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珪化の国  作者: しおなか
悪魔の爪
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信徒 3

 ウラシリオロ国の都ウラシルの噂を、放浪の旅の間にシェルドゥルファトムも耳にしていないわけではなかった。其は滅びに向かう国の名だ。ウラシリオロ国はどの歴史書にも同じように記されている。曰く、かつて栄えた不思議の大樹の国、今世に残るは人去りし古都ウラシル。史実では、ウラシリオロ国は百年と少しの昔から、呪われた国の代名詞となっているのだった。

 事実として、古都ウラシルに向かった者は誰一人として戻ってこない。もっとも早い時期にかの都が不帰の地に変じたことに気がついたのは隣国の徴税官だということになっている。それより古い時代の官僚たちが、土地を捨てて逃げ出した農夫が国境の向こうで行方知れずになっていた多数の事象を問題視しなかったことを鑑みると、変異がいつから始まっていたのか、はっきりとしたことを知るものはいないとも言えた。

 幾人もの人間が巨木の根本を目指して、それきりになった。

 徴税官も、逃亡の民も、探検家も、冒険者も、巡礼の信徒も、かの国は等しく飲み込んだ。誰一人帰さない。ゆえに何が起きているかも分からない。やがて噂だけが流れてくる。呪われた不帰の国、ウラシリオロの名は大陸を走った。国土の中央にそびえる雲を割る巨大な珪化木の遠景を眺めた誰もが、失われた幻惑の都と、巨木の裾野に消えた人々の行方を、夢に描いたものだった。

 それはシェルドゥルファトムも例外ではない。

 羅針盤は震えたのだ。

 古代の大樹を目指し、すでに国境を渡って十日がすぎていた。街道を徒歩で行くシェルドゥルファトムは、それでも日に三度は生身の人間とすれ違っていた。ウラシリオロの辺境で暮らす彼らはこぞって呪われた土地に寄り添うわけを教えてくれた。皆、口をそろえてこう言った。あの樹をもっと近くでみたいのだと。

 シェルドゥルファトムにはよくわからない話だった。分かるのは、まだ自分が引き返すことのできる土地にいるこということだけだ。誰も戻らぬ不帰の地まではまだ遠い。

 ウラシリオロはやや乾燥した冷涼な土地柄だ。国土のほとんどは膝丈の草原と細い木々が寄り集まったまばらな林で埋め尽くされている。限られた人間しか通わぬ街道は、細く長く、草の海を割るようにして大樹の麓へと続いてゆく。巨大な樹影は遠近の眼を狂わせる。シェルドゥルファトムは焦れた。心臓に貼り付いた羅針盤がシェルドゥルファトムを急かすのだ。揺れる針はシェルドゥルファトムを存分に翻弄したが、囁きは確実に強くなっていくのだった。悪魔は教えてくれる。似姿はそこにいる。

「あなたは巡礼の途中なのですか?」

「そうとも言えますね」

 すれ違う人々はシェルドゥルファトムの仮面に興味を抱くのが常だった。シェルドゥルファトムが顔に傷を負っていてそれを隠すためだと答えると、決まって巡礼の話を持ち出してくる。シェルドゥルファトムがまとう信徒の衣と、顔を覆う鉄仮面のわけを聞いては、皆が一様に口をそろえて同じ質問を投げかけてくる。そして問いに答えもしないうちから、彼らは、仮面の男が顔でないいずこかに負ったであろう傷を埋めるために旅をしているのだと合点するのだった。

 まさしくそれは正しかった。シェルドゥルファトムの旅はシェルドゥルファトムの欠落を満たすためのものなのだから。シェルドゥルファトムは己の魂胆がこれほど多くの人に悟られているという現実に羞恥を覚えつつも、仮面の下で微笑むのだった。シェルドゥルファトムのこれを、誰が見ても巡礼だと決めつける。信徒たちは巡礼の終着地でかの人の衣に触れることができるという信仰を共有している。かの人に至る十の道のうちの一。それこそ、シェルドゥルファトムが似姿を求めて放浪する姿勢の正しさを証すしるしだ。彼は確かに傷を負っていた。空虚なかぎ裂きのぎざぎざを埋めてくれるのは、ただ一つ。あの方の似姿だけなのだ。

 片足を引きずる若者と別れたあと、また一人に戻ったシェルドゥルファトムは、空に祈りの印を刻んだ。羅針盤の高鳴りはそうと分かるまでになっていた。似姿にもうじき手が届く。邂逅の時の近さを教えてくれる。恋に惚ける男の様子でシェルドゥルファトムは月夜の底を歩いた。

 その夜、若者を最後に、シェルドゥルファトムは誰ともすれ違わなかった。次の日も、また次の日も、シェルドゥルファトムは誰ともすれ違わなかった。煌々と照らす月に掃き清められた孤独な道だけが続いていく。

 ある月の明るい日、シェルドゥルファトムは立ち止った。さっきまで月はまぶしいくらいだったのに、シェルドゥルファトムの姿はいまや影の中に消えていた。

 シェルドゥルファトムは巨大な影の中にいた。巨木の影だ。シェルドゥルファトムは暴力的な哄笑が喉元からせり上がってくるのを、仮面の表面を撫でることでやり過ごした。それまでの距離がまるで冗談のように、太古の巨木はシェルドゥルファトムの目の前に堂々とそびえ立っている。まるでシェルドゥルファトムを迎えにきたように。

(違う。私が、遂に、迎えにあがる使命をやりおおせたのだ)

 シェルドゥルファトムは一晩だけ、彼自身の運命と、彼の信奉するものと、奉ずるそれの似姿に、純粋な祈りを捧げた。

 やがて祈りの声は暁の空気に消え入った。

 シェルドゥルファトムの背後では朝日が山の端を削りだしている。頭上では石の葉が澄んだ高音を奏で始めている。シェルドゥルファトムはウラシルの地に踏み入っていた。

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