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珪化の国  作者: しおなか
悪魔の羅針盤
30/40

妹 2

 その日、彼女の暮らす辺境の町には、朝から小雨が降り続いていた。

 客足が鈍れば売り子たちも暇を持て余す。店主の指示で、売り子たちは一人を売り場に立たせ、残りは建屋裏の作業場に引っ込み、滞りがちなパンかごの補充作業を行うことになった。腐ったり黴たりして消耗されたかごの代わりに、新しいかごを編みなおす。当然のように、黙々とではなく、売り子同士で並んで座り、おしゃべりに興じては町の噂の真偽を確かめあい、流行の尻尾を捕まえながらの作業だ。

 彼女もまた、植物の繊維をよりあわせた束を椅子の下に放って、少し大きめのパンを入れるためのかごを編んでいた。

 屋根に降る雨粒は優しく煉瓦に触れていくだけで、お喋りの邪魔をするような音を立てるほどではない。湿った木造の家屋の中で、女たちはささめきあっている。

「そういえば」

 と、彼女の横でパンかごを編んでいた赤毛娘のロリドミが言う。

「エビーアンってさあ……」

「うん」

 気を持たせるようにロリドミが言葉を切るので、彼女はいったん頷いた。エビーアン、という名前は、このパン屋で勤めている間の彼女の呼び名だ。

「前に、お兄さんと一緒に住んでるって言っていたわよね。ね、いくつなの?」

「えっ?」

 不意打ちの言葉は、一瞬だけ彼女の表情をこわばらせた。手元が狂ったふりをして、目線を編みかけのかごに落とし、心臓が平静を取り戻すのを少しだけ待つ。まばたきを一つして顔を上げる。彼女は分かりやすい困り顔を作った。そのまま、期待を隠そうともしていない同僚に告げる。

「私の四つ上だから……二十二かな」

「結婚は?」

「してない。でも、恋人がいるから。残念でした」

 まだ何も言ってないじゃない、とロリドミが頬を膨らませる。子どもっぽい仕草だが、不思議とロリドミにはよく似合っている。

「なに言ってんの。あんたって年中それだからね。分かんないほうがおかしいって」

 ロリドミの隣でまた別のかごを編んでいたやや年かさの女がぼやく。

「ふん、サージャは自分が片付いてるからそんな他人ごとみたいに言えるのね。どうせ私たちは十八にもなって結婚もしてないわよう」

「そこ、なんでエビーアンも一緒くたにしてんのよ。あんたと同列にしないでおやりよ。ねえ、エビーアンもそう思うだろう?」

「まあ、そうね」

「エビーアンったらひどい!」

 噛みつくように言ったあと、ロリドミがいきなり笑いだす。つられるようにして、彼女も笑い、サージャからもまた笑みがこぼれていた。なんのことはない、売り子の三人娘のうちうちで交わされる、よくあるたぐいの冗談なのだ。

 兄から話題が逸れたことに、露骨に彼女は安堵した。同時に、わずかばかりの罪悪感が胸の底に降り積もるのを感じる。彼女にとって、もはや兄の存在は無条件で受け入れられるものではなくなっている。それを、ささいなことの折にふれては実感してしまう。

 安らぎと安心をいつだって与えてくれた大きな手の持ち主は、あの日を境に変わってしまった。彼女のために犬を殺したあの日から。

「あーあ。私もエビーアンみたいに綺麗になりたいなあ。エビーアンたら、まるでミスラ様じゃない」

 かご編み作業の手を再開させつつ、ロリドミがぼやく。

「私の積極性と、エビーアンの顔があれば、たいがいの男なんていちころなのにさ。体つきは、まあサージャを採用してあげてもいいわ」

「ばか。あんたのその下品な言動を治さなきゃ、見た目がエビーアンだって変わりゃしないよ」

「ちぇっ」

「ミスラ様って?」

 そのまま拗ねるロリドミを眺めていても彼女の胸中は十分に凪ぐはずだった。実際、兄との関係に戸惑いを覚える日々に倦んでからは、彼女はそのようにしていくばくかの慰めを得ていた。売り子たちとの他愛のない会話で、暗い隘路に踏み込みかけている不安を薄めようとしていたのだ。

 だが、その日は、会話の途中に聞き慣れないものを耳にした気がして、つい彼女は口を挟んでしまった。

「ミスラ様って何? ロリドミ」

 聞こえていない様子の赤毛娘に、彼女はもう一度聞いた。少し驚いたよう表情で、隣に座るサージャと目配せしたあと、逆に訊ね返してくる。

「ミスラ様はミスラ人形だよ。……もしかして、知らない?」

 彼女が頷くと、二人はやや複雑な顔を見せた。どういうことだろうと、彼女が疑問に思ったとき、その人は現れたのだった。

「放浪の信徒たちが探し求める唯一の何か。それの似姿だよ」

 男の声だった。慌てたロリドミが編みかけのかごを膝から取り落とす。転がったかごは、泥のはねた黒いブーツにぶつかり、止まった。

 きっと自分たち三人は全く同じ目の動きしている気がする。そんなことを考えながら、彼女は地面に落ちたかごから、ブーツの持ち主へと、順番に視線を上に持ちあげた。端正な顔のつくりをした若い男がそこにはいた。背は高い。濡れ鼠になって、つややかな黒髪からいくつも滴がこぼれて身にまとう外套に吸い込まれているが、男に気にした様子はない。その表情は笑っているようである。

「輝く黄金の太陽の髪、白黒を分け信徒を導く金剛石の瞳。その姿は可憐な若い娘の形をとるとされている」

 君のように、と男が彼女に向けて続けたものだから、彼女はそれがミスラ様とやらの説明なのだと悟った。同時に、とてつもなくいたたまれない気分になる。思わず顔を伏せた彼女の脇腹を、ずいぶん興奮した様子のロリドミが知り合いなのかと訊きながら肘でつついてくるが、もちろん他人だった。

 父母が他界して以来、彼女は兄以外の異性と関わることを極端に避けてきた。町で二つしかないパン屋の売り子をやっていたから、男性から誘いを受けること自体はままあったが、どれもその場で断ってきた。他ならぬ彼女自身のためにだ。

「あんた、誰? 見て分かるだろ、ここはお店じゃないよ。パン買いたいなら表の子に声かけてくれないかな」

 最初に立ち直ったのはサージャだ。男の客としての不作法を真正面から咎めだて、不機嫌もあらわに立ちあがる。遅れて彼女も、少しおかしいと気付いた。売り場には一人売り子を残してきたはずだ。あの子はどこに行ったのだろう。

「不作法ですまない。ただ、表に人がいなかったんだ。もともと雨宿りさせてもらおうと入りこんだんだけど、思いのほかパンがおいしそうで。売り子が見当たらなかったから、ついふらふら……」

 と、男が降参の仕草をして下手に出た途端、サージャの眉がさっとつり上がった。足音荒く作業場から出て行き、売場へとつながる戸の向こうに姿を消す。

「アンナ! アントニーニャ!」

 ややあって、担当であるはずの売り子を怒鳴りつけるサージャの声が聞こえてくる。だが、それに対する応えはどうやらない。戦々恐々とした体で残された二人はサージャの帰還を待った。ふと、彼女がサージャの出て行った入り口付近に目をやると、恐るおそる売り場の様子をうかがっている男の表情に気づいた。男もまた、ロリドミと彼女と同じような顔をしているものだから、思わず彼女は表情を緩めてしまった。

「アントニーニャ!」

 ひときわ高い怒声が聞こえてくる。どこかにとんずらしていたアンナが見つかったのかもしれない。怖ろしい物でも見てしまったような面持ちで、肩をすくめた男が戸口から目を逸らす。その目線が、彼女のそれと絡んだのが偶然だったのかどうか、もはやそれは分からない。

 そのとき、彼女は笑っていたのだ。ずうずうしいくせに変な所で気弱な男が面白かったから。男にしてみれば、サージャの暴威から逃げた先で目が合ってしまった娘が笑っていたということになる。男が彼女の何を見て、そうしようという気になったのか、彼女はついぞ知ることはなかったが……男もまた彼女に微笑みを返したのだ。

 その日は朝から小雨が降り続いていた。

 彼女の暮らす辺境の町には、こういう静かな小雨が町全体を優しく包むように降る日は、そんなに多くなかった。大抵が長閑な晴天続きか、あるいは夕暮れから急変する嵐に似た豪雨か。両極端な天候に翻弄されがちなこの地に、ごくわずかの期間、曖昧な雨の時間が訪れることがあった。冬から春に移ろうごく短い季節の隙間だ。今日のような……あの日のような……静かな雨が数日間続くときがある。

 彼女はめったにない小雨の日だから憶えているわけではなかった。イグルスが一度冗談交じりに聞いてきたときは、恥ずかしさに少々迷ったものの、結局は否定した。

「出会った日のことを憶えてる?」

 憶えている。あなたはサージャに怯えっぱなしだった。

「お手柔らかに頼むよ、もう。……憶えていてくれて、ありがとう。君が忘れなかったのは、あの日がこの町に珍しい、小雨の日だったから?」

 ……違う。きっと天気が何だって、いつもと同じ一日だって、私はイグルスのことを憶えている。絶対に、忘れない。絶対に……これから何があっても……。

 雨は続いている。

 この町にはもういられない。

 町はずれの小さな小屋、長年彼女と兄のお城で有り続けたこの家にも、別れを告げねばならない。彼女は順番を誤ってしまった。彼女の腕の中でがたがたと震える熱い身体がある。うわ言のように聞こえてくる懺悔の言葉がある。

「すまない……すまない……許してくれ。おれにはおまえしかいない。おまえだけなんだ。おまえが全てなんだ。だから……もう……言わないでくれ。おまえが、おれをいらないって、おれが、……おまえが、おまえが、うああ、ああ、おまえ、おまえが」

 震える兄の背中越しに、彼女は動かなくなってしまった恋人の姿を見ていた。彼女が生まれたその日に受けた予言をもう一度思い出していた。

 ――この日教会の門をくぐるリスカーフォロンは、呪われる。悪魔に魅入られる。兄を殺す。恋人を殺す。絶望だけを抱えて、清らかな身のまま死ぬ……。

 自分は、呪われているのだろうか、と彼女は自問した。分からない。目に見えないものを確かめることはできない。

 自分は、悪魔に魅入られているのだろうか、と彼女は自問した。そうかもしれない。今でも時折夢に見る、川辺の光景があった。兄が自分のために犬を殺し、代わりにかけがえのない何かを失くしてしまったあの日の光景。あの時彼女の不幸は前奏を奏で始めたのだろう。犬はさながら破滅の使者だろうか。

 自分は兄を殺したか? 殺していない。代わりに、恋人を失くしてしまった。

 自分は絶望を抱えているか? 答えは今ここにあった。

 自分は清らかな身のまま死ぬのか? もう何もわからない。少なくとも、彼女は今後二度と恋人と呼びあえる存在を作るつもりはない。

 司祭の命を糧に託宣された月夜の予言は、ほとんど叶えられてしまった。残されているのは兄妹の死だけだ。それもそう先のことではないと、彼女は感じとっていた。兄は恋人を殺してしまった。この町にはもういられない。人の目を避ける流浪の生活に身をやつさねばならない。……だが、そんなことが長続きするとは思えない。

「お兄ちゃん」

 彼女はできうる限りの甘い声で、自失状態の兄に語りかけた。聞いていなくても構わなかった。ほとんど自分に言い聞かせるための作業だからだ。

「ねえ、逃げよう。イグルスの家族は、きっと私たちを許さない」

「おまえが……おまえだけが、おれの、おれの中身を、おまえが……」

 何が間違っていたのか。きっと何もかもがだめだったのだ。

 この日、彼女は恋人を初めて家に連れてきた。決して裕福とは言えない、ミスラ人形の存在すら知らないような貧しい小さな家だったから、恋人同士になってもなかなか家にまで招くことができなかった。様子の違ってしまった兄に会わせることにも不安があった。

 だが、雨日に当たり、偶然にも彼女と恋人は互いの職場から暇をもらった。気がついた時には、町はずれの家へと続く道を、並んで手をつないで歩いていた。

「どこに行こうか。お兄ちゃん行きたいところはある? 私は、ウラシリオロ国に行ってみたい」

 兄が不在にしていたから。もし、兄が家に最初からいたら。あるいは、日がな一日外をぶらついていたら。仮定したところで、いつかは同じことが起きていたに違いない。

 たまたま、兄が不在の家の中で、たまたま、イグルスが彼女に深いくちづけを求めて、たまたま、彼女がそれを拒んで、やめて、と言ってしまった。本心ではなかった。だが、玄関に戻ってきていた兄には通用しなかった。犬にしたのとまったく同じやり口で、彼女の恋人を殺してしまった。

「ねえ、そこの国には、一本の大きな大きな樹があるんだって。ウラシリオロの国民は皆その樹に住んでいるんだって」

 彼女の抱える重い身体からは、湿った汗のにおいがする。兄の頭に指先をさしこんで、明るい枯れ草色の髪をかき混ぜる。兄は父から髪の色を、母から瞳の色を受け継いだ。彼女はその反対だった。あまり兄妹に見えないと、昔から言われていた。町で歩いているところを知り合いに見られて、恋人みたいだと言われたときは、くすぐったいような気持ちになったものだった……。

「お客さんが教えてくれたのよ。樹の中にある都ウラシルは、そこに向かった旅人を、何人も行方知れずにしているって」

 きっと、その都まで逃げることができれば、誰ももう追ってはこないだろう。彼女と彼女の兄は、そこで静かに暮らすのだ。そうすれば、最後に残された予言だけは、免れるかもしれない。兄を殺してしまうという、その予言を。

「予言……予言なんか」

 そのとき初めて、彼女の頬を涙が伝った。行き場を失くした悲しみの発露ではなかった。そこにあったのは純然たる悔しさだった。彼女は自らの名に負わされた予言に抗うため、親からもらった名前を早々に捨てることにした。そうやって、十九年間、徹底して生きてきた。だというのに、もはや彼女に残されている反逆の手段は兄の命ただ一つなのだ。

 ――この日教会の門をくぐるリスカーフォロンは、呪われる。

 ――悪魔に魅入られる。

 ――兄を殺す。

 ――恋人を殺す。

 ――絶望だけを抱えて、清らかな身のまま死ぬ……。

 ふと彼女は自分が抱きしめている兄の体温の熱さを意識した。外見はまるで彼女と似ていない、彼女の四つ年上の、一年前からずっと他人のようになってしまった男を、改めて見つめた。

「許して……ゆるしてほしい。おれを見捨てないでくれ。……うあ……あああ……お、おれ……おれには、おまえだけなんだ。どうか、いらないなんて……言わないでくれ。おまえのことが、おれは……ああ……」

 それは、とても良い考えなのではないかと、彼女は思った。

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