ミスラ 11
にわかに訪れた激情は、去り際も唐突だった。殺気をたぎらせ地を睨みつけていたキキオンは、すぐに何事もなかったような顔で、抜き身の刃を鞘におさめた。正気を取り戻したのだろうか? あるいは、彼は今も狂気のただなかにいて、彼を惑わせるなにかが去ったために一時的な平静を得ているだけかもしれない。
(あの声はなに?)
ミスラは訊いた。キキオンが剣を振り抜いた瞬間に聞こえた声についてだ。彼の狂気が彼だけのものならば、ミスラに聞こえるはずがない。
「おれには犬がついてまわってる」
一見問いかけを無視するような形で、キキオンは言った。じっと見つめるミスラの視線をさえぎるようにかぶりを振る。答える気がないわけではないらしい。ややあって、キキオンは言葉をつむいだ。
「犬は、おれの眼のぎりぎりの外側を歩いてる。奴を殺せるのはおれだけだと、奴は知っている。知っていて、敢えておれのもとへやってくる」
白髪城が永遠と続く同じ一日を繰り返していると聞かされた時のキキオンはもしかしたらこういう気持ちだったのかもしれない、とミスラは考えた。日常と常識の範疇では到底信じることのできない話。だが真偽のほどは時と場合による。ミスラは虚実どちらに傾けるかを判断する基準を持ちあわせていない。ここにあるのは、ミスラが耳にした悲鳴と、悪魔に遣わされた男の話、それだけだ。人形の顔と声は疑わしさを届けるだろうか。ミスラはこころもち首を傾けた。染められた絹糸が首筋を流れた。
(あれは、犬の悲鳴だっていうの?)
「悲鳴? あれが!」
面白い冗談を聞いたとでもいうように、キキオンの口の端が歪む。
「あれは嘲笑だ。届かない刃を嗤ってやがる」
(そう)
支離滅裂の言葉の中から真実を拾う行為を、人はまぼろしと呼ぶかもしれない。だがミスラは男の言葉を否定はしなかった。大事なことは、キキオンの精神の是非を証すことではない。最後にミスラが救われることなのだ。
(それは、悪魔殺しに関係ある?)
ミスラはそれだけを確かめることに決めた。試すような問いはキキオンを刺激するのに十分すぎる意味を持っていたらしい。鋭くなった眼がミスラを射抜く。逸らす理由もないので、ミスラは正面から受け止めた。激情に曇りがちなくせ、綺麗な眼だ。
ミスラはふと不思議な色合いをしている瞳に気がついた。男の眼は枯れかけたまだらの葉の色をしていた。影で見ると暗緑色なのに、日が射すと明るい枯れ茶色に変わる。
どこかで見た色だった。とてもよく知っているはずの組み合わせ。その答えを探り当てたとき、ミスラのささやかな興奮は、人形の口を滑らせた。
(犬が邪魔なら、私がどうにかしてあげてもいい)
キキオンが虚を突かれてまたたく隙に、ミスラは彼の顔を好きなだけ眺めた。自分の導きだした答えにまたひとつ確信を加える。
この城も、キキオンも、悪魔に住みつかれている。明るい場所では、琥珀色に輝くはずのものが、すっかり苔生して、歪められている。キキオンは白髪城にとてもよく似ていたのだ。ミスラが愛してやまない故郷の風景の写し姿だ。
そのキキオンに、悪魔を殺させる。
まるで自浄作用のように……きっと痛快な気持ちになるだろう。ミスラは心臓が弾むのを感じた。人形のまぶたを伏せる。人形の口を薄く開く。これで笑顔になっているように見えるだろうか。ミスラが見つめる先で、キキオンは視線を逸らした。どこか弱々しくなった声でつぶやく。
「しとめ方も知らないくせに、よく言う」
(教えてくれれば、やるわ。あなたの眼の外側の場所を教えてくれれば、そこまで犬を潰しに行く。キキオンは悪魔を殺す。私は犬を殺す。それでどうかしら)
キキオンは、無言だった。彼自身の願いである悪魔殺しの欲望に加えて、ミスラが持ち出した取引の損得、あるいは真贋を、勘定しているのかもしれない。
(いいわ。上に登りながら決めましょう。ここはもうじきショロスカーが来て、安全じゃあなくなるもの)
宣言してミスラは歩き始めた。
(さっき、あなたが言った通りよ。悪魔はこの国にただ永遠をもたらしただけじゃなかった。珪化が始まってしまった……。珪化の国、知っているかしら。その国では、誰も――)
――誰も死なず、誰も去らず、誰もが永遠の国。石でできた琥珀色の結晶の国。結晶化された人たちの国。
(同じ日を繰り返しているうちはまだ良かった。だけど、そのうち、上の層から順におかしくなってきたわ。同じことを繰り返すうちに、少しずつ、欠けていくの。朝目覚めたときから夜眠りに就くまで一本の線の上をずっと歩いているから、余分なものがなくなって、最期にはたった一つしか残らない。凝り固まった結晶になる。唯一とそれ以外を切り分けてしまう……シロラマロモッコはそれを珪化と呼んでいたの。シロラマロモッコ・ウラシリオロ。二の幹にいる第二王女の名前よ)
シロラマロモッコの声が途絶えたのはかなり前のことだ。いまはもう彼女も結晶になっているかもしれない、とミスラは考えた。
(ここは五の幹だから、まだそれほど珪化が進んでいない。だけどゼロではないの。毎日毎日、決まった時間になると、ショロスカーが見回りを始めるし、イズワボロは幹の門から第五王女の屋敷までの道を往復しては、線上から生身の人間を排除する。それから、ダヒテは……)
私を、といいかけて、ミスラは口をつぐんだ。いかな彼とて、人形を殺しにはこないだろう。ダヒテは、焼けてしまった館の前で、首を傾げるに違いない。彼の唯一のお目当ては、ミスラの放った悪魔の炎が既に骨まで食らいつくした後だ。
(ダヒテは、いい気味)
ミスラは前方を見た。見えてきた人影がある。琥珀の道を反対側から歩いてくるそれは、かつての五の幹の街道整備を任されていた、庭師のイズワボロだ。今となっては、ミスラも庭師の男に降りかかった運命を推測することしかできない。彼は真面目な男だったから、道を掃き清める毎日を続けた末に、この姿を得てしまったのかも知れない。道を行く全てを大鋏で切り取って、困り顔で穴を掘り、惨事を丸ごと埋めてしまう、ただそれだけのなにものかに。
(キキオン、少しだけよけて)
やや構えた様子の男の外套を引っ張って、ミスラは歩いてきた道を少しよけた。外套は掴んだまま、キキオンともども琥珀の道をはずれて、血塗れの鋏と土のついた鍬を担いだイズワボロとすれ違う。庭師の背後には転々と血痕が残されている。彼は二人を一顧だにしなかった。道から外れてしまえば、そこは既に彼の感知する世界の外側なのだ。
ミスラはこれからの行く手に大きな血だまりが二つ、掘り返した柔らかい草土の跡が二つ、それぞれお行儀よく並んで待っていることを知っている。ここは既に何度も通った道だった。夜まで待てば、館と幹の門をむすぶ線上の染みは全部で五つになることさえ知っている。明くる朝には何もかも元通りになっていることも。
(行きましょう。上に行くためには、あと二人、門番をかわさなくては)
キキオンは遠ざかるイズワボロの後ろ姿を注視していた。迷いのない足取りで去っていく男の背中をひたと見据えている。キキオンの横顔を眺めながら、ミスラはふと錯覚を覚えそうになった。一瞬だけ、彼が泣いているように見えたのだ。
まぼろしはまぼろしのままで、やがてキキオンは平生の顔でミスラに向けて頷いてみせた。
五の幹の門まであと少しだった。




