスラは虫に近づく人影があることに気づくことができた。樹幹の方角からやってきたその人物が、ある距離まで虫に接近した後、どこか慎重に間合いを測る様子を見せたことにも。
(シロラマロモッコは明日もこうなるのね。悲劇も悲嘆も毎日繰り返されて、私が今さらどう思っても、それは既に起こってしまった過去のことで、こんなもの、なんでしょう。遅れてきた私の感情に価値なんてない。だけど)
ダヒテが庭師の手にかかって死んだ夜、第五王女の胸にきざしたあの感じが、ふたたび、今度はミスラの身の裡でとぐろを巻いているのが分かる。息を吹き込まれたように蘇る。逆巻く炎の渦が燃えている。
(だけど、あなたを滅ぼす理由がまた一つ上積みされた。それだけは憶えていて、悪魔……!)
人形の眼は宵闇を分け、もはや全てを見ることができていた。険呑な足どりで虫ににじり寄るその姿には見覚えがあった。そう昔のことではないのに、ひどく懐かしさを感じる。
鞘走りの音が聞こえたのは、もしかしたら高ぶる人形の耳がもたらした幻聴だったのかもしれない。だが、その後に聞こえた虫の断末魔は本物だった。屋敷からやや離れた途上で会敵した虫とキキオンの決着は、身震いするくらいにあっさりと片が付いてしまった。
ミスラは第二王女の寝室を足早に去った。




