兄 1
夢うつつに声が聞こえてくる。彼はそれを妹の声だと認識した。彼にとって、世界とは妹とそれ以外だ。妹とは、霧の中に輝いて立つただ一つの柱、唯一なる炎、天上の調べだ。妹の声は笑っている気配で、彼はそれを幸せなことだと感じた。天心から滴る甘露を追いかけるような心地で声をたよりに身を起こす。地に着いた手が草か何かをつぶした。まぶたを開く最後の瞬間、彼は唐突な問いが身の内に転がり込むのを感じた。
妹の名前は何だ?
その問いが悪夢から覚めるための最後の機会だったのだと、まぶたを開いてしまった後に彼は思い知った。目覚めた彼は見覚えのない花畑の中にいた。半身を起こして辺りを見渡す。朔月の夜。赤白に発光する花の群れ。彼に背を向けて花を摘んでいる誰か。誰かの向こう側で焼け落ちてゆく建物。花の甘い匂いと焼け焦げる木の臭い。骨の痛みをともなって、妹とそれ以外だった世界が残酷なまでの鮮やかさで切り開かれていく。しかも、妹はどこにもいない。ここにいないし、どこにもいない……知っている。
突然狂おしいまでの喪失の衝動が彼の中に息づいた。早く目を覚まさなくてはならないのに、その機会を逃してしまった。彼が妹の名前を忘れてしまうはずがない。だとすれば、目覚めたあとのこれはすべて悪夢だ。悪夢の中でおぼれかけているだけ。本物の彼と妹と妹の名前は、遠い現実の世界で温かい陽光を浴びているのだ。
ふと、彼の視界がまばゆい光にくらんだ。赤と白が眼の中で踊りまわり、少し遅れて、花を摘んでいた誰かが、彼に花のかんむりをかけたのだと知った。
「おまえは誰だ」
そう口にして、彼は自分で驚いた。またひとつ思い出す。彼の全ては妹のために在ったので、妹以外の誰かのために発声したのは、実に何年かぶりのことだった。自分の声がまるで自分のものではない、奇妙な響きを帯びている。彼が妹のために用意した全ては崩壊のただ中にあり、そら恐ろしくなるほどの早さで彼は人間に舞い戻っているのだった。
「おまえは、誰だ。ここはどこだ」
彼はもう一度仕切り直した。発光する花を束ねたかんむりが、立ったまま彼を見下ろす誰かの子細を浮かび上がらせている。まるでどこぞの王侯貴族のようなドレスを着た女だ。人形のように表情のない顔は煤で汚れている。やはり妹ではない。妹と同じくらいの歳か、それより少し下か。花かんむりを彼にかけたときの姿勢のまま、ちょうど両腕を差し出すような格好のまま微動だにしていなかった妹でない誰かは、つと体を戻した。
そのとき、濁った泥水のような音がした。それが女の声だった、人形みたいなきれいな顔をぴくりとも動かさずに、泥と泡を吐くような声で答えたのだった。