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珪化の国  作者: しおなか
悪魔の羅針盤
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王女 エンディング

 日は飛ぶように過ぎ去り、クローゼットのドレスは使い果たされた。新たな衣服を求めた第五王女は、同じものをまた着るよりはと、椅子に腰かけていたミスラ人形を目に留めていた。

 人形はちょうど第五王女と同じくらいの背格好だ。信徒と呼ばれる人々の間で神格化され敬われている美しい娘を模ったその人形も、所有者が変われば裕福な屋敷を飾る財の一つにすぎない。だから、第五王女も、敬虔な気など欠片も起こさず、次はあの服なんてどうかしらという考えに至っていたのだ。

 クローゼットの隣に備え付けられている鏡台のすぐ横に、天鵞絨で背張りされた黒い椅子が二つ並んでいる。一つは空席で、もう一つがミスラ人形の席だ。第五王女は空いた椅子に腰かけて、隣で大人しくしているミスラ人形の髪を撫でた。この人形よりも第五王女がずっと小さかった頃があったはずなのに、こうして同じドレスを着られるくらいに大きくなった自分のことが、どこか不思議な感じがするのだった。淡い金色に染められた絹糸の髪は、第五王女の指の間を滑らかに抜けて、人形の胸元に流れた。ドレスの襟元に細かい刺繍が施されている。人形の着ている服であっても、最高級のものを着せるように命じたのは、一の幹にいるはずの父王だ。何気なく刺繍を指先でたどるうち、第五王女はふと息を止めた。

 そのとき、脳裏に浮かんだのは刺繍糸の束だった。

 昔、刺繍の上手い侍女がいた。彼女は実に色とりどりの刺繍糸を持っていたものだったが、それらを選り分け、荷の中で絡むことが無いようにと、五十本くらいの同色の糸を束にして括っていたのだ。刺繍糸は、真ん中と両端にほど近い場所の三箇所できれいに束ねられていた。かつて、悪魔に呪われたこの城で、第五王女の暮らしは、刺繍糸の真ん中の括りをほどいた時の状態に、よく似ていた。一日は同じ朝から始まって、その後の彼女は何をしても構わなかった。ただ、上下の層は関所によって鎖されていたからそう遠くには行けなかったし、昼間の間にどんなに新しいことをしても、夜が来ると必ず同じ結末を迎えていた。それは、真ん中の縛めを解かれた刺繍糸の束に似ていると感じたのだ。刺繍糸の束は、中央の留めがほどけたところで、少し膨らむかもしれないが、両端で抑えられているのだから、ばらばらになってほどけることはない。

 夜を迎えることを捨てた第五王女のやり方は、刺繍糸の束を真ん中で切り取って、短くなった端を新しく別に括りなおした行為にほかならなかった。

(もっと状況が酷くなって、昼も捨てなくてはならないことになったら、私はきっと我が身かわいさに昼だって捨ててしまうわ。もっともっと恐ろしいことが迫れば、朝だって捨てるに違いないのよ)

 刺繍糸の束は短くなっていく。それでも両端は固く締められている。やがて、両端の締め付けに抑えられて、中央の膨らみは消えて、一本のまっすぐな線みたいになることだろう。まっすぐな線。朝起きて直ぐ崖際まで走って飛び降りる。墜落して、目が覚めて直ぐ崖際まで走って飛び降りる。潰れて目が覚めて、直ぐまた飛び降りて目が覚めて飛び降りる、ただそれだけの短い命を繰り返す何者かになってしまう。

(いや……!)

 恐ろしいものを遠ざけて、好きな服を好きに着て、姿見と一緒になって笑っているうちに、致命的な過ちを犯しかけていたのだ。健全な精神を保つことで、見落としていた可能性に思い当たる余裕が出てきたのだろうか? 尊厳を蹂躙される恐怖を半ば強制的に世界から追い払うすべを見出し、それをしばらく続けていた頃になって、自らが珪化の道をたどっている可能性に初めて思い当たる。

 珪化を逃れて、それがゆえに陥った終らない恐怖に怯えて、そこから逃げ出した先でもう一度同じ罠に嵌まりかけていたのだ。とんでもない大間抜けか、あるいは、皮肉めいた運命か。笑い出してしまいたかったのに、喉はいたずらに震えるだけだった。

(襲われることはいや。化け物になり果てることもいや……いやよ。いや!)

 そのまま第五王女は日暮れまで自室で震えていた。

 ようやく震えが止まったとき、寝室のカーテンの隙間から覗く光は、赤々と燃えて夜の訪れを予告していた。よろめく足取りで部屋を出る。第五王女が目指したのは外だった。飛び降りるか、飛び降りずに逃げられる場所まで無駄な逃亡を足掻くか、どちらとも決めることができないまま、暮れなずむ草原にまろび出る。

「いやよ……もういや」

 風は悲鳴を遠く地平まで運んでくれるが、耳にするものはいないのだ。第五王女の声は、同じ日を繰り返す城の住人たちの耳に届かなくなって久しい。彼らの決められた一日の埒外にある事象は、不気味なほどに無視されて、一顧だにされない。涙が一筋頬を流れた。

 濡れた頬が乾く頃、第五王女は屋敷のそびえる丘を下り終え、用人たちの寝起きする居住地を過ぎていた。崖際は歩かなかった。庭師イズワボロが残した土の跡を踏まないことだけに注意を払いながら、目的地も定めずただ足を動かしていた。

 日がとうに沈んでいるという事実が、背中を冷たい炎であぶっているような焦燥を押しつけてくる。ダヒテはきっと来るだろう。見つかるその前に、捕まるか、飛び降りるか、早く心を決めなくてはならない。

 微かな草を踏む音が、遠くから聞こえてくる。第五王女は振り返った。燃えあがる太陽の最後のなごりが消え失せた夜の中を、半分の月が照らしている。薄闇をぬって、蠢く者が近付いてきている。草を踏む間隔は早く、耳はその者が走って第五王女に向かってきていることを教えていた。影が大きくなっていく。両腕を広げる仕草はまるで楽しげにも見える。身体を左右に揺らして駆け込んでくる。

 第五王女は悲鳴を上げていた。あらん限りの声を絞り出して、男に背を向けて逃げ出した。息が上手くできない。強張った両膝はすぐにでも砕けてしまいそうだ。足がもつれて転びそうになる。身体のほとんどが怯えきり、動かすことがままならない。

(だめよ……逃げきれるなんて、無理なんだわ。飛び降りるしかない。早く、崖に……早く!)

 しゃにむに駆けた時間は驚くほど短かった。第五王女の決死の逃走は、追いついたダヒテが腕を少し伸ばしただけであっけなく終わりを告げた。ドレスの襟を掴んだ男の指が、首ごと息を締め上げて、第五王女はたちまちその場に崩れ落ちた。薄ぼんやりする意識だけが、状況を断片的に拾い上げてくる。ダヒテは第五王女を壊れ物でも抱えるように、そっと持ちあげた。首を絞めたのと同じ手で、膝下と背中に腕を差し込んで、微笑みかけてくる。庇護すべき者を得た守護者のような満ち足りた笑み。

(可哀想に)

 泡沫のように浮かんだ思いはほとんど無意識の上だった。第五王女の知るダヒテの姿は、いま目の当たりにしているこちらが本当なのだ。彼がかつての彼であり、己の所業を知ることがあったならば、自惚れでもなんでもなく、彼は自刎して果てていただろう。朝に全てを忘れる身であるがために、歪められた生はとどまることを知らない。

(可哀想に……)

 そのとき、ぽた、と何かが第五王女の頬に落ちかかったのだった。暗いまどろみに引き込まれかけた第五王女は、その感触にすがりついた。淡い期待があった。もしかしたら、ダヒテは泣いているのかもしれない……。

 ごぼっ、という汚い水音のようなものが、第五王女の感傷を引っ叩いたのは、いくらもしないうちだった。第五王女を覗きこむようにしていたダヒテの口から溢れた血が、降りかかる。男の腕から力が失われ、第五王女は落下した。石畳に強く腰を打ちつけて、悲鳴が漏れる。

(石畳!)

 背筋を悪寒が駆け抜けて、第五王女は転がってその場を逃れた。鋭く高い音が直ぐ後に続いて、第五王女は自分の予感が正しかったことを知った。腰の痛みによろめきながら、だが、全霊をかけてその場から離れる。すぐに足元の感触が草に変わって、第五王女はようやくそれを振り返った。冷や汗に濡れた額に張り付いた髪を震える指で払い除ける。

 ダヒテは石畳に倒れて動かない。

 月が照らす白い道は、昼の世界で見た時は、琥珀に輝く石の道だった。庭師が丹精込めて掃除をする、お決まりの道筋の上。男の背に突き立つ巨大な鋏を、第五王女は呆然と見ていた。倒れた男の傍らで庭師は既に穴を掘りはじめている。

 危険な閃きが、もう一つ己の中で産声を上げたことに、第五王女は気付いた。たまらず、その場にうずくまり、胃の中のものを吐き出した。身を折ってえずくうちに涙があふれてくる。だが、夕暮れの中屋敷から出てきたときのそれとは、明らかに意味合いの違う涙だ。第五王女は黙って滂沱と流れゆくそれを享受した。

「逃げるか、受け入れるか、それだけしかないと……そう思っていたのに。違ったんだわ」

 ――その通りさ。

 独りごちた声に、思いもよらぬ応えが返る。その夜、第五王女は悪魔に出会ったのだ。

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