第一部 第五話
「ここって・・・・・」
周囲を見渡しながら沙希と律子は呆然と立っていた。
「ほら、何してるの?早く来ないと置いていくわよ」
薫とまゆみが夕闇の中で二人を呼んでいる。顔を見合すと慌てて駆け出した。
二人はあの雑居ビルに入っていく。そして、あの店のドアを開けた。
沙希と律子は首をかしげながら二人のあとから店に入った。
「いらっしゃい、あら・・・・」
「姉さん、久しぶり」
「姉さん?!」
沙希と律子は思わず大声をあげた。
「沙希ちゃんに律ちゃん、それに薫ちゃんとまゆみちゃん・・・なにか珍しい顔合わせねえ」
「それはねえ、ママ」
と後ろから声がした。
「あっ、理沙!」
「理沙姉!」
「天才女優早乙女薫と演技で競い合う沢口靖子に瓜二つの謎の美少女!ってね」
「あちゃあ、もうばれているの?おしゃべりなスタッフがいるのね」
「違うわよ。薫叔母様は気がついていなかっただろうけど、あの小野監督がメガホンを握り、
天才女優早乙女薫の初めてのCM出演ということで取材陣が大勢いたのよ」
「まさかマスコミ各社?」
「そうよ、かくいう私もあの現場にね」
「理沙姉も?」
「驚いたわよ、あんな場所に沙希と律子が現れるんだもの。それも薫叔母様と一緒にね」
「理沙!薫姉さんといいなさい」
「いいじゃない。ねえ、それよりも沙希と律子どうしてあそこに?」
「だって、あのソフト作ったの沙希だもの」
「えっ、あれ・・・沙希がつくったの?。ものすごく前評判がいいらしいわ」
「もう、のんきねえ理沙は。もっと下調べしてから取材しなさいよ」
薫が笑うのを
「薫!私急いで契約書を作ってくるから待ってて」
まゆみが慌てて飛び出していった。
「契約書って?」
理沙が聞くと
「沙希ちゃんのよ。うちの事務所に入れるの」
「えっ!」
驚く理沙と当の本人の沙希。
「でも、わたしが女優なんて・・・・」
「あら、もうしたくない?・・・・気持ちよかったんでしょ?」
頷いてしまう沙希。
「それに沙希ちゃんをうちの事務所に縛り付けておきたいの」
「あ~あ、薫叔母様らしい。気をつけなさいよ、沙希」
「気をつける?」
「そうよ、薫叔母様って女優だけに社会的な常識に疎いから」
「こら、理沙!人聞きが悪い・・・」
「わたし、今の仕事辞めたくありません」
沙希がいう。
「いいのよ、今の仕事をしていても。だけど時々私の仕事を手伝ってほしいの。
いいでしょ。それぐらいだったら」
「やりなよ、沙希。わたしが沙希のマネージャーやってあげるから」
「あっ、それいいねえ。じゃあさっそく」
といってバックから携帯電話をとりだした。
「あっ、まゆみ。ついでに律子の契約書も一緒にね。敏腕マネージャーって書いて」
薫は二人にウインクしてから電話を切った。
そこに理沙のバックの中の携帯が鳴った。
「はい、わたし。・・・・ええ?そんなの知らないわよ。
今日は誰もいないからってついていっただけよ。・・・・ええ?会社に行くって?
・・・どこにいったかわからない?・・わかったわ。
明日からそっちを追えばいいのね。・・・・はい、じゃあね」
電話を切ると理沙は沙希を見つめる。
「沙希、大変なことになっているわ。マスコミ各社が動き回っているそうよ」
「マスコミ?」
「そう、沙希を探し回ってインタビューしようとしているの」
「理沙、会社にって言ってたわね」
「そうそう、お兄さんかお義姉さんに電話しておいたほうがいいんじゃない?」
と持っていた携帯を差し出す。
「いい。私持っているから」
携帯電話を取り出し短縮ボタンを押した。
「あっ、お義姉さん?私、律子。ええ~?、会社にマスコミが押しかけてるって?
明日の13:00から記者会見をするの?でも・・・・ええ、わかってる」
とそこに薫が
「律ちゃん、ちょっと替わって」
といって律子から携帯を渡されると
「専務さんですか、私早乙女薫です。明日の記者会見ですが、私も出席します。
ええ、そうお願いできます?・・・はい、律子さんに替わります」
「はい・・・はい・・・あっそれから、今日言えなかったけれど、
私、今のマンションからママのお宅に引越しするの。
ええ、一時も沙希のそばから離れたくないから・・・・はい、そばに」
「へへへ、ごちそうさまだって。・・・ママ、すいません。お義姉さんが替わってくださいって」
と今度はママの真理に携帯を渡す。
「はい、早瀬真理と申します。・・・こちらこそ。・・・・いえいえ、
私律ちゃんのこと他人とは思っていませんから・・・・
あのう、私のお店でよかったらこれからお立寄りくださいませんか?・・・・・・
じゃあ、お待ちしております」
電話を切って律子に渡しながら、
「お義姉さん、来てくださるそうよ」
「さて、どうするの?薫叔母様」
「なるようになるわよ。でもこうなったら急がなくっちゃ。姉さん、澪を呼んでよ」
「澪って?どうする気なの?
「沙希ちゃんとの約束を果たすの」
「わたしとの約束?」
沙希が薫をみる。
「そう、演技のあとの沙希ちゃんの言葉しっかり覚えているからね」
「あっ」
と顔を赤くしてうつむく。
「まさか、薫叔母様」
「そう、理沙の思っている通り。沙希ちゃんの身体の検査よ」
「沙希の検査?」
「そうよ、今度の本番までには間に合わせないとね。
今のままじゃ、沙希ちゃんが可哀想よ。だからもう少し大きくしたいの」
「薫ちゃん、わかったわ。
私もいづれ沙希ちゃんの身体の検査をするつもりだったの。
ちょうどいい機会ね。じゃあ電話するね」
「ねえ、ちょっと理沙。どういうことなのよ。
今までの経過から薫さんがママの妹だってことわかったけれど・・・」
「うちの家系のこと昨日ミチル叔母さんのところで話したでしょ。
薫叔母様の早乙女というのは芸名だけど姓は長谷川といって、
ママの6女なの」
「だったら?」
「生みの親や兄弟のことは知らせないというんでしょ」
「ええ」
「里子に出すときのたった一つの条件。
物心がついたときから親には会わせないけれど、兄弟には会わすというの。
つまり、兄弟力合わせて一族の宿命から抜け出すようにというのが昔からの我一族の掟なの」
「宿命から抜け出すって?」
「今までただ一人の男が生まれていないの。それともうひとつの言い伝えがあるの。
『男と女、二つの性をもつもの一族の呪いを解く』という伝説がね」
理沙と律子二人の視線が沙希に注がれる。
「沙希!私決心したわ。あなたには思い通りの人生を歩いてほしい。
ソフトの開発でも、女優でもね。そして私は妻としてあなたを見つめそして守っていくわ」
「沙希、わたしもよ」
「理沙姉・・・律姉・・・」
沙希が二人の手を握った。
「わたしね、今日生まれて初めての演技の中、何故かとっても幸せだったの。
演技なんていえないかもしれないけれど、カアーッと身体が熱くなって・・・
フワフワとして何かとってもいい気持ちだったなあ・・・・。
初めは緊張してたけど、いつのまにか”あきあ”になっていた。
でも薫さんの雪夜叉は最初震えるほど怖かったの。本当に冷気が襲ってきて
寒くて寒くて・・・・・でも、最後は薫さんが本当の母さんみたいに思えて・・・・
涙が止まらなくなっちゃった」
「それはね、沙希ちゃんが生まれながらの女優だからよ」
ママと何やら奥で相談していた薫がいつのまにか戻ってきていて言い切った。
「わたしが女優?」
沙希が聞く。
「そうよ。・・・生まれながらのって言ったけれど、
生まれ変わっての・・っていったほうがいいかもしれないわね。
生まれ変わって、沙希ちゃんの女優としての才能が開花したのよ。
そして、・・・私が女優としてのあなたの第一号のファンよ」
「凄いじゃない沙希ちゃん!」
入口のドアのほうから声がかかった。
「あっ、お義姉さん」
「専務」
律子と沙希がカウンターのスツールから立ち上がった。
「初めまして、律子の義理になりますけど姉の佐野静香と申します。
沙希ちゃんは律ちゃんのことをどう呼んでるの?」
「会社では律子さん、会社を離れれば律姉・・・・です」
「じゃあ、私は律っちゃんの姉だから・・・静姉ね。これからはそう呼んでちょうだい」
「静姉・・・・」
「いいわねえ、・・・・あら、ごめんなさい。
私って一つ一つ気にかかったことを解決していく主義なので」
「いいんですのよ・・・さあ、お座りになって」
「薫さん、沙希ちゃんはどうでした?」
「もう痺れちゃう、最高!ってところね」
「台本を読んだ瞬間にこれは沙希ちゃんしかやれないって思ったものですから」
「静香さん・・・いえ、静ちゃん。あなたの眼はたいしたものねえ」
「静ちゃん、そう呼んでいただけるんですか」
「ええ、静ちゃんも今日から家族だからね」
とママがニッコリ笑っている。
「で、どうなの?沙希ちゃん。女優になる?」
「わたし、どちらも辞められません」
「わかったわ、会社の専務として沙希ちゃんに辞められたら困ります。
だから、沙希ちゃんの考えを支持します」
「お義姉さん、私沙希のマネージャーすることにしたの」
「それ、いいわねえ」
その時、勢い良くドアが開いてまゆみが入ってきた。
「まいったわ、事務所にもマスコミの連中が張っていたのよ」
「見つかっちゃったの?」
「そんなへまするもんですか。はい、これ」
と沙希と律子の目の前に白い紙を置く。
「なんですか、これ」
「貴方達との契約書よ」
「契約書?」
「うちの事務所に所属する契約書」
「ちょっと待ってください。これは正式なものですね」
と静香が口をはさむ。
「薫、こちらは?」
「律ちゃんのお義姉さんで会社の専務さんよ」
一応、公私の公の立場として話しをするので、お互いに名刺を交換する。
「もう一枚作っていただけないでしょうか」
「もう一枚?」
「沙希ちゃんの占有権は会社にありますから、
女優をしているときは、レンタルしている形をとりたいのです。
だから、うちの会社と事務所の間でレンタルの契約をかわしたいのです」
「レンタル?」
「ええ、それと」
「それと?」
「今回のソフトからのこれから沙希ちゃんが開発するソフト全ての
CMの放映権や広告、宣伝等のメディア向けの委託の契約です」
「ええ~!うちの事務所で沙希ちゃんの開発するソフトのメディア向けの
業務をまかせていただけるんですか・・・・
こりゃ大変だ、薫。事務所の狭さと人が足りないわ。
今から人を育てても間に合わないし、・・・ヘッドハンティングしなくちゃ」
「フフフ、その一つだけ解決してあげましょうか」
という静香の言葉に薫とまゆみが顔を見合わせた。
「うちのビルの3階のワンフロアを倉庫として使っているけど
ワンフロアも倉庫として使うなんてもったいなくて。
それより家賃収入があったほうがいいでしょ」
「あの~、お家賃っていくらなんですか」
と心配しながらまゆみが聞く。これぐらいならという料金を静香がいうと
「ええ~、そんなんでいいんですか。それじゃ今の事務所の家賃と変わりませんよ」
「まゆみ、今日来なかったからわからないでしょね。今の事務所の数倍はあるわよ」
「そんなに?!」
「静ちゃん、いいの?無理していない?」
薫が聞く。ママも心配そうに見つめている。
「いいのよ。今のビルを手に入れたのだって沙希ちゃんが
開発したビジネスソフト”ワープスロウ”の売上のおかげだし・・・ 凄いのよ。
あれ、今でも世界中で売れつづけているの。
それに、メディアに対するお仕事ってうちの会社苦手なの。
何せコンピュータ相手のお仕事でしょ。
それに、天下の天才女優早乙女薫と新人女優早瀬沙希が所属する
事務所が同じビルにあるなんてなんかワクワクするわ」
とのんきに笑っている。
★
「は~い、みんな元気?」
やけに明るい声が聞こえた。
「姉さん、あいつのあの明るさ何とかなんないの?」
薫がママに言っている。
「いいじゃないの。お医者さまが暗かったら患者さんが可哀想じゃないの」
理沙が沙希と静香と律子に小声で話した。
「今入ってきたのが7女の澪叔母様よ。
ママの真理が長女でしょ。沙希はもう会ったわねえ、レストランの操叔母様が次女なの。
えーっと、三女四女五女はとばして、六女が薫叔母様、で七女が今入ってきた澪叔母様よ。
そして昨日あったミチル叔母様が8女ってわけ
「ねえ、ミチル叔母様って?」
「昨日、静姉に紹介された美容室の先生よ」
「えっ?・・・あの人が?・・・」
「ねえ、ちょっと。三女四女五女は飛ばしてってどういうことなのよ」
律子が詰め寄ると
「いいじゃない、今後のお楽しみ!・・・ただ、それぞれの叔母様って
個性が強くて可愛くていろんな業界で一流の仕事をしているのよ」
「さて、薫姉さん。沙希って子はどの子? 死んじゃった沙希と同じ名前だけど・・・・」
「そこにいるでしょ、見りゃわかるわよ」
薫が答えた。
「ありゃりゃ、沙希ちゃんだ。あんた生きてたの」
「医者が何馬鹿いってるんだろう」
薫は呆れ顔だ
「あっ、そうか。そんなわけないよね。じゃあ、あんたが今度の沙希ちゃんってわけか」
「今度の沙希ちゃんだって」
うふふと律子と理沙が顔を合わせて笑っている。
すると
「あっ、小谷澪先輩!」
と静香が立ち上がった。
「あれっ、静香!なんであんたこんなところにいるのさ?」
「静ちゃん、澪を知っているの?」
「はい、同じ大学の先輩なんです。それに澪先輩は命の恩人なんです」
「命の恩人?」
澪が首をかしげる。
「先輩、あったじゃないですか。私、女子寮でお腹がいたくてウンウン唸っているとき、
当時医学部の学生だった先輩が運良く通りかかって診断してくれたの覚えてません?」
「そういうこともあったっけ」
「電話しても凄い台風で救急車が出動できないって。
わたし先輩の車で病院に連れて行ってもらってようやく助かったのよ。
あとで聞いたら、酷い腹膜炎であと数時間遅かったら危なかったって」
「そうそう、あの日の暴風雨は凄かったっけ」
なんか噛合わない会話だったが澪の暖かさが伝わってきた。
(いい人だなあ・・・このお店に集まってくる人ってなんていい人ばかりなんだろう)
「沙希ちゃん、澪にまかせていいわね」
「はい、澪叔母様なら・・・・。お願いします」
素直に頭が下げられる。
「そこで静ちゃん。あのボックス席で姉さんと沙希ちゃんのことをこの澪に教えてあげてくれる?」
「あら、ここで話せばいいじゃない」
とママ。
「記者会見が明日の昼一でしょ。
沙希ちゃん達と打ち合わせしとかなくちゃあ・・・時間がないのよ。
それに私、澪と話してるとイライラしてきちゃう」
「はいはい、それじゃ真理姉さんと静香。私達向こうで楽しくおしゃべりしましょ」
と澪がボックス席に移動する。
「いいんですか?」
心配そうに沙希が薫に言ったが
「いいわよ、こんなことにこたえるような澪じゃないの」
「それもそうね」
と理沙。
「あっと、沙希ちゃん。私のこと理沙みたいに”薫叔母様”
なんていったら承知しないからね。薫姉・・・でいいわ」
「薫姉・・・何かいいにくいわ。薫姉さんじゃ駄目ですか」
「う~ん、しかたない。それで我慢するわ。
公式のときは、薫さん、早乙女さん・・・どちらでもいいわ」
「わかってます」
ニッコリ笑う沙希。
「あっ、それから沙希ちゃんは名前はどうするの?
本名の早瀬沙希でいく?それとも芸名をつける?」
「わたしもそれを聞きたかったの」
まゆみも口を添えて言った。
「名は”あきあ”ではだめですか?」
「あっ、それは沙希ちゃんが監督に言っていた少女の名ね」
沙希が頷いた。
「あきあかあ・・・・あきあ・・ねえ・・・上の姓は?」
「日野・・・日本の日に野原の野と書いて”日野”なんです」
「日野あきあ・・・かあ。なんか神秘的ねえ。いいんじゃない。まゆみはどう思う?」
「私も戻ってくる途中、いろんな名前を考えてきたんだけど・・・
う~ん・・・日野あきあ・・・私の考えた名前どれも失格。
これでいきましょう。さっそく明日商標登録してくるね」
「商標登録?」
「芸能人の名前ってねえ、勝手に使われることが多いの。沙希ちゃんは有名になる。
ううん、もうすでに有名になってるわ。
謎の美少女ってことでね。テレビもラジオも雑誌も多くの記者達や
レポーターを繰り出して血眼で沙希ちゃんを探し回ってる。
だから”日野あきあ”って名前が勝手に使われないように法律で縛りをかけておくのよ」
「縛りかあ・・・・呪をかけておくのね」
「シュをかけるって?」
「呪いをかけると書いて”呪をかける”っていうの。
呪いとは縛り付けるという意味なのよ。
わたし、この『妖・平安京』というゲームソフトをつくるとき勉強しまっくったわ。
平安時代のこと・・・そして陰陽師のことも。陰陽にあるの。
”呪をかける”ってね。呪の一番身近なのが名前なの」
「陰陽師かあ・・・神秘的よねえ。・・・何かはまってしまいそう」
理沙がいう。
「じゃあ、明日の会見の打ち合わせをしょう。ねえ、理沙。
今日の沙希ちゃんの印象は記者として見ててどうだった?」
「最初はね・・・印象はなし」
薫は首を傾げて
「印象なし?」
「だって沙希がいるなんて思わなかったもの」
「それから?」
薫が話を促す。
「薫叔母様が小野監督の前に沙希を引っ張りだしたとき、
あっ沙希がいるって初めてわかったもの。周りの記者達は沢口靖子だっていってたけれどね」
「嘘おっしゃい、律ちゃんの姿も見たからでしょ」
「へへへ、ばれたあ?」
「それからは」
と理沙が話を続ける。
「この子、ますます輝くばかり・・・だって、薫叔母様はやってあたりまえ。
でも沙希は、何よ!・・こんな・・・こんなことができるの・・・・・?って
途中から本当に一つ一つの動きに眼が離せなくなったわ。
私だけじゃなかったの。時々周りに目を向けると
百戦錬磨の芸能記者達も夢中になって二人の演技を見ていたわ。
もう少し周りを観察しようとしても、どうしても我慢が出来なくなって沙希に目がいってしまうの。
あ~あ、私もあんな顔をして沙希を見ていたのかなあ・・・・」
「あんな顔って?」
律子が聞くと
「こんなの・・・」
といって眼を寄せてポカンとした顔をする。
「きゃ・・ははは・・・」
と沙希、律子が笑っていたが
「律ちゃん、あんたもよ。・・・同じ顔してたわよ」
とまゆみがばらす。
「えっ、いやだあ・・・・」
律子が叫び声をあげた。
「私、つくづく沙希ちゃんが怖いって思うの」
薫がそう言い出した。
「私が怖いんですか!」
沙希が悲しそうな声をあげる。
「違うわ。そういう意味でないのよ。沙希ちゃんそんな顔しないで」
薫が後ろから沙希を抱きしめる。
沙希の頭を撫でながら
「みんな沙希ちゃんの身体を匂ってみて・・・・」
沙希の身体に律子や理沙、まゆみまでも鼻を近づけクンクン匂う。
「やだあ・・・」
沙希が悲鳴をあげる。
「沙希ちゃん、ごめん。少し我慢してね」
薫の声におとなしくなる沙希。
「わかる?」
みんなが何のことかわからないようだ。
ただ一人まゆみが
「あっ、ラベンダーの香り・・・」
「えっ」
と理沙と律子が再び匂いだした。
「本当・・・・」
やがて顔をあげた二人が言った言葉だ。
「でもこの香りって・・・・」
とまゆみがいいかけると
「ラベンダーの香りの体臭ってこのお店の中に一人もいないわ。
勿論香水なんて論外・・・・でしょ。みんな・・・」
「だったら・・・」
「いいえ。午前中の車の中での沙希ちゃんの体臭は無臭だったわ」
「じゃあ、この沙希ちゃんの匂いは?」
「このラベンダーの香りはね、私が乙女だったころの匂いなの」
「じゃあ・・・」
「ええ、この子あの演技の中でわたしのこの細胞の中から
微かに残っていた遠い過去の私の体臭を嗅ぎ取って
自分の体臭にした・・・・ってのは解答になるかなあ?」
「わたしが問題の提出者なら0点しかあげれないわね、薫姉さん」
振り向くといつのまにかボックス席から抜け出した澪たち3人が皆の後ろに立っていた。
「そんなこと人間に出来るわけないでしょ。常識からいって」
「そうよね、でも説明がつかないのよ」
「どれどれ・・・」
と澪が沙希の身体を匂う。
「本当だ、これ高校1年生の夏休みまでの薫姉さんの匂いだ」
「こら、澪。余計なことをいうな」
「へええ・・・薫叔母様って高校1年の1学期に処女を捨てたんだ」
「ねえねえ、相手はどんな人?」
理沙と律子それに沙希までもが興味深々と薫をみつめている。
「もう、澪がいらないことをいうから、この子達・・・」
「いいから、いいから・・・でも、この子の身体って不思議だね。
聞いたら女になってそんなに時間が経っていないそうじゃない?
きめが細かくて、スベスベしてて透明感があって・・・
まるで吸い付くような肌触り。う~ん、抱きしめちゃいたい。
ねえ、沙希ちゃん。無理にでも個室あけちゃうから
明日といわずに今日から検査入院しない?そして、この澪姉さんと
いいことしょうよ。ねえ、いいでしょ・・・・」
「ボカっ」
ていうのが薫が澪の頭を叩いた音。
「フーフー」
というのが、余程叩いた手が痛かったのか、薫が息を吹きかけて冷やしている音。
「あ~ん、真理姉さん。薫がぶったあ~~~」
「誰が薫じゃい。うえ~んって泣きまねして、
姉さんに助けを求めてるなんて姑息な手段をつかいおって」
薫の言葉遣いがめちゃくちゃだ。
「まあまあ、薫も澪もいい年をしてまるで子供の喧嘩みたい。
いつも、この二人会ったらこの調子なの。・・・我慢してね。オホホ」
とみんなにつくり笑いをしている。どうやら喧嘩の仲裁をする気はないらしい。
一方、まゆみと理沙の
「今に面白いことはじまるから・・・」
という言葉に静香、律子、沙希の三人は薫と澪の予想以上の喧嘩の面白さに、
大声を出して笑うのもはばかられ、お腹を押さえながら笑っている。
「ヒー・・・ヒー・・・・」
って笑っているから苦しい。
「あら、あんた達なに笑ってるのよ」
という薫の声もなぜか可笑しい。
医者である澪が三人の状態に慌てて
「あんたたち、そのままじゃ内臓を痛めちやうよ。
もう、いいから我慢しないで大きな声で笑っちゃいなさい」
その声でいっせいに
「あははは・・・」
「うほほほ・・・」
と笑いだした。
しばらくしてようやく収まった笑いの時間。
お腹をさすりながら静香が
「いい家族よねえ・・・」
ってぽつんと言った。
「そうよ、ここにいるのは私の妹達と娘達よ」
ママの言葉にみんな”笑い””泣き”の連続となった。
「ねえ、澪。本当のところどうなの?沙希ちゃんのラベンダーの香りのこと」
「判らないの。そんなことありえないと否定してしまえばいいんだけど、
確かにこのラベンダーの香りは薫姉さんの若かりしときの体臭だわ。
演技の中で若い時の母の香りを再現するなんて・・・そんなことできるのは」
「そんなことできるのは?・・・・」
「演技の大天才か・・・宇宙人ね」
「ふーん、演技の大天才ねえ・・・・沙希ちゃん、どうしてラベンダーなの?
今の私の体臭にはもうラベンダーなんて含まれていないんだけど」
「わたし・・・あのときのことは夢中でよく覚えていません。でも、雪夜叉・・いえ薫さん」
「薫姉さんでしょ」
「あっ、ごめんなさい。薫姉さん・・・の身体からラベンダーの香りがしてきて、
懐かしい・・・と思った瞬間に柔らかい乳首を口に含んでいる感触と
甘く美味しいミルクの味とラベンダーのほのかな香りがしたんです。
あっ、母様と思った時・・・雪夜叉の恐ろしい顔が
いつも優しく私をあやしてくれていた母様の笑顔と重なってしまって・・・・」
みんな呆然と聞いていた。
「フッ」
薫が自嘲的に笑った。
「まいったわね、沙希ちゃんには。
天才早乙女薫といわれた私なんか、とてもとても足元にも及ばないわ。
この子にはね、世界中の俳優達が手に入れたいと願ってやまない
”演技の神様”がすでに宿っているのよ。
まゆみ!・・・あなたならきっと気づいていたよね。
後半の私の演技ガタガタにくずれてしまったのを」
「あんな薫を見たの初めてだから私も驚いたわよ。訳を聞こうかどうか。
でも、最後は立ち直ってたじゃない」
とまゆみが言う。
「訳はね、今沙希ちゃんが言った場面なのよ。急にこの子の身体から
ラベンダーの香りがしてきて・・・あっ、私の香りだと思った瞬間に
私がかぶっていた仮面が剥がされてしまったの」
「仮面が剥がされるって?」
澪が聞く。
「雪夜叉という演技の仮面を剥がされしまって素の早乙女薫に戻ってしまたの。
あんな恐ろしい目にあったのは生まれてはじめてよ。
それからもうパニック!台詞が出てこない、動かれないの棒立ち状態よ。
そんな時、沙希ちゃんが必死に語りかけていたのに気が付いたの。
(いや!いや!・・ここで止めるのはいや!続けましょ!・・・続けましょ!)
って、確かに頭の中で聞こえたの。それから、フっと沙希ちゃんの手が
私の顔を触れたとき、私は雪夜叉に戻っていたわ。
・・・・あのスタジオで何人の人が気が付いていたかしらね」
「えっ?」
「最後の最後、天才女優といわれたこの早乙女薫が初めて演技するこの子に
引きづりあげられて演技していたのを・・・・小野監督は知っていたわね。
・・・・憎い、憎い・・・何度思ったか知れないわ。
でも、駄目だった。沙希ちゃんの可愛い笑顔、その一つ一つの動作が頭から離れない・・・
頭から消えないの。いっそ憎めたら・・・・
そう思っても・・・愛しちゃったの・・・どうしょうもなく愛しちゃったのよ」
薫は沙希の後ろから抱きついた。
「薫姉さん・・・・」
沙希は薫の告白に凄く驚いたけど、その溢れる熱い想いに胸がいっぱいになった。
「ふふふ、直情的な姉貴らしいや」
立ち上がった薫は
「久しぶりね、澪から姉貴なんて呼ばれるの」
「でも、想いは皆同じだよ」
理沙がいう。
「律子もそうだよね。ママだって。みんな沙希に対する想いは変わらないと思うよ」
みんな頷いている中
「あ~あ、私一人仲間はずれかあ。・・・でも私には大事な旦那さまいるもんね」
という静香の言葉が何故か可笑しい。
この後、静香だけが名残惜しさか悔しさか涙を含んだ笑顔で幾度も振り返りながら、
ビルの前で手を振る新しい家族に軽く礼をして帰っていった。
残ったみんなもお店の後片付けを手伝い、
それぞれの車に分乗してママの家に向かった。沙希はといえば薫が放さない。
みんなも律子までもが薫の心の内をおもってか
まゆみの運転する車の後部座席に二人っきりにしてあげた。
ママの家では留守番をしていた杏奈とともにたった二人きりの肉の宴を、
耳を塞ぎながら抱き合う女達・・・夜が更けていった。
★★
今日は沙希を真中に律子と杏奈が腕を組んで歩るいて行く。
沙希が昨日と違うのはその身体から匂うラベンダーの香り・・・
勿論、香水ではなく沙希の女の体臭である。
「沙希、その香り昨日より強くなったみたいだよ」
「えっ、本当?」
と沙希が腕をあげて自分の匂いを嗅ぐ。
「あっ、本当だ。・・・でもどうしてかしら?杏奈ちゃんはどう思う?」
「私もわかりません。でも完全に沙希さんの香りになったようですねえ」
と首を傾げながらも沙希に腕をからませて歩く。
そんな様子を横目で見ながら律子は朝の出来事を思い出していた。
「送っていくわよ」
やけに晴々しい薫の声に思わず
「駄目です。薫姉さんは夕べ沙希を独占していたくせに
唯一私が今、沙希を独占できる時間を奪うつもりですか」
律子の強い口調に薫は一歩引いて
「ごめん」
とあやまる。周囲のみんなの目が(そうだ、そうだ)と応援していた。
その前にまゆみに
「薫は調子に乗るほうだから、一発ガツンといってやらなければ」
と言われていた。
まゆみも杏奈も沙希と抱き合うことを楽しみにしていたのが
薫の告白以来、遠慮してしまった愚かさ悟っていた。
律子はこうした通勤時間が明日からはもう訪れないことが判っていた。
だから、この幸せな時間の一分一秒を大切にしたかったのだ。
ホームに電車が入ってきた。電車に乗り込むといつものメンバーがいた。
「あれ?女性ばっかりじゃない?」
良く見ると男性の姿は一人もなかった。
「ふふふ、男の人遠慮しちゃったみたいですよ。二三人乗ろうとした男の人も
女性ばっかりなので、びっくりして隣の車両へ行っちゃたし・・・・」
「ねえ、それよりこれ沙希さんのことじゃありません?」
とスポーツ新聞の一面をみせる。
そこにはデカデカと
『天才女優早乙女薫と堂々と共演する沢口靖子に瓜二つの謎の美少女!!』
サブタイトルとして
『美少女はプロモーションビデオのゲームを開発製作した天才ソフト開発者か?』
と書かれてあった。
初めてこういう場面に立ち会う杏奈は声も出ない。聞いていた話以上の沙希のファンの熱気だ。
「あっちゃあ~、沙希。もう後戻りできないよ。こんなに派手に書かれちゃあ」
律子の声に沙希は頷くと一歩前に出て
「みなさん、ごめんなさい。昨日いろいろあって環境が変わってしまいました。
だから明日からこの電車に乗れません。本当にごめんなさい」
といって頭を下げた。
シーンとした電車内だったがいきなり
『パチパチ・・・パチパチ』
と大きな拍手が鳴った。
頭を上げると、いつものメンバーも律子や杏奈までが拍手している。
みんな泣き笑いだ。
「沙希さん、あやまることなんてないです。
沙希さんのおかげでこの車両女性専用になったし・・・
そうだこの車両を女性専用車両としてこのまま続けていこうよ。ねえ、みんな」
「他の時間帯もね・・・」
「沙希さん、有名になっても私達のこと忘れちゃ駄目ですよ」
「私達が沙希さんの最初のファンだものね」
「あれっ?、沙希さんの香り昨日と違うわ。とってもいい香り」
「あっ、ラベンダーの香りだ。どこのメーカーの香水なんですか?」
困った顔の沙希に律子が助け舟をだす。
「ごめん、この香り香水じゃあないのよ」
と昨日のエピソードを少しだけ話してあげた。
「えっ、じゃあこの香りって沙希さんの体臭なんですか?」
「凄い!早乙女薫って若いときはこの香りだったんだ」
と思いっきり香りを吸い込むと
「駄目!他の人の香水の香りも吸い込んじゃった」
と笑いを誘っていた。
「でも、そんなこと出来るんですか?」
半信半疑で聞いてくる女性もいる。
「できないでしょうね。お医者さんに聞いても出来るわけないっていってたもの」
みんな興味津々と聞いている。
「だから、もし出来るとしたら沙希だけかもしれない」
不思議と納得できる言葉だった。
「わたし、そのプロモーションビデオ早く見たい。
ついこの間、京都の晴明神社へ行ってきたのよ。陰陽師に興味があってね」
みんな好きなことを言いだしている。
沙希は一人一人の会話に耳を傾けて頷いたりニコニコ笑っている。
「あのう、聞いてもいいですか?」
とセーラー服の女子高生が前に出てきて質問してきた。
「私、今日用事で学校にいくのが遅れてしまって
偶然にこの車両に乗り合わせたんです。
さっきの駅で沢口靖子さんが乗ってきたのに吃驚して
『えっ、どうして?何かのロケ?』ってカメラをさがしてもないし、
皆さんの話を聞いていて別人なんだあと納得したんです。
その時、後ろのおばさんが沙希さんのこと男だと言ってたんです」
少女の潔癖さであっさりとした質問にかえたが
二人のおばさんの会話は聞くに耐えないものだった。
「ホラ、あれが噂のおかまだよ」
「ほう、なかなか別嬪じゃあないか」
「ふん!アバズレだよ。どうせ、ホテルで男とよろしくやっての帰りさあな」
「何の商売だろうね」
「ニューハーフヘルスか男娼だろうよ・・・フェフェフェ」
「本当よ」
沙希が顔色を変えずに答えた。
周囲の乗客も知っていることなので黙って聞いていた。
「あのう、ニューハーフなんですか?」
沙希は少女の質問に真摯に答えた。
「ちょっと違うと思うわ。
全部とは言わないけれどニューハーフの人は小さいときから男の人が好きになって
女になる人が多いでしょ。・・・そう、あなたは男尊女卑って言葉知ってる?」
少女が頷くと
「私はね、その男尊女卑の思想が強烈な土地で生まれたの。
ううん、あんなの思想とはいわない。狂気だと今でも思ってるわ。
・・・男とは力と教育されるの。力と喧嘩が強いものが上にあがれる。
ひ弱に生まれた私は徹底的に苛められたわ、家でも学校でも・・・」
少女の眼が真剣に沙希を見詰めている。
「私は争い事が嫌いだった。それでも理不尽なことには徹底的に反抗したの。
そんな私に男達は言ったわ。優しさ=女だと」
「そんなあ」
と聞いている女性達が不満をもらす。
「そうよねえ。・・・そして私は子供心に疲れてしまっていたの。
安らぎの時間なんて一つもなかったから・・・・」
とスーと顔をあげ首を指し示すと
「まだ薄っすらと残っているでしょ。この傷!包丁で刺したあとなの」
みんな息を呑んで聞いている。
「子供の行為とはいえ馬鹿なことをしたわよね。
神様もそんな私に罰を与えたの。判る?・・・この声よ。
男時代は苦痛以外何者でもなかった。だって、いじめの標的だもの。
でも、こうして女に戻った・・・本当の私は生まれたときから女だと今では確信してるわ。
この声、神様から与えられたものだと感謝してるのよ」
沙希は少女を見ながら
「判るでしょ。私にとって男は嫌悪すべき生き物なの。
触られるのもいや!虫唾が走るの。だから、私が愛するのは女性だけなの」
「身体をかえられるんですか?」
沙希は首を縦に振る。
「一つでも自分の男の部分を消してしまいたいから・・・・
でも最終的に全て変えるのは神様次第よ。だってそうでしょ。
神様が目的を持って男の身体を私に与えたのだから・・・」
少女にとって沙希の最後の言葉の意味が判ったかどうか・・・・でも、すぐに手を前に差し出した。
えっと思うと
「握手してください。どうしても・・・・」
沙希が少女の手を握ると
「素敵でした、今のお話。何かうまく言えないけれど・・・何か清々しい思いがします。
私、本当は学校でいろいろあって嫌々ながら登校する途中だったんです。
でも、今は素直に友達に謝れます。学校では聞けないお話を聞けて何か得をした感じです。
・・・ちょっと遅刻もいいかな・・・なんて思っています」
みんな涙を拭きながら笑っている。
「まあ、この子は。駄目よ、今度から遅刻しちゃあ」
赤くなった眼で律子がそういうと、まだ沙希の手を握ったままのこの女子高生
「なんか、くせになってしまいそうで」
と笑いながら手を離した。
「一ついいこと教えてあげる。ビジネスソフトのワープスロウって知ってる?」
「知っています。あのソフトめちゃくちゃ有名じゃあないですか。
えっ?あのソフト沙希さんが作ったんですか・・・・」
「そうよ」
「うわっ、凄い!あのソフトいま世界中で販売されてめちゃくちゃ売れているじゃないですか」
と飛び上がって手を叩いている。
電車が駅に着くと
例の如く撮影会が始まった。今日はほとんどの人がカメラを持っていたので
その時間がかかること・・・おまけにサイン会も始まってしまい時間がどんどん過ぎていった。
たまりかねて律子が
「みんな、遅刻するわよ」
と叫んでも
「今日はいいの」
と平気で列に並んでいるので
杏奈は事故が起こらないよう飛び回って注意を怠らない。
他の乗客に注意されたのか駅員が飛んできたが、列の中に駅長の姿を発見すると
「駅長どうしたんですか、これ何の騒ぎですか」
と駅長に近づいて聞いた。
無口な駅長が指し示すところには懸命にサインペンを走らす沙希の姿があった。
「あっ、沢口靖子!」
といった駅員に駅長は首を横に振ってから前に並ぶOLのもつスポーツ新聞を指差す。
「あの第一面の・・・・でも、ホームの上でこんな騒ぎでは・・・」
と駅員が注意しに行こうとしたが、駅長が押しとどめて始めて口を聞いた。
「あの三人を良く見ていたまえ。
決して並んでいる人を危険なことに巻き込まれないよう常に注意をしている。
飛び回っているセーラー服の女の子とはどういう間柄なのか知らないが・・・」
するとその女の子が駅長のところにきて頭を下て言った。
「すいません、駅長さん。もう少しだけもう少しだけ時間をください。
沙希さん、必死でサインしています。ファンの人と最後の挨拶をしているんです」
「最後の挨拶?」
「ええ、沙希さん。今日で電車に乗れなくなります。
午後に記者会見をするそうです。
そうしたら明日からは電車に乗ったら絶対今日以上の騒ぎになって危ないし、
駅員さんに迷惑をかけます。
お願いです。今日だけ、後数分だけ我慢して待ってください」
黙って眼を瞑って少女の話を聞いていた駅長が
「たいしたもんだ。・・・今の言葉は君が考えたのかね」
優しい眼で聞いた。
「いいえ、これは沙希さんが口移しで教えてくれました。
私馬鹿だから、口移しでと沙希さんに言われたとき
こんな大勢の中でキスするのかな、と恥ずかしいこと考えたんです。
でも、口移しって言葉の伝言のことなんですね。・・・・
沙希さん必死でサインしながら私に伝言されたんです」
少女がぺこっと頭を下げて戻ろうとしたとき
「ちょっと聞きたいけれどいいかね」
と呼び止めた。
少女は立ち止まってから振り向き、何だろうという眼を向けた。
「きみは、あの女性と知り合いかね」
少女は何だという顔をして明快に答えた。
「いいえ、今日初めて会いました」
「それでは」
という駅長の言葉に
「私、最近学校へいくのがすごく嫌だったんです。
親友と喧嘩して顔を見るのも嫌になって・・・・今日もわざと遅れて電車に乗りました。
しばらくして違う駅で沙希さんが乗ってきました。
するとみんなが沙希さんに拍手しているんです。
そして、この車両を女性専用にしようっていってるんです。その理由は私自身よく知っています。
この線って凄く痴漢が多いんです。だからの女性専用車両なんです。
そんな時私の後ろの叔母さん二人が沙希さんに対して嫌なこといっていたんです。
だから私、思い切って沙希さんに質問しました」
少女は顔を紅潮させながら喋る。
駅長も駅員も自分達の仕事に関することが出てきたので黙ってきいていた。
「質問の内容は聞かないでください。二度と口にしないと自分に誓いましたから。
話してみてすごい人だと思いました。あこがれます。
今日から大・大・大ファンです。そして女性としての目標です」
少女が頭を下げて戻ろうとしたとき
「きみ、あの女性に言ってください。駅の安全は駅員が守るから
安心してファンの人にサインしてあげなさいってね」
そういうと横の部下に
「豊島君、君は今の言葉を聞いて何も行動しないのかね」
ハッとした豊島駅員は走り去って、やがて大勢の仲間を引き連れて戻ってきた。
そしてテキパキと指示をして若い女性のサイン会を見守り続けた。
★★★
結局会社にたどりついたのは、始業時間から1時間も後だった。
会社についてもマスコミ各社に囲まれて玄関にたどりつくのが30分もかかるしまつだ。
三人はゼイゼイいいながらドアを開けた。
「おはよう、大変だったわねえ」
と専務が迎えた。
「おはようございます。いえ、申し訳ありません」
と遅刻をあやまった。
「ふふふ、何を言ってるの。あれを見なさい」
と専務の指差すほうを見ると、昨日までなかったテレビが置いてあり
部のみんなが円座になってニヤニヤ笑いながらこちらを見ていた。
テレビはというと、ヘリコプターから撮った映像に
駅のプラットホームで一列に並んだ大勢の人とその先には・・・・
段々ズームアップしてくる。あっ沙希だ、
人をさばいている律子がいる。杏奈がいる。
そして、飛び回っているあのセーラー服の少女がいた。
「ゲッ、私が写ってる」
律子が大声をあげた。
「あっ。本当だ!」
「どうして?」
「どうしてって、今日記者会見をするだろう?マスコミが張ってても不思議はないよ」
とテレビの一番前でドンと座っている社長が言った。
「あっ、誰か私達の出勤時間と出勤ルートをマスコミにチクッたな」
律子が社員達を睨みつけた。
「チクッたとは人聞きが悪い、なあみんな。
わが社あげて時間とルートをマスコミにFAXで送ったのさ。
こう書いてね。『沢口靖子似の美少女はこの時間にこのルートを来ますが
この二人に100mより近づいたマスコミは今日の記者会見には出席できません』ってね」
「だって、会社の前では・・・」
「文章にはこう続けてあったよ『但し、会社の前は別です』ってね」
「どうして?」
専務が苦笑いを浮かべている。
「だってさ、こんなの肉眼で見たいじゃないか」
二人はドンと椅子に腰を落とした。
疲れが身体を覆っていく。
「ねえ、律子さん。私、手が痛い!」
律子は沙希の手を揉みながら
「専務、他の女性達は?」
専務が答えようとするのを、社長がさえぎった。
「あっ、これこれ」
とテレビを指差す。そこには『本名 早瀬沙希、芸名 日野あきあ』
とさっき書いたばかりのサイン色紙と
『妖・平安京』のゲームソフトが写っている。
「この画像がテレビに出て以来、うちの電話回線がパンク状態だよ。
回線が違うはずの社長室の電話も鳴りっぱなしで
とうとうあとは女性にまかせて避難してきたのさ。
おかげで朝からテレビにかじりつきとおし。みんなも仕事にならないからテレビ観戦だよ」
沙希がパソコンを立ち上げようとすると
「おっと、そこのパソコンのLANケーブルは抜いておいたよ。
さっき電話のことだけいったけどインターネットも
メールが次から次へと受信してくるんで4階のパソコン20台も女性達がつきっきりなんだ」
「私、様子見てくる」
「あっ!ちょっと待って!・・・あなたが千堂杏奈さんね」
「はい」
「あなたには美容室であっていたわね」
「私もお手伝いしたことがあります」
「さっき真理ママとミチルさんから電話をもらったのよ。
あなたが沙希ちゃんの専属のファッションコーディネーターになったからよろしくって」
「はい!私の希望なんです」
「ふ~ん・・真剣なのね・・・わかったわ」
といってからぐっとくだけた口調で
「杏奈ちゃんのこと応援するわ」
といって小さなケースを2つ渡す。
「律ちゃんもこれ・・・」
と同じものだ。見てみるとそれは名刺だった。
『早乙女薫事務所・ファッションコーディネーター 千堂杏奈』
と書かれてある。
「あのう・・これって・・・」
「急いで作らせたらしいわ。杏奈ちゃん、
あなた持ち出しで沙希ちゃんにつこうとしたでしょ。
でも沙希ちゃんは杏奈ちゃんが思っている以上に大きくなっていくわ。
だから早乙女薫事務所の一員として沙希ちゃんにつく必要があるの。わかった?」
「はい・・実を言うととても嬉しいです」
「うふふふ・・・・あなたの持つその大きな箱はメイクボックスね」
「はい」
「じゃあ、今日の記者会見さっそく役立つわね、よろしくね」
「あっ、それから早乙女事務所とのレンタルの契約と
この事務所3階の賃貸契約、それにメディア業務に関する契約も、もう済ませたからね」
「もう事務所の社長、来られたんですか?」
「ああ、契約が済んでから、社内が大騒ぎになるのを見て
事務所の女性社員と知り合いのプロダクションの女性達を10人連れてきてくれたよ。
『猫の手よりもましでしょうから』っていってから慌ててかえったけど
記者会見用になにやら取りに撮影所に寄ってから早乙女薫を連れてくるって・・・
あの社長も忙しい人だねえ」
社長の最後の言葉を背に二人は部屋を出て行った。