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「大変なことになってしまったわね…」
ぼんやりとそう答えるメリッサ。医師がいくつかの薬を処方してくれたことと、汗ばむほどに部屋を熱くしてくれたこともあって、朝には動けなかったメリッサの体も自分で体を起こすくらいのことは出来るようになっていた。それでも起き上がって水を取ろうとしたメリッサはバランスを崩してしまい、ベッドに水瓶を倒してしまう。
そんな様子にヴァンスは静かにメリッサに近づくと、濡れるのも気にせずに体を抱きしめてきた。
「メリッサ。俺は君の命を危機に晒したくはない。…このまま君に生きていて欲しいんだ」
ヴァンスの必死な声色に、メリッサも心が揺れる。ただ、彼の願いを叶えてあげることはできないだろうと感じた。
「いやよ…私はこの子を手放したくはないわ」
「メリッサ、お願いだからそんな風に自分の命を簡単に手放そうとしないでくれ。…俺はもう、君を失うかもしれない苦しみを味わいたくないんだ」
ヴァンスの言葉と共に、メリッサを抱きしめる力が強くなる。ヴァンスの声がかすかに震えていることに気付き、メリッサは少しだけ気持ちが揺らいでしまう。
誘拐事件があってから、ヴァンスが自分を思う気持ちに変化があったことには気づいていた。政略結婚をして間もない頃のような、メリッサを厄介に思っていたヴァンスはもういない。
メリッサがどこにも行かないようにとずっと目で追いかけてきて、彼は出来る限り共に過ごそうとしてきた。最近は眠りについた後も何度も悪夢に飛び起きて、メリッサの体を抱きしめてから眠りにつくことも多かったほどである。
ヴァンスをそうして不安にさせてしまったことにメリッサは申し訳なさを感じていたものの…最近は同時に、このままいつかは別れる夫婦ではなく、共にこれからも一緒に過ごしたいと感じていた。彼の傍で過ごし、彼の子を産み、彼の側で妻として生きていく日々はどんなに幸せだろうかと、自分が持ってはいけない夢を持ってしまっていた。
(彼のためになる選択は、なんだろう…)
きっとヴァンスは、このまま病気ででやつれていく私を見てはいられないはずだ。一度の誘拐でさえあれ程に振り回された彼が、今回こそ本当に倒れてしまうかもしれない。
このまま子供を諦めれば、確かに病気から解放されることになるだろう。けれど、私にはそんな選択ができなかった。彼との子が愛おしく思えて、手放すことなんか出来ない。なにより、このまま自分だけが生き残っても、ずっと後悔し続けるだろう。
それはきっと私だけじゃなく、彼もだ。
「私は実家に帰ります。政略結婚の条件だった跡継ぎとなる子供は、無事生まれたら貴方の元へと返させていただきますね」
「…メリッサ…?」
「ヴァンス様、私に死期が迫っているというなら、私に自由をください」
(…本当にごめんなさい)
「メリッサ、何を言うんだ…。辞めてくれ、それ以上は聞きたくない」
そう話したヴァンスはそのまま部屋を飛び出してしまう。それから間もなく、彼は焦った様子で戻ってきて…その手には小さな箱が握られていた。
「これ…本当はずっと渡したくて渡せなかった指輪なんだ。メリッサの指のサイズに合わせて、宝石はそのままで加工してもらった。メリッサお願いだ、この指輪を受け取って、俺と共にこれからも過ごしてほしい」
彼の持つ小さな箱の中に入った結婚指輪。以前、ジュリーに指輪のことを聞いた時、ヴァンスに渡していたと話していて、きっと彼が指輪を忘れているのだろうと思ったのだが…こんな準備をしてくれていたなんて気づかなかった。
必死にメリッサを引き留めようとする彼の言葉に胸が酷く苦しくなった。何度も言おうと勇気を出した別れの言葉が、喉元につっかえて口にできない。それでもどうしても考えてしまう。きっとこの指輪を受け取るべきは自分ではない。
彼に相応しいのは、国を共に支えてくれる素敵な女性のはずだ。
彼を苦しめて生き続けるくらいなら、彼のいない場所で死ぬ方が良い。そのために、この指輪も受け取れない。
「私と…どうか別れてください」




