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珪化の国  作者: しおなか
悪魔の羅針盤
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ミスラ 18

 行く手から漂う風に生臭いものが混じっていることに気づいて、ミスラは草原を分ける足を止めた。草を踏む音が止むと、風渡る草原の声だけが耳に残る。ゆるやかに傾きかけた太陽が、枝の大地に引く影たちの存在を少しずつ大きくしていく。

 ミスラは目を凝らした。草の海に潜む何者かの姿を捉えようとするが、辺りはまるで平生の様子で、ミスラがこの枝を訪れたときと何一つ変わらないように見える。ただ、なま暖かい湿ったような臭気が、高原の風に時折混じり、人形の鼻になんらかの脅威の存在を教えてくる。

(この枝から離れた方が良さそうね)

 つぶやき、足を早めたところで、ミスラは人形の顔をわずかに動かした。動悸が少し早くなる。近づくにつれそれは明らかになった。生臭い風の出所は、どうやらミスラがここに来たときと同じ、枝と樹幹内部をつなぐ門の中からだ。何かが、この枝を目指して、樹幹の螺旋階段からやってきているのだ。

(この期に及んで、何か、だなんて……来るのは結晶化した化け物に決ってる)

 心臓がきしむ。ぞっと身震いする。すれ違わずにやり過ごすことが可能だろうか、と自問しかけたところで、ミスラは一つ思い出した。

 草原に伏せていたシロラマロモッコの守り手。あの男ならば、あるいは、この得体の知れぬ脅威を取り除けるのではないか?

(あの人はそのために身を隠していたのかも知れない。シロラマロモッコを化け物から守るために)

 振り返り、ミスラは遠く背後の枝の先端を見つめた。ぼんやりとけぶる雲の靄に隠れて、枝の一番端にあるはずの第二王女の館は見えない。見えたところで何もない。そこに王女はいない。いるのはかつての第二王女のなれの果てであり、微笑むたおやかな姿は、もはや思い出の中にしか存在しないのだ。

「まだいたのか、人形」

 と、ほど近くの茂みが揺れる。ミスラが見つめる先で、金の短髪に草を絡ませた男が、草の中からゆらりと立ち上がる。先ほどはよく観察する暇もなかったが、ミスラはようやく男がシロラマロモッコ付きの近衛であったことに確信を持った。白髪城の中では滅多に見かけない、鳥の紋章が入った外套に身を包んでいる。裾から覗く鎧は軽装だが、鳥の紋章は大樹の守護者の証し、王の眷属を守るため剣盾を持つ者のしるしだ。

 白髪城は層と層を隔てる堅牢な関所でもって人の出入りを厳しく管理していたから、実は王や王族たちを守る兵士たちは、他国に比してほとんど存在しない。王と第一王女と第二王女、それから上の姉たちと少し歳の離れた第一王子だけが近衛と呼ばれる身辺警護に長けた兵士を侍らせていたのだった。在りし日の第五王女は不思議に思って第四王女にその旨を尋ねたことがあった。なぜ私たちにはあれらの兵士がいないのかしらとの問いに、金属管はほんの少しの間を空けて、こう答えてくれていた。……必要がないくらい私たちは安全なところに暮らしているの、そしてそれは、とてつもなく幸せなことなのよ、と。

「早く去った方が身のためだ。直ぐに化け物が来る」

 感傷を切り払う強い声がミスラにかけられる。先ほどミスラの首に剣先を突っ込んだその人が、心配の口上を述べてくる。彼にとっては、ごく自然なことなのだろう。あまり深く追求しないことをミスラは決めた。珪化した人間はなべてまともであることを期待してはならないのだ。比較的正常に見えるこの男でさえ、彼が言うところの化け物と大差がない存在だということを、忘れてはならない。

 化け物たちの差異は、彼らの目的だけだ。目的から巧く身を逸らすすべがあるならば、どんなに人間らしいものが現れても、どんなに醜悪なものが現れても、関係ない。

(化け物は幹の中から来るのでしょう。……あなたは化け物から王女を守るためにここにいるの? 追い払うすべはあるの?)

 ないならば、速やかに身を隠さねばなるまい。窺うように眼を細めると、向かい合う男もまたミスラと同じように何かを探るような眼をしていた。その眼が、ごく短い間、光ったような気がした。

「うん? 俺は今、良い閃きに出会ったかもしれぬ」

 男の瞳をよぎった暗い輝きにミスラは見覚えがあった。内なる結晶の輝き。それは、唯一以外のための犠牲を見つけた者の眼だ。平気な顔をして切り裂いて、顧みない者たちの眼。

「尊公を餌にするのも悪くない」

 そう言うと、男は頓着せず腕を伸ばしてミスラの手を取った。心臓が命じる本能のまま、ミスラは後ずさったが、掴まれた腕が伸びきると、その後退も打ち止めとなる。とても振りほどけない強さで手首を握られている。もしもミスラが生身の人間だったら、骨の軋む音に悲鳴を上げてしまったかもしれない。

(餌?)

「奴は悪食だ。人形も構うまい」

 男は罪悪感の欠片もなく淡々と述べた。腕を振り払おうとするが、やはりうまくいかない。

 悪食の化け物。それは、もうじきここにやってくるという……ミスラはふと気付いた。

(あなたはなぜ知っているの? そういう化け物がいると、誰かに聞いた? シロラマロモッコに?)

 それとも、憶えているのだろうか。この国の民と見なされず、時の円環を外れた第五王女のように、繰り返す一日のことを憶えている?

「軽々しくあの方の御名を呼ぶな」

(あなたは憶えているの?)

「分からんことを言うな、人形。尊公はおとなしくしておれば良いだけだ。簡単な話だろう?」

(あなたは、化け物が来ると知っている!)

「ふむ、人形を動かなくするには、足でも折ればいいのか? どうだ?……やはりこうすればいいか。そら、奴がお出ましだ。存分に働けよ」

 その声を、ミスラは草原にうつぶせたまま聞くことになった。剣の鞘で砕かれた両手足を地に投げ出して、まだ動く首と肩で身体を反転させようとすると、背中に衝撃が乗る。きっと男に踏みつけられている。どうにか顔だけを持ち上げることには成功するが、膝丈ほどもある草が邪魔をして、すぐそこまで迫っている化け物の姿をとらえることすらできない。ミスラは踏まれたままもがいた。久しく忘れていた感情がこみあげる。庭師の道に乗ってしまったときに似た焦燥が、心臓を怯えさせる。鼓動が人形の内側で反響する。

 このままでは、また、殺される。時の呪縛から逃れた心臓を、こんなところで失くすわけにはいかない。それはミスラに残された唯一のものなのだから。

 逃げられない。受け入れることもできない。

 ならば、どうしろと言ったのだったか……悪魔の声は?

 ミスラは人形の身体に命じた。決心してしまえば、意外に簡単なことだった。うつぶせた姿勢から、折れた腕をねじ曲げて、背中に乗る男の足に絡みつかせる。不意を突かれたのか、ミスラを地面に縫い止めようとしていた力がごくわずかな間、削がれる。その一瞬にミスラは跳ね起きた。いきおい振り向き、自分の手足を破壊せしめて地面に転がし踏みつけた男に対峙する。

 心臓が燃えるように熱かった。体のあちこちから布を引き裂いたような音が聞こえてくる。ミスラに叫んだ覚えはなかったが、人形の身で思い切り悲鳴を上げようとすれば、きっと同じ音が出るのだろうという予感がした。あり得ない方向に曲がっていた腕を脇に戻して息をつく。幻の吐息がこぼれる。

 仕草に意味はなかった。それは、まともな人間をしていた頃の名残にすぎない。

「なに? 立てるではないか。尊公、先程は人間のふりをしていたのか?」

 男の目線が、ミスラの手足をすばやく往復する。一度は壊された足が怯まぬよう、ミスラは己を叱咤した。

「人形ふぜいが人間のふりをするなど片腹痛いが……今はよそう」

 好き勝手に言う男の言葉を待つまでもなかった。男の背後、樹幹の方から這い寄ってくるものの姿が、ようやくミスラの眼にも映ったからだった。

 ゆっくりと、男がミスラに背中を向け、姿を現したものに対峙する。二人は同じものを見ていた。

 最初は、巨大な虫に見えた。巨大な甲殻を背負った多脚の虫が、草の海を分けて這い寄ってきているのだとミスラは思った。虫が近づいてくるにつれて、その仔細が目に留まる。湿った土に埋まった石をひっくり返した裏側に、これに似た虫が棲んでいた気がする。背中を覆う甲殻は、わずかずつ重なる金属の曲板を何枚も並べているみたいだ。甲殻に守られた背中の曲線は見事な隙のなさである一方、腹の下から生える無数の足は生白い色で弱々しく、牛五頭を束ねたほどの大きさもある虫の巨体に、妙に不釣り合いだった。

 草の茂みから見え隠れする白い脚の群れはミスラの目を引いた。白く、なめらかに動き、節もない脚。まるで人間の女みたいな綺麗な脚が、華奢な姿に似合わぬ早さで、巨大で重たげな虫の身体を運んでくる。ミスラは逃げることもせず、その異様な光景に釘付けにされた。

 その時、虫が動きを止めたのは、偶然だったのかもしれない。

 あるいは、ミスラの前に立つ男が、一度目はミスラの首を抉り、二度目はミスラの手足を砕くために使った剣を構えたからかもしれなかった。

 両者の距離はもういくらもなかった。虫が歩みを止め、生臭い風だけが吹き付けてくる。沈みかけた太陽の投げる光が、虫の顔に埋められた八つの瞳に反射した。二つの牙がせり出し、人間の胴体くらい一噛みで砕けそうな大顎が打ちあわされる。威嚇のためにか、虫は胸から上の半身を持ちあげ、鋭い声を発した。

 何十もの脚が、天に開いてうごめく。

 爪先まで美しい脚だった。

 それは、本当に人間の脚の形をしていた。ほっそりとした人間の女の腿が、虫の腹の下から大量に生えている。

「もちろん憶えている」

 男がどこか遠い声音でつぶやいた。

「朝起きたことを忘れるほど俺は馬鹿ではない。戻ってくることは分かっていた。これは食べ残しを取りに戻ってきたのだ」

 うわ言のような内容であるそれが、つい先ほどの問いに対する答えなのだと、ややあってミスラは気付いた。憶えているのか、とミスラは訊いた。

「だが、二度目は許さない。殿下の半身は俺に返してもらう」

 悪夢のような光景を前にミスラは立ち竦んだ。

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