ミスラ 15
シェルドゥルファトムと名乗った仮面の男は、まるで抱擁でもするように両腕を広げた。仮面に隠された顔は見えずとも、鈍色の下で微笑んだことが分かるくらいのおおらかさで、ミスラの全てを歓迎するような抱擁の仕草を見せる。
瞬間的に、暗い怒りが心臓でとぐろを巻くのをミスラは感じとった。沸き上がる衝動に身を任せてしまいそうになる。人形の重たい四肢をことさらに意識して、ミスラは男の仮面を引き剥ぎたくなる気持ちをおさえた。
仮面の男が見せる穏やかさは今のミスラにもっとも不要なものなのだ。安穏さなど求めていない。必要なのは悪魔を殺す、その手段だ。
まだ終わっていない。
悪魔殺しをやりおおせていない。
ほとんど反射的に覚えた怒りの正体を、ミスラは掴んだ。この男はミスラの行く手を阻もうとしていると本能的に嗅ぎ取ったのだ。
(悪魔。悪魔が教えてくれた? どういうこと……あなたはどこから来たの)
仮面の下でどんな顔をして繰言を述べているのか。確かめる代わりに、矢継ぎ早の問いを投げつける。今にも触れてきそうだった仮面の男の指先から身を逃すようにしてミスラは立ちあがった。人形の靴の裏で青い草がすり潰される。
ミスラは己の手のひらを握った。肩をそびやかし、顎を上げて周囲を眺める。高々度の冷えた空気から生まれた靄を、風と日差しがかわるがわる開いていく様子が見える。
「私めはここより遙か西の土地より参りました」
言いきると、仮面の男は気配だけで穏やかに微笑んだ。
「人去りし古都ウラシルの白髪城より、根元から数えて八つの門を抜け、貴女の存在を知らせたときの我が羅針盤の高鳴りを、私は生涯忘れぬと誓いましょう。神秘の息吹が吹き込まれし奇跡の造形、緑の野に横たわる貴女を見つけた瞬間を」
感激にうちふるえてひざまずく仮面の男を、愕然とミスラは見下ろした。地上から数えて八つの門と、この男は言った。その言葉を信じるならば、ミスラはすでに二の幹まで登ってきているということだ。誰がミスラをここまでつれてきたのだろうか。……問いの答えは決まっている。仮面の男はここでミスラを見つけたと言った。ならば、他にこの城でまともに層を越えられるのは、キキオンでしかあり得ない。
と、ミスラは目を見開いた。
今がいつかなのか、まるで分かっていないことに気づいたのだ。
四の幹から二の幹まで、ただ登るだけなら、二日かそれ以下だが、自分がどれくらいの間千切れたまま寝ていたのかまるで見当がつかない。一日か、二日か。一年か、十年か……キキオンはまだ生きているのだろうか。ようやく見つけた悪魔殺しの手段を持つ、ミスラの救いのものは。
(行かないと)
「そんなに急いで何処へ行くのです」
ミスラの焦燥をあえて逆撫でするような声音で、仮面の男が笑った。先に立ちあがったミスラにやや遅れる形で腰を上げ、背筋を伸ばすと、信徒の黄橙色の衣に身を包んだ姿は遙かに上背があった。ミスラよりも頭一つはゆうに高い位置から、妙に落ち着いた感のある声を落としてくる。
「ここは面白い土地です。慌てて去るものではありませんよ。時の止まった円環の地、化石の中……。おとぎ話で聞いた幻の国、珪化の国そのものではありませんか。貴女と私にとってこれ以上なくふさわしい終着の地」
仮面の男は満足げに頷いた。
(何を言っているの?)
ミスラは訝った。分からないのは仮面の男の目的だけではない。彼は白髪城の時が停止していることに気づいていると暗に示したのだ。この城、ひいてはこの国の者ではない。西方から来たと言うが、いつからこの国に這入りこんでいたのだろう。それに、今いる枝が高層である二の幹上にあるのだとすると、一見軟弱な風情のこの男が、層と層を隔てる関所をいくつも越えてきたという証になってしまう。この仮面の男が、関所で待ち受けていたであろう異形の門番たちをかわしきったということだ。……ミスラは己の手が無意識のうちに首に触れようとしていることに気づいた。四の幹につながる関所で門番の手によって分断されたはずの頭と胴体は繋がっている。今はまるで何事もなかったかのようにミスラは動いているが、もっと疑問を抱くべきなのかもしれなかった。
はじめは躊躇いがちに壊れ物を触るように、やがては両手を使って首の回りを指先でなぞる。首の回りを、縫い目のような何かが走っていることに気づいて、ミスラは問うような眼を仮面の男に向けた。仮面の男はただミスラを見つめ返した。
(どういうこと?)
こぼれたかすれ声は独白だった。
縫い目のようなものが真実縫い目だとすると、ずいぶん下手くその手になるものであることが、大雑把に触っただけでも分かる。まるで慣れない者が無理をして縫い合わせたみたいな不出来な裁縫。きつい首飾りのように縫いこまれ、巻きついたそれを、ミスラは繰り返し撫でた。
(私の首……)
「首!」
そのとき、確かに仮面の下で両の眼が見開かれたのだ。
突然叫んだ仮面の男を仰ぎ見、錯覚ではなく、確信を持ってミスラは震えた。
「貴女は、貴女は、首とおっしゃった!」
それまでの従順な様子をかなぐり捨てて、仮面の男は総身をわななかせた。激した感情を御することもせず、高らかな笑い声を吹きあげる。
「やはり! 貴女は忘れていなかった! 始めからそうおっしゃってくだされば、ええ、私めは!」
(首?)
戸惑うミスラをまるで無視して、仮面の男は愉悦にとろけた声音をつむぐ。
「首……ええ、左様にございます」
ごく当たり前のような手つきで、仮面の男はミスラの手を取った。咎めるつもりでミスラが人形の眼を細めても、鉄仮面は無機質な表面を返すだけだ。双眸の代わりに、暗い二つの穴がミスラのガラスの眼と向き合っている。
「貴女は憎きあの男の首をご所望になられたのだ。貴女は私めにお命じになる。貴女は私めに記憶を取り戻せとおっしゃる。貴女は私めにその身を満足させよとおっしゃる。やはり貴女だ! 貴女がミスラ。私のミスラ」
仮面の男の手が動く。人形のすべらかな腕を、薄いドレスの生地ごしに柔らかくさすりあげていく。肘の先……二の腕……肩……肌の上で指が舞踏を踊る。怖気が立つ手つきで順に触れていく。仮面の男の親指がためらいなく人形の鎖骨をたどろうとしたところで、ミスラは思い切り目の前の男の胸を押した。仮面の男は逆らわずに身を引いた。
たたらを踏んだ男の足にあわせて、黄橙色の衣が風をはらみ、ふくらんで、しぼんだ。
ミスラはようやく気がついた。この男には中身が無い。顔を仮面で、身体を黄橙色の衣で覆った男は、巧みに中身を隠しているのだ。誰でもない、顔のない男。誰でもこの姿になりかわることができるだろう。敢えて目立ちすぎる特徴を用意して、そのくせ実態は何一つ外に見せない、個人を排した異常性をまとっている。ミスラはよろめいた。
(やめてくれないかしら)
ミスラには人形の身体をいとうつもりなど毛頭なかった。だが、それ以上に仮面の男との接触は耐え難いものがあった。つっかえた声を絞り出すようにしてもう一度言う。
(私に近寄らないで)
「これは。私としたことが、大変な失礼を」
仮面の男は彼の手をそそくさと黄橙の衣の下にしまい込んだ。手が悪さをしたのだと言わんばかりのふざけた態度で、その姿勢のまま慇懃に一礼し、かしずくように膝を折る。
「貴女が私めに御身をお許しになるのは、あの男の首を取ってきてからでしたね。邂逅の喜びに我を忘れて無礼を働いてしまいました。ミスラ、どうかお許しを」
(何を言っているの? そんな約束、してないわ)
ミスラの抗議を軽く傾げた首で追い払い、仮面の男はまた少し笑った。
「貴女はそれすらお忘れになられた? 毎晩、確かめにいらっしゃるではないですか。私めの夢の中にまで入り込んで、我が身を解放に導けと、天上の声でささやきになる……貴女の声が……!」
仮面の男は膝を崩した。芋虫のように身を丸めて呻き声をあげる。ミスラには聞き取れない声で、言葉をとめどなく吐き出す。聞きようによっては祈りの文言とも取ることができそうな、悲哀に満ちた言葉を。
(ごめんなさい。あなたが何を言っているのか、まるで分からない)
かろうじてそれだけを告げて、ミスラは身を引いた。
悪魔を殺さなければ。キキオンを探さなければ。キキオンは悪魔を殺すと言っていたのだ。彼の心に変節が起こらなければ、玉座を目指すどこかの途上でじきにもう一度出会えるだろう。彼はおそらく先行している。ミスラは追いかけなければならない。
(もう行くわ)
ミスラは服に付いた草を払い、四辺を見渡した。靄が流れて切れる。遠く南の傾斜の向こうに、樹幹とおぼしき琥珀色の壁が見えた。仮面の男はくず折れた姿勢のまま震えている。よく見ると、うつむき加減に、手で何か空に印を結んでいる。祈りの仕草のようなそれを一瞥したあと、ミスラは歩きはじめた。うずくまる仮面の男を背後に残して、南の斜面を足早に目指す。
「ミスラ」
仮面の男の声だけが風に乗って追いかけてくる。
「次に会うときまでに、あの男の首をお持ちすると、私は誓います。ですから、どうか」
とうとうミスラは駆けだした。見る者がいたら脱兎のようだと評するに違いない姿でひた走る。
「どうか……私めに……」
声は徐々に切れ切れになった。だが、靄の彼方からの執念深い視線はどこまでもついてくる。粘つく妄執は既に人形の身体のあちこちに染みついている。ミスラはとてつもなくおぞましい何かに目を付けられていることを知った。
知らぬうちに得体の知れない何かの影を踏みつけてしまっていた。しかも、それは既に手の施しようがないほどになっているのだ。




