ミスラ 9
珪化した梢の葉をかき鳴らしていた風が凪ぐ。ガラスの音が空気に解けていく。ミスラは歩きながらつかの間まぶたを閉じた。琥珀色の石たちがかき鳴らす朝の始まりがはかなく消えていく。瞬間、人々が目覚める身じろぎの音が聞こえやしないかと耳を澄ませる。気配はあるような気がする。気のせいかもしれないという気もする。あきらめて眼をあける。少しだけまぶしくなった六の枝の景色がまぶたを押してくるみたいだ。
ミスラは背後に残してきた屋敷を振り返ろうとして、止めた。昨日までなら、計ったように屋敷の窓が開く様子がうかがえただろうが、今朝は焼け焦げた黒い影のような廃墟が遠目に見えるだけだろう。牧歌的な景色の中で屋敷が二度と目覚めない眠りに就いた一方で、ミスラの炎が届かなかった六の枝の日常は再び始まろうとしていた。繰り返される人々の営みを第五王女の眼ですみずみまで見て回ったのはもうどのくらい前のことだろうか。一の幹に悪魔が居座って以来、日を数えることにほとんど意味はないのだった。
今日はいつだろう?
いつだって良かったのだ。
外はどうあれ、白髪城はいつでも皆がいい気分で浮かれて騒いだ凱旋の翌日だ。同じ日、ないし同じような日が、ただ繰り返されている。尾をくわえた蛇の図だ。満月も朔月も朝日も夕日もいくらでも巡ってきて、ここに住む人々の顔を素知らぬ顔でかわるがわる照らしたり隠したりしていった。白髪城だけが時の流れに取り残されているということを、天駆けるものたちは淡々と教えてくれた。同じ、を繰り返すうちに人々は緩やかに珪化してゆく。本当に必要なもの以外が、少しずつ身体から抜け落ちて、最後には純化された結晶になる。その残された一つが、妄執でなければよかったのだが。
ミスラは歩調をゆるめた。同行者の足音がゆっくりと追いついてくる。
(キキオン)
振り返って名前を呼ぶと、聞こえているとでも言うように、キキオンは小さく頷いた。ミスラには目をくれず鋭いまなざしを四辺に放っている。外套の内側で肉体が緊張している気配がする。この勘の良さそうな男は、白髪城の目覚めに気づいたのかもしれない。天高く鳴るガラスの音はさだめし目覚めの鐘の音だ。
(あの小屋が見える?)
ミスラは行く手に見える平屋の小屋の群れを指した。第五王女の館の焼け跡から続くなだらかな起伏の底は、使用人たちの居住区だ。居住区の中心を抜ける琥珀の道の左右に人々が寝起きするための小さな家が軒を連ねている。屋敷で立ち働く者たちは朝晩の交代にあわせて、決まった時刻に列をなして草の丘を往復する。かつての第五王女は部屋の窓から好んでそれを眺めていたものだ。
(手前の赤い屋根の家よ。植え込みが根本から折れているでしょう)
二人が歩いてきた琥珀色の道をもう二百歩も進めば使用人たちの居住区にさしかかる。上層へと続く樹幹の螺旋階段へ行くにはその先まで進んでいかなければならないが、ミスラは一度足を止めた。キキオンに対しても止まるよう腕をあげて制して、それとは反対の手で斜面の下に見える赤屋根の小屋を示す。
(……前の日は、ここで働く者たちは皆、お酒が入っていたの。きっと酔った誰かが勢いで折ってしまったのね)
「それが?」
だから何だという言下の声にミスラはうなずき返した。
(もうすぐ戸が開いて人が出てくる。彼は灰色の寝間着を着てる)
言葉を切って、ミスラは胸に手を当てた。心臓の鼓動だけが衣擦れのような自分の声を強くしてくれる気がしていた。
(戸を開けて三歩進んだあとに、大きな伸びをする。手を日にかざして辺りを見渡すわ。それから折れた植え込みに気づいて驚くの。腹を立てた様子で隣の家の戸を叩く。隣の住人は戸を開けない。戸一枚を挟んでしばらく何かやりとりをする……やがて諦める。また少し歩いて隣の家の戸を叩く。今度は戸が開いて、女の人が出てくる。心当たりがあったのかしら。女の人はしきりに頭を下げる。寝巻きの彼は、とうとう、仕方ないって諦めるのね。彼は自分の家の植え込みの前に戻ってくる。女の人はその様子を見送って、家の中に引っ込む。彼は、一度は折れた枝を片づけようとするけど、重たかったのか、面倒になったのか、ともかく途中で止めてしまう。結局自分の家の中に戻っていくの)
ミスラが一方的にしゃべる間、キキオンは疑わしげな眼つきをしていた。人形のたわごとだと思っているのかもしれない。彼が疑問を口にするよりも早く、ミスラは肝心のところをついに明かした。
(ねえ、妄想ではないわ。いつも見ている風景を言っただけよ。白髪城はもうずっと同じ日を繰り返してる……ほら、また始まった)
ミスラはもう一度件の赤屋根を指し示した。戸が開いて、灰色の寝間着を着た男が現れる。




