兄 3
妹の様子がおかしいことに気づいたのはいつごろからだったろうか。
原因に心当たりがあったから、彼の胸は痛んだ。
ふとした拍子に妹の視線を感じる。彼を窺い観察するまなざしを。明確にいつからと断定はできないが、木陰の下での甘い語らいを続けているうちに、妹は何かに気づいてしまったのだろう。今では、ときどき彼に怯えたようなそぶりさえ見せるときがある妹だ。彼は内心の煩悶を押し殺して、妹に最大限の情愛を向けて接し続けたが、妹の不信は薄らぐ気配はなかった。むしろ、警戒が増していく様子ですらある。
「最近のお兄ちゃん、なんだか、おかしいわ」
「そんなことはない」
「……でも、変なのよ」
彼が否定しても、決まって悲しげなため息をつく。妹は、彼が何か違うふうになってしまったのだと、たびたびそう言った。妹の心を曇らせている兆しは、他でもない、彼自身なのだった。
「じゃあ、どこが変なのか、おれにも教えてくれよ」
「どこって。それは……どこがどうなんて分からない。だけど……」
言葉に逡巡する妹は、だが、既に彼がどうおかしいのかを隅々まで理解しているように見えるのだ。兄のどこに違和感を拭いきれないでいるのか、彼女はすっかり了解しているのだ。口にしない理由は、彼に遠慮をしているから。ただその一点だけと、態度からして分かってしまう。
木漏れ日のこぼれる木の下で、二人は同じ幹に背を預けていた。以前は、ここで、心のうちの何もかもを交換し合ったはずだったのに、と彼は考えた。もはや、話せば話すほど、互いの瞳を覗き合えば合うほど、二人の間に引かれた不可視の溝の存在を意識せずにはいられない。足元の草を揺らす風はこんなに優しく、同じ時間に同じ景色を眺めているのに、遠く、深く、離れていく。
「お兄ちゃん」
妹が言う。
「最近、自警団に顔を出してないって聞いた。メーレーさんにも会っていないって」
メーレーさん、と口にしたときの妹の表情を眺めて、彼は記憶を探った。かつて、妹はかわいらしい唇を尖らせて、眉間にしわを寄せつつ、その名を口にしていたはずだ。メーレー。彼の恋人。町の酒場で働いている、少しだけ引っ込み思案な、気立てのいい娘。両親が他界してからずっと一緒に暮らしてきた二人きりの兄妹だったから、兄の傍で微笑む娘の存在に、妹は寂しさを感じていたのかもしれない。
だというのに、彼の隣で自分の膝を抱えてつぶやく妹の今の表情は、酒場の娘を純粋に案じている、ただそれだけに見える。ほほえましい嫉妬など欠片もない顔つきで、心配を口にする。
「メーレーさん、お兄ちゃんのこと心配してた。……もちろん、わたしだって」
「病気はもう治った。おまえが心配することなんてないよ」
柔らかい声で諭しても、妹から懸念の表情は去らない。
「まあ、変な具合に化膿して、熱を出したが、もともと鉈で足を軽く切っただけだ。あの犬に噛まれたわけでもない。知ってるだろ? 手当てしてくれたのも、看病してくれたのも、おまえなんだから」
川辺で妹を犬から守ったその日の晩、彼は高熱に倒れたのだった。
三日三晩生死の淵をさまよい、ようやく妹の手を借りて寝台から起きだした頃、彼は既に今の彼になっていた。
生まれたての彼が妹の存在に圧倒されて震えていた夜、犬が教えてくれたのだ。ロデル・アノニアとニーグリシモ・アノニアの第一子、アノニア夫妻の長男であった男は、悪魔に契約を持ちかけて、死んだ。犬は聞いてもいないのに教えてくれた。やはり男は妹の危機に間に合わなかったのだ。妹は川辺に、犬は川の浅瀬に、そして男は洗濯に出ていた妹を迎えに来る道の途中に。手の届かない場所から、妹が襲われる遠景を見るしかなかった。犬は男の手の届かない位置にいた。妹に当たる愚を冒して鉈を投擲することもできない。汚らしい牙を柔肌に突き立てんと襲いかかる犬の姿を目で追うことしかできない。
妹を守れない。
たった二人の兄妹なのに。
妹は悪魔に狙われる運命を背負っているのに!
『あの女を、助けたい?』
その声は突然に響いた。蝋を流しこまれたように川辺の風景が惨劇の一歩手前で静止する。男の身体は動かない。超常の声がその場を支配していた。男は悪魔の息づかいを感じとった。代償と引き換えに願いを叶える存在! 妹を助けたいと、男はとっさに叫んだ。前後の疑いを全て捨てた、自棄の声で希求した。
『代わりにおまえは何をくれる?』
――何でもだ! 妹を助けてくれるなら、なんだってくれてやる! 妹が死んでしまう!
『そうか、そうか。あの女が、余程大事なのだなあ。そんなに大事なものがあるなら、他は、要らないかなあ』
悠長な声に男が耐えかね絶叫しようと息を吸い込んだ、そのときだ。
『契約は成った。ではおまえの中の、あの女以外の全部をくれよ』
了承を待たず、虚空から現れた巨大な手のひらが男をつかみ上げた。空が裂けて巨大な舌が這い出す。骨から肉をこそげとるように、男をしゃぶる。悪魔の高笑いが脳裏にこだまする。手と舌だけを現世によこして、遠く離れた暗闇では悪魔の本体が肩をゆすって嗤っている。女みたいに細い指を裂けた口に含んで、妖艶なまなざしを川辺に注いでいる……男はあまりのおぞましさに叫んだはずだ。空中で生きたまま啜り取られている男の真下では、抜け殻になった男の身体がぼんやり立ち尽くしている。眼下に自分の姿をおさめながら、男は停止した時間の中で悪魔の舌になぶられ続けた。最後の最後に、悪魔は大きなげっぷをして、彼の残りかすを天に高々と掲げた。そのまま川辺を走るよれよれの犬に向けて叩きつける。男は魂がうちふるえるのを感じ、魂が砕ける音を聞いたはずだ。
魂の底まで悪魔に喰われたが、地上に残された男の身体には、契約通りに妹が残っていた。身体は欠けた魂を修復したのだ。妹以外の空虚を、全て妹で埋めてやった。彼は自然と妹の兄になっていた。かけがえのない唯一を守るため、突然の災禍に戸惑いへたりこんでいた犬に、鉈を振り下ろす。男の魂の絞り滓は、犬の中で死んだ。
死んだはずだった。
だが、巻き添えを食った犬は、あるいは犬と混じり合った残り滓は、今も彼に恨み事を吹き込んでくるのだ。始末しようにも、彼は犬に手が届かない。彼の手は決して犬に届かない。生まれ変わった日にそう運命づけられた。彼の視界の一番外側、決して手の届かない位置から、あるいは夢の中から、隙あらば犬は忍び寄ってくる。優しい声で過去を語り、緩んだ心の綴じ目に二十本の指を差し込んで、身体を返せと迫ってくる。彼の存在を脅かしてくる。女みたいなあの悪魔の影が、回収し損ねた彼の魂を啜ろうと牙を光らせている。
彼はもうずっとメーレーのいる酒場に足を運んでいない。少し前まで勤めていた自警団の仲間とつきあうこともしていない。彼は緩やかに、確実に、周囲の全てと彼とのつながりを断ちつつあった。妹というたった一人の例外を除いて、心の隙間を完全に鎖さなければならない。彼の心を占めるのは、唯一、妹の存在だけだ。それ以外の何も入り込む余地はないし、入りこませてはならない。そんなことをすれば、彼のつぎはぎだらけの魂は粉々に砕け散ってしまうだろう。
妹以外、何も必要がないという感情は、日増しに強くなっていくようだった。新しく塗り替えられた魂が、古い身体を支配していく過程だろうか? なんにせよ、彼にはそのあたりの理由はどうでもいいのだ。犬が吹き込んできた夢や過去は、漠然とした感情に理由の色を添えただけにすぎない。その発端が何であれ、彼が妹を愛し、唯一とする事実は揺らがないのだから。
風が吹いて、甘い香りが彼の鼻孔をくすぐった。妹のにおい。彼は妹の横顔を盗み見た。不安げな面持ちで、膝を抱えて隣に座っている妹を。
空は晴れ渡り、風は優しく遊び、木陰の日差しは柔らかい。それら全てを打ち砕く妹の顔だ。穏やかな時間が、足元から崩れ去ろうとしている予兆を感じさせる。しばらく前から身の裡に巣食っている恐ろしい不安が息を吹き返す。なだめて寝かしつけても、餌がちらつくと直ぐに目が覚める。
不安とは、こうだ。もし、妹が彼の元を去ってしまったら?
自身の存在の根本を揺るがす恐ろしい問い。そんなことを考えてはならない。同時に、考えておかなければならない。覚悟は決めておかなければならないだろう。万に一つ、彼から妹を奪うような何かが起これば、全力でそれに牙を剥く覚悟を。人だろうが、権力だろうが、天災だろうが、退けて排除する覚悟。
「心配するな……おれは大丈夫だから」
彼の独白めいたつぶやきに、しかし、妹は不安げな瞳だけを返すのだった。




