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珪化の国  作者: しおなか
悪魔の羅針盤
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ミスラ 14

 急速に意識が拡散していく。頭と心臓が離れてしまったからだ。ミスラは二つに別れそうな自分を叱咤した。眼も耳も鼻も頭もミスラではない。ミスラの唯一のより所は心臓だ。帰り道を忘れるわけにはいかない。残った力で人形のまぶたに命じる……眼を閉じろ。地面に落ちているこれは、おまえじゃない。心臓を意識しろ。眼も耳も鼻もまがい物だ。五感にひきずられてはならない。それはミスラではない。

(私は心臓よ!)

 ミスラは叫んだ。もはやどこから声を上げたのかも分からない。

 なにも見えなくなる。

 なにも聞こえなくなる。

 なにも臭わなくなる。

 なんの味もしない……ただ心臓の脈打つ音を感じている。心臓の駆ける鼓動が、心臓の肉に反響する気配だけに、ミスラはすがった。暗闇に散らばっていく。時間がミスラをばらばらにしていく。楔から解き放たれていく。つなぎ止めるすべは、……心臓の在処は……。

 …………。

 ふいに、全ての感覚が戻ってきた。ミスラはまぶたを開こうとした。まぶたはあった。

「ようやく起きた」

 声も聞こえた。知らない声だ。ぼやけた視界がひらかれていく。人形の頬を包む手のひら。ミスラは正しく自分の感覚が人形の四肢におさまっていくのを待った。かすかに錆の臭いがする。

 人形は何者かに仰向けに抱きかかえられていた。

 覗きこむ青白い顔は……顔ではない。鈍色に光る鉄仮面だ。仮面は顔の前面を完全に覆い隠している。設けられた隙間は、口元のごく狭い呼吸孔と、両眼にうがたれた小さな穴だけだ。ちょうど人の瞳くらいの大きさの二つの穴の奥は、暗すぎて見えない。

 ミスラはゆっくりと人形のまぶたを上下させた。指を握ってゆるめる。本物の呼吸をするみたいに、薄く口を開いてみる。首と胴はつながっていた。目も耳も鼻も戻ってきたことをミスラは知った。

 人形と心臓が一部のずれなく重なり合ったことを確かめたあと、ミスラは身を起こした。背中に回されていた仮面の男の腕が、優しく介助するような動きを見せる。鉄仮面の無骨さとはうらはらの、繊細な、女みたいな手つき。

 その瞬間、ミスラの心臓は本能的におののいた。人形の肌が粟だったような錯覚に陶然とする。この手は知らない手だ。救いのものはどこに行ってしまったのだろう。

 ミスラは周囲を見渡して、もはやおのれがあの関所にいないことを知った。足下には六の枝のように豊かな草の海が広がっている。薄靄が流れ来て、はためく裾のように切れては、晴れ間が顔を覗かせる。日はまだ高い位置にあるらしい。人形の髪を撫でていく風は湿り気を含んでいる。ここはどこかの枝の上だ。ミスラの知る五の幹より、少し空気が薄い気がする。あるいは四の幹、五の幹よりさらに高い層なのかもしれない。

(あなたは誰?)

 ミスラの対面で仮面の男は声だけで穏やかに微笑んだ。仮面にうがたれた小さな二つの穴をミスラは見つめた。そこに隠されているはずの双眸を見つめた。

「これは失礼を……私はシェルドゥルファトム。貴女の奴隷にして信奉者」

 仮面の男はミスラの手の甲を取り、鉄仮面の唇を触れさせた。吐息も感じず、皮膚の上を氷が滑ったような感触だけが残る。至近距離にあった仮面が離れていく。仮面の額から両耳の方向にかけて、翼のような彫刻が象られていることにミスラは気づいた。

「諸国を巡り、千の夜を渡り、ようやく貴女を迎えにあがることができた」

 手を震わせ、仮面の男はささやいた。声にこもる熱を隠そうともしない。ミスラは訝った。仮面の男は見知らぬ相手だ。そういった感情を向けられる覚えはない。

(私はあなたのことを知らないわ)

「私は貴女を存じ上げております、ミスラよ」

 仮面の男はミスラの手を握ったまま言った。ミスラをミスラと呼んだ。そのときになってようやくミスラは男の正体に気づいた。

(あなたは、探求の信徒?)

 仮面の男がまとう袖の長い貫頭衣の色合いを見て、ミスラは確信を深めた。色褪せてもなお鮮やさを残す黄色。好きこのんで派手な色を身につける趣味の持ち主を除けば、黄橙色の衣は信徒の証として広く知られている。

 ミスラは第五王女の記憶の中から探求の信徒をひっぱり上げた。目の前で跪く仮面の男を、年長の兄姉に教えてもらった知識に照らし合わせてみる。

 心に根ざす唯一の存在を知覚できるかの如何によって、信徒は只人と区別される。ゆえに、探求の信徒は少数ながら、どこにでもいた。ウラシリオロにも、余国にも、国を持たぬ放浪の民の間にも。彼らは常に唯一の存在と、唯一の存在に触れるための道を探している。ミスラも詳しくは知らないが、唯一の存在に触れるための道の一つに、似姿と呼ばれる偶像を崇めるものがあると耳にしたことがあった。似姿は、透き通る月光の滴で洗われた白磁の肌を持ち、太陽を閉じ込めた黄金の髪を備え、白黒に煌めく金剛石の瞳で信徒を導くとされている。

 信徒は、唯一の存在を真似た偶像のことを、ミスラと名付け、呼んでいる。

 信徒のことに詳しくない者でも、ミスラのことは知っている。ミスラは偶像としてはあまりに美しすぎたのだ。ミスラは信徒たちの手を離れ、広く幸福の象徴として人々の間に浸透していった。やや高級趣味な家では、ミスラ人形の一つや二つ、椅子に座らせていたとて格段珍しいことでもない。たとえば、第五王女の屋敷がそうであったように。

(私はあなたが探しているものじゃない。あなたの探しものはここにはないわ)

 仮面の男の手を振り払い、ミスラは言った。心臓が選んだ人形も、多くあるミスラのうちの一つにすぎない。この人形を特別にしてしまったのは、神秘でも何でもなく、ただ第五王女が悪魔に願ったからだ。最上階に居座る悪魔を排除するための取り引きの結果にすぎない。

 仮面の男は、振り払われた手を見ているようだった。空虚な二つの穴が、彼の右手を見つめている。やがてくすくす笑いながら、仮面の男は言った。

「お可哀想に。貴女は自分が何者たるか、分かっていないのですね」

 小さな子どもに言い聞かせるような甘ったるい声音が、人形の耳にまとわりつく。

(分かっているわ。私はただ動いているだけの人形よ。あなたはミスラが動いていることに特別な意味を見出しているのかもしれないけれど……)

「御身がただの人形にすぎないと?」

 仮面の男は素早く指を伸ばして、人形の唇に触れた。ミスラは反射的に言葉を切った。口を動かして発声しているわけではないが、仮面の男の指には、思わず黙らされてしまうだけの何かがあった。

「そう思い込んでいるのですね。なに、ご安心を。じきに何もかも思い出すでしょう。微力ながら私めも助力を致しますゆえ」

 そう言って、仮面の男はミスラの口を解放すると、戻す手を自身の胸に軽く置いた。その仕草に、ミスラは得体の知れぬ脅威と、おぼろげな既視感を見た。仮面の男が触れているのは、心臓の在処だ。ミスラがそうするのと同じように……まるでそこに大事なものが入っているのだと言わんばかりに。

(悪魔)

 ほとんど無意識のうちに、ミスラはつぶやきをこぼした。

「いかにも」

 仮面の男は聞き逃したりなどしなかった。すぐに肯定を返すと、仮面の眼にミスラの姿をおさめる。

「悪魔が教えてくれたのです。貴女がそうだと。私のミスラ……」

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