第四章 回路図
ベルモント伯爵邸の改修工事が完了したのは、着工から三ヶ月と十二日後のことだった。
最終検査の日、修平は工房の職人たちと共に、屋敷の全ての魔導設備を点検して回った。
魔導灯。一つ残らず安定した光を放っている。
魔導炉。効率的に稼働し、熱の漏れがない。
魔導管。接続部からの魔力漏れは、限りなくゼロに近い。
「信じられん」
工房長が、何度目かの溜息をついた。
「これほど完璧な仕上がりは、見たことがない」
隣に立つ伯爵——五十代半ばの厳格な顔つきの男——も、珍しく感嘆の表情を浮かべていた。
「王都でこれほどの施工ができる工房があったとは。工房長、あなたの腕は確かだな」
「いえ、これは私だけの力ではありません」
工房長は、修平に視線を送った。
「このシュウという若者が——」
「下働きが、何をしたというのだ」
伯爵の眉がひそめられた。
貴族にとって、下働きは道具に等しい。名前を持った個人として認識することすら、珍しいだろう。
だが、工房長は首を横に振った。
「この若者は、新しい施工方式を考案しました。そのおかげで、魔力の漏洩を従来の五分の一以下に抑えることができたのです」
「新しい方式?」
「はい。また、『魔導回路図』という設計図を導入しました。これにより、施工の精度が飛躍的に向上しました」
伯爵は、興味深そうに修平を見た。
「その図面とやらを、見せてもらえるか」
修平は、一枚の紙を取り出した。
屋敷全体の魔導管の配置が、詳細に描かれている。主幹、分岐点、末端器具。全てが一目でわかるように、色分けされている。
「——これは」
伯爵が目を見開いた。
「素晴らしい。こんな図面は見たことがない」
「恐れ入ります」
「お前、名前は何と言った」
「シュウと申します」
「シュウ……」
伯爵は、しばらく考え込んでいた。
「王城で、魔導設備の改修計画が進んでいる。私は、その責任者の一人だ」
修平の心臓が、わずかに速くなった。
「この技術を、王城にも導入できないか。工房長、検討してもらえるか」
「——もちろんです」
工房長の声が、やや上ずっていた。
王城の仕事。それは、王都の魔導工房にとって最高の栄誉であり、最大のビジネスチャンスだった。
帰り道、リカルドが修平の肩を叩いた。
「やったな、シュウ」
「まだ何も決まっていませんよ」
「謙遜するなよ。伯爵が『検討』と言ったら、それは『やれ』という意味だ」
リカルドは、にやりと笑った。
「お前は出世するぞ」
「出世には興味がありません」
「何?」
「俺がやりたいのは、良い仕事をすることだけです」
リカルドは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は深いため息をついた。
「お前は——本当に変わった奴だな」
「よく言われます」
◇
工房に戻ると、エリーゼが待っていた。
「シュウさん、少しよろしいですか」
「何でしょう」
「父から聞きました。伯爵邸の工事、大成功だったそうですね」
「皆さんの協力のおかげです」
「謙遜しなくていいですよ」
エリーゼは、微笑んだ。
「それで、一つお願いがあるのですが」
「何でしょう」
「あなたの技術を、もっと詳しく学びたいのです。『魔導回路図』の描き方、新しい接続方式の原理……。私に教えていただけませんか」
修平は、少し考えた。
「いいですよ。ただし、条件があります」
「何でしょう」
「学んだことを、他の人にも教えてください。職人たちに、見習いたちに。そして、将来的には——学校のような場所を作れたらいいと思っています」
「学校?」
「魔導技術を体系的に教える場所です。今は、技術が個人の頭の中にしかありません。だから、一人の職人が引退したり死んだりすると、その技術も失われる。それを防ぐために、文書化して、教育システムを作る必要があります」
エリーゼの目が、輝いた。
「——素晴らしい考えです」
「長い道のりになりますが」
「構いません。私は——いいえ、私たちは、変革を起こすために動いているのですから」
修平は頷いた。
「では、今夜から始めましょうか」
◇
エリーゼへの講義は、毎晩続いた。
最初は基礎から。魔力の流れ、損失のメカニズム、接続部の重要性。
「魔力は、何もしなければ拡散します」
修平は、図を描きながら説明した。
「管の中を通るとき、壁との摩擦で少しずつ漏れ出します。これは避けられません。問題は、その漏れをいかに最小限に抑えるかです」
「それが、接続部の処理ですね」
「そうです。接続部は、管の中で最も漏れやすい場所です。だから、ここを徹底的に密封する必要があります」
エリーゼは、熱心にメモを取っていた。
「あなたの『遠い国』では、これが常識だったのですか」
「ええ。というより——俺の世界では、漏れの許容範囲が厳格に定められていました。基準を超えたら、使用禁止です」
「基準……」
「数値で管理するんです。漏れの量を測定し、記録し、基準と比較する。感覚ではなく、データで判断する」
エリーゼの目が、真剣になった。
「それは——魔導学院でも、誰も教えていません」
「だから、事故が減らないんです」
修平は立ち上がり、窓の外を見た。
夜の王都。まばらな魔導灯が、弱々しく明滅している。
「この世界の魔導技術は、三百年前から進歩していないと聞きました」
「はい」
「なぜだと思いますか」
エリーゼは、しばらく考えた。
「……貴族が、知識を独占しているからでしょうか」
「それも一因です。でも、もっと根本的な問題があります」
「何ですか」
「『測る』という概念がないことです」
修平は振り返った。
「現状を正確に把握できなければ、改善もできません。『何となく良くなった』『何となく悪くなった』では、本当の進歩は生まれない。数値で測り、記録し、比較する。そうして初めて、何が効果的で何が効果的でないかがわかります」
「科学……」
「そうです。この世界には、科学的方法論が欠けています」
エリーゼは、深く息を吐いた。
「あなたは——本当に、別の世界から来たのですね」
修平は、何も答えなかった。
答える必要はなかった。
◇
講義が始まってから一週間後、エリーゼは最初の「論文」を書き上げた。
「魔導管接続部における魔力損失の定量的分析」
タイトルを見て、修平は眉を上げた。
「すごいな、もう論文を書いたのか」
「あなたに教わったことを、まとめただけです」
エリーゼは、少し照れくさそうだった。
「でも、これを魔導学院に提出しようと思っています」
「学院に?」
「はい。私は、工房長の娘であると同時に、魔導学院の研究生でもあります。この論文が認められれば、新しい施工方式を正式に『学術的な技術』として認めてもらえるかもしれません」
修平は、論文を手に取った。
内容は、彼が教えたことの忠実な再現だった。測定方法、データ、分析、結論。全てが論理的に整理されている。
「素晴らしい出来だ」
「ありがとうございます」
「ただ——」
「何か問題が?」
「問題というか……」
修平は、言葉を選んだ。
「この論文が認められると、学院の先生たちは面白くないだろうな」
「え?」
「彼らは三百年間、『魔導は貴族の専門領域だ』と言って、現場を見下してきた。その彼らに対して、『現場から生まれた技術の方が優れている』と証明することになる」
エリーゼの顔が、曇った。
「……確かに、そうかもしれません」
「反発は覚悟した方がいい」
「でも——」
エリーゼは、決意を込めた目で言った。
「正しいことなら、やるべきです。たとえ反発を受けても」
修平は、小さく笑った。
「いい心がけだ」
「シュウさん?」
「何でも。——論文の提出、応援してるよ」
◇
エリーゼの論文は、魔導学院で大きな波紋を呼んだ。
最初は無視された。下位の研究生が書いた論文など、読む価値もないと思われたのだろう。
だが、論文を読んだ若い研究者たちが、その内容に衝撃を受けた。
「これは——革命的だ」
「魔力損失を数値で示すなんて、誰も考えなかった」
「しかも、解決策まで提示している」
口コミで論文の存在が広まり、やがて上位の教授たちの耳にも入った。
「何だと。現場の技術者が考案した方式だと?」
「ふん、そんなものが学術的に有効なはずがない」
「だが、データが——」
「データなど、いくらでも捏造できる」
反発は激しかった。
だが、エリーゼは諦めなかった。
「実演をさせてください」
彼女は、学院の評議会に申し入れた。
「論文の内容が本当かどうか、皆さんの目の前で証明します」
評議会は渋ったが、エリーゼの父——工房長——が裏から手を回した。
「娘の論文が認められれば、工房の評判も上がる」
そんな思惑もあったのだろう。
実演の日が決まった。
◇
実演は、魔導学院の大講堂で行われた。
百人を超える教授、研究者、学生たちが、固唾を呑んで見守っている。
エリーゼが壇上に立った。隣には、修平の姿もあった。
「本日は、魔導管接続部における新しい施工方式の実演を行います」
エリーゼの声は、緊張で少し震えていた。だが、内容は明確だった。
「まず、従来の方式で魔導回路を組み、魔力の損失を測定します。次に、新しい方式で組み直し、同様に測定します。どちらが効率的か、データで示します」
壇上には、二組の魔導回路が用意されていた。同じ魔導石、同じ管、同じ器具。違いは、接続部の処理だけ。
修平が、淡々と作業を進めた。
従来方式の回路。接続部は、管と管を直接つなぐだけ。隙間はそのまま。
新方式の回路。接続部は、金属板で補強し、樹脂で密封。
「では、測定を開始します」
エリーゼが、流量計を接続した。
結果は——
「従来方式、損失率三十八パーセント」
「新方式、損失率七パーセント」
講堂がざわついた。
「五倍以上の効率……?」
「信じられん」
「何かの間違いでは」
一人の老教授が立ち上がった。白髪を後ろに撫でつけた、厳格な顔つきの男。魔導学院の学長だ。
「測定器具に細工がしてあるのではないか。別の器具で測り直すべきだ」
「もちろんです」
エリーゼは、落ち着いて答えた。
「どなたか、学院の器具をお持ちいただけますか」
助手たちが、学院所蔵の測定器具を運んできた。
再測定。
結果は——
「従来方式、損失率四十一パーセント」
「新方式、損失率九パーセント」
誤差はあるものの、傾向は明らかだった。
学長の顔が、苦渋に歪んだ。
「……認めざるを得ないようだな」
「ありがとうございます」
「だが——」
学長は、修平を見た。
「この技術を考案したのは、貴様か」
「はい」
「名は」
「シュウと申します」
「シュウ……聞かない名だ。どこの出身だ」
「遠い国の、小さな工房です」
学長の目が、細くなった。
「その『遠い国』とやらは、どこにある」
「——申し上げられません」
「なぜだ」
「私の出身地は、この国と国交がありません。知られると、面倒なことになる可能性があります」
嘘ではない。
異世界と国交があるはずがない。
学長は、しばらく修平を睨んでいた。
やがて、彼は鼻を鳴らした。
「まあいい。技術が本物であることは認めよう。だが——」
学長は、エリーゼに向き直った。
「この論文の著者は、工房長の娘である君だ。貴族の研究者として、この技術の権利は君が持つことになる」
「え——」
エリーゼが戸惑った。
「でも、この技術を考案したのはシュウさんで——」
「平民に学術的な権利を認めるわけにはいかない」
学長の声は、冷たかった。
「それが、この国の決まりだ」
修平は、何も言わなかった。
予想していたことだ。
貴族社会で、平民の技術が正当に評価されるはずがない。エリーゼの名前を借りて発表したのは、そもそもそのためだった。
「——わかりました」
エリーゼが、低い声で言った。
「この技術の権利は、私が持ちます。ただし——」
彼女は、修平を見た。
「この技術を、全ての職人が無償で使えるようにします。それが、私の条件です」
学長の眉が、ぴくりと動いた。
「——いいだろう」
「ありがとうございます」
エリーゼは深々と頭を下げた。
だが、彼女の目には、怒りの炎が燃えていた。
◇
帰り道、エリーゼは修平に謝った。
「すみません、シュウさん。あなたの功績を、私が横取りする形になってしまって」
「気にするな」
修平は、淡々と答えた。
「最初から、そうなることは予想していた」
「でも——」
「大事なのは、誰の名前で発表されるかじゃない。技術が広まることだ。それさえ達成できれば、俺は満足だ」
エリーゼは、黙った。
しばらく歩いて、彼女は言った。
「あなたは——本当に、名誉とか、地位とか、欲しくないのですか」
「欲しくないな」
「なぜ」
修平は、空を見上げた。
夕暮れの空が、紫から藍へと滲んでいく。
——前世で死んだときと、同じ空の色だ。
「俺は——見えないところで仕事をするのが好きなんだ」
「見えないところ?」
「ああ。壁の中の配線。天井裏の配管。誰も見ない場所で、確実に繋ぐ。それが俺の仕事だ」
「……変わっていますね」
「よく言われる」
修平は、小さく笑った。
「でも、今日のことで、一つわかったことがある」
「何ですか」
「この世界を変えるには、あなたのような人が必要だ」
「私?」
「ああ。貴族の立場で、現場を理解できる人。理論と実践を橋渡しできる人。俺一人では、貴族の壁を越えられない。でも、あなたがいれば——」
エリーゼの目が、真剣になった。
「——一緒に、変えましょう」
「ああ」
「私は、あなたの技術を広めます。学院の中から、変革を起こします。だから——」
「だから?」
「これからも、私に教えてください。もっと、もっと」
修平は頷いた。
「もちろんだ」
二人は、夕暮れの道を歩き続けた。
見えないところで、世界は少しずつ変わり始めていた。




