ミスラ 10
風が吹くたびに雲の欠片が天空の枝をしめやかに包んでいく。視界は濃い靄に包まれたり晴れたりを繰り返していた。
寝間着姿の男が折れた植木を放置して家に戻るところまでを見届けたあと、二人は歩みを再開した。緩やかな坂道を下りきると、居住区にさしかかる道は目と鼻の先だ。先ほどの男女がそれぞれの家の中に戻って以後、居住区の往来は無人だった。ぼんやり漂う匂いは彼らが朝食の支度をしていることを教えてくれる。家々に挟まれた道を歩いていく。玄関扉の正面を横切るたびに、ミスラは中の住人たちのことを考えた。通りの手前の家から順番に、住人の姿と、彼らが今何をして過ごしているかを思い浮かべる。昨日と変わらぬ呼吸で一日の再生産を行っている彼らのことを考える。かつては同じ風の吹く世界で暮らしていたのに、永遠に分かちあえない時の向こう側に囚われてしまった彼らのことを。
靄が途切れて、辺りがぼんやりと晴れてくる。
昇りたての太陽はちょうどミスラたちの背後にあった。足下から伸びる浅い角度の影の先端は、すでに一足先に居住区を通り過ぎている。ミスラの人形の眼はその光景に何らかの意味を見いだしかけていた。ミスラの目指す先、先行する影の先、層を隔てる四つの関所を越えた先。玉座に座る悪魔を目指して逸る足どりか、あるいは、この枝から逃げ出したいと焦れる内心の焦燥か。見極める前に、本物の足も居住区を通り過ぎてしまう。悪魔殺しを為すための意志が、怒りによるものか、恐怖によるものなのかを、自身でも判じきれないうちに。
「あれは何だったんだ」
ふいにキキオンがつぶやいた。足を止めずに振り返り、通り過ぎた居住区を見ている。ミスラもつられて振り返る。二人が通り過ぎたときと同じ、人通りのない道が単調に延びているだけだ。何の変哲もない光景。彼が何を見咎めたのか、ミスラには分かっていた。キキオンが睨みつける先にあるものは、寝間着の男の件に違いない。
(ここでは、皆が同じ一日を繰り返してる。あの人は、明日も、折れた植木に驚いたり悲しんだりするでしょうね)
ミスラは視線を戻した。靄が晴れてくるにつれて、前方に立ちはだかるような巨大な壁が姿を現しはじめていた。緩やかな円弧を描く壁の横幅は、今歩いている六の枝よりもずっと広い。また上端は天まで続くほどに高く、雲を割り、まるで先が見えない。ほとんど垂直に切り立つ琥珀色の崖のようにも見えるそれこそが、ミスラたちウラシルの民が住まう白髪城の中心、樹幹の正体だった。隣でキキオンが見定めるなまなざしで樹幹を仰いでいることを確認してから、ミスラは言った。
(白髪城は閉じた輪の中で永遠にぐるぐる回っているみたいになってしまったのよ。玉座に座る王が、悪魔に願いをかけた日から)
「悪魔に願い?」
キキオンは緩慢な動作で首を戻した。ミスラに眼を向ける。きっと悪魔を滅びに導いてくれる暗い感情を瞳に住まわせている。
「さだめし悪魔は笑っているだろうよ」
短く息を吐いてせせら笑う。キキオンは侮蔑を隠そうともしなかった。
「奴らは人間を助けない。悪魔は歪められた人間を眺めたいだけだ。だから餌をぶら下げて契約を迫る」
口元が鮮やかにつり上がる。ミスラの方に一歩踏み出して、手を伸ばしてくる。
「言えよ。おまえの王様は悪魔に何を願った?」
眼はまばたきするごとに憎悪のつるぎを研いでいるようなのに、キキオンの声はむしろ誘うような甘い響きを帯びている。彼の手は自分に触れようとしているのだと、遅まきながらミスラは気づいた。
(あの人は……)
ミスラはその場から引こうとする足をかろうじてとどめた。男の前に立っていることが耐え難かった。表情は動かないのでキキオンには伝わらなかっただろうが、ミスラの心臓は震えあがっていたのだ。恐ろしかった。……恐ろしい? まさか。人形に恐怖があるわけがない。それに、彼はミスラの、ミスラのための救いのものだ。怖がるなんてどうかしている。彼はミスラを救ってくれる。
ミスラが口を利けないでいるうちに、キキオンの我慢は使い果たされたようだった。優しく伸べられたように見えた彼の手が、一瞬でのたうつ蛇の顎に豹変した。指が食い込む。人形の襟首が掴まれて揺すられる。
「言えよ!」
表面の甘さがかなぐり捨てられて、手加減のない剥き出しの恫喝がぶつけられる。宵待ち草の花畑でぶつけられたものと同種の怒りがキキオンの眼の中で吠え猛っている。
「さあ!」
(この国と、この国の民が永遠になれと、……あの人はそう願った!)
叫んだ途端に急速に熱が冷めていく。ミスラはまた少し思い知った。この感触は苦しくなかった。絞められているはずの喉はたやすく声を伝えた。どちらもまるで生きた人間の所業ではない。それから、ミスラが首を絞められたまま喚いているのに、力は一向に緩まない。ミスラは冷静に挑発した。
(死んじゃうわ)
「嘘をつけ」
嘲りを含んだ声が返ってくる。キキオンは笑っていた。彼はミスラが人形であることを受け入れたのだ。それをこんな形で教えてくれた。もはやミスラが心臓の支配を取り戻すのはたやすいことだった。
ひとしきり笑ったあと、男は唐突にミスラを解放した。目線で話の続きを促してくるだけの冷静さを取り戻したらしかった。ミスラもまた、ゆっくりと打ち始めた心臓の手綱を取った。乱れた襟を正して、止まっていた歩みを再開する。ぽつぽつと語り始める。
(あのとき、悪魔の声が、白髪城じゅうに響いてた。皆、なんだろうって言っていたのよ。契約は為された、この国を永遠とする、なんて言ってるが、あの声はいったいなんなんだって。その日からよ。寝て起きたら同じ日が始まっていた……)
「それだけか」
並んで歩くキキオンは外套の下で鍔を鳴らしている。草を踏む音と、風が鳴く音の合間を裂くように、金属の高い音がはじける。
「それだけのはずがない。悪魔は置きみやげを忘れない……義理堅いことに」
そのときのキキオンの横顔に、ミスラは見入った。キキオンはごく楽しそうな顔をしていた。これからミスラが語る不幸を期待しているような眼つきだ。風渡る高原の草原を、上機嫌で跳ね回る仔羊の眼つきに似ている、とミスラは思った。純粋な喜びにきらめく獣の眼。
(まるで、見てきたみたいに言うのね)
ミスラは言った。水を差すつもりの一言だったが、キキオンの楽しみは少しも減じなかった。
「見なくても分かる。奴らは足ることを知らない。いつだって餓えている。歪みが欲しくて欲しくてたまらない」
一際高い鍔の音が鳴る。ミスラは人形の表面が一瞬痺れたような錯覚を覚えた。
「奴の声は憶えている。いつだって思い描ける。殺す手順も、断末魔も知っている。おれをさした指は、何度へし折ったって足りないくらいの細さだった。あいつの笑い声は、絞め殺してやりたくなるような声だった」
告白するようにそっとささやいて、キキオンは身震いした。鞘から手を離し、小刻みに痙攣する体を守るように両腕を巻き付けてうつむく。
「いつまでまとわりつく気だ。今もそうだ。おれはこんなところで、まだ中身を探してる。奴はそれが面白くて仕方がないと笑っている! 聞こえているぞ!」
キキオンは絶叫した。体の脇から腕をほどいて抜剣し、誰もいない場所に跳び込み、一息に切り裂いた。地面の低い場所を銀の刃が撫で斬る。丈の長い芝草がぱっと飛び散った。
狂人の刃だ。そこには誰も何もいない。
だというのにミスラは確かに悲鳴を聞いた。聞き覚えのない誰かの声が、かすかに聞こえたのだった。




