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珪化の国  作者: しおなか
悪魔の羅針盤
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信徒 4

 教えられるよりも先に万人の心に棲みつく不思議の存在を、ある人は根ざしし者と呼び、ある人はかの者と呼び、ある人は御方と呼び、またある人は神と呼んだ。唯一なる何者かを定め、近づこうとする一派は、黄橙の衣をまとい、かの人が背に負っている翼の象徴を装身具のいずこかに携え、各地に教会を築いた。人は彼らを指して信徒と呼んでいる。

「あのお方の存在を知ることができる者はそう多くないのだ」

 教会の門をくぐった日、シェルドゥルファトムは司祭からそう教わった。そのときシェルドゥルファトムはかすかな驚きと興奮が胸に兆すのを感じたものだ。シェルドゥルファトムにとっては当たり前だったあの人が、誰にとってもそうではなかったということ。それから、自分が選ばれた少数であるということ。

「司祭さま」

 逸る気持ちのままシェルドゥルファトムは司祭の衣を引いた。

「あの人にどうすれば会える? 会いに行けば会えるの?」

 司祭はただ首を振った。彼もまた一人の信徒であり、程度が違うにせよ似たような望みを秘めているのだと、後にシェルドゥルファトムは知ったのだ。

 清貧な教会の暮らしは悪くはなかった。卓に饗される食事の量は少なかったが食いっぱぐれることはなかったし、教会で暮らす人は皆がシェルドゥルファトムの事情を理解してくれていた。あの人に焦がれてやまぬ胸の疼きを受けとめてくれた。生家のある村での暮らし、不理解と恐慌に陥った眼に囲まれて殴られ続けた頃とは違う。雲泥の差だ。

 それに、折に触れて司祭が語って聞かせてくれる信徒の物語も、シェルドゥルファトムのお気に入りだった。あの人に至る十の道の話。最も早い時期にあの人の顔に触れた信徒の話。昔々の信徒が最初の教会を作るまでの話。ついでに、司祭その人が持つ穏やかさと優しさも、シェルドゥルファトムは嫌いではなかった。

「まだ信徒が信徒たりえぬ頃、茫漠たる霧の時代……」

 司祭の物語は必ずこの出だしで始まった。教会での暮らしを定める規律や説法を右から左の耳に流しているシェルドゥルファトムは、司祭の口からこのひと連なりの言い回しがつむがれると、途端に冷たい床に膝をつき、姿勢を正したものだった。シェルドゥルファトムがミスラのことを他の人間の口から聞いたのも、このときのことだ。

 今世までに信徒たちが見つけたかの者に至る道は、秘中の秘とされる門外不出の法はいざ知らず、広く世には、十の道があると知られている。そのうちの一つがミスラ。

 心に棲みつくかの人は、ときおり、少数の人々、たとえば瀕死の老人や、高熱にうかされた若者の脳裏に、その姿を見せることがあると言われている。少数の中の、さらに少数は、生還したあとにかの者の姿を絵に残し、塑像し、人形に写し取った。偶然の一致にしてはあまりに似通った完成品の姿を、人々はミスラと呼んだ。ひとたびミスラの姿が定まれば、幸運なひとすくいの者らの手を借りる必要はなくなり、心に根ざすかの者の姿を真似た偶像はたちまち世にあふれかえり、極度の信徒は、自分の娘の髪を染めさせたり、あるいは姿形の似通ったただの娘を攫い、人知れずあがめたてまつることすらあった。

 数多存在するミスラの中に、たった一つ、本物が宿る器がある。それは精巧な人形であるとも言われ、精密画であるとも言われ、生身の人間のうち最も姿の近いものであるとも言われた。似姿と呼ばれるそれは、十あるかの者に至る道の中で最もかの者の裾を踏むことが困難であるとされ、また同時に、最も近づける手段であるともされている。

 どの瞬間でもあらたなミスラが生まれていた。当たりは一つしかないが、手にすれば、目で見て触れることができる。心に描いた永遠の憧憬に手が届く……。

 司祭がそう語ったとき、シェルドゥルファトムの内心はときめかされた。いつか彼女を数多の中から掬い上げ、あの人を手中におさめてみせる。そのためならなんでもしようと、幼い心に決めたのだ。

 従順に、したたかに、シェルドゥルファトムはミスラを追い求めた。やがてそれは教会の隅に居着いた退廃の男の知るところとなり、シェルドゥルファトムはいくばくかの慰めを代価に、悪魔の居場所を聞き出した。しかし、ついに悪魔との邂逅を果たしたところで、シェルドゥルファトムは失望を知ってしまった。悪魔はしょせん悪魔にすぎない。悪魔はミスラではなかったのだ。

 悲嘆にくれる少年のシェルドゥルファトムに、滴る毒の声音で悪魔は告げた。悪魔はあれに近づくことはできぬが、あれに近づく手段を人に与えることはできる、それでどうか、と。シェルドゥルファトムの絶望は歓喜の嵐に吹き飛ばされた。もちろん彼は喜んで提案に飛びついた。悪魔が美しい顔と美しい心が欲しいと言ったので、シェルドゥルファトムは美しいと評判だった彼の顔を差し出し、穢れのない教会の人々の心を炎で贖い、引き換えに悪魔の羅針盤を手に入れたのだ。

 辺境の一都市にある教会だった。孤児や迫害から逃れた者らが寄り添い集まる、小さな教会だった。だから火事騒ぎが起きて、焼け跡から見つかった人の数が徴税官の台帳より一人少なかったという事実があっても、さほどの問題にはならなかった。

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