第23話 行動原理
です──です──……。
シャルロッテの宣誓が夜にこだまする。
生温い夜風が、二人の間を吹き抜けた。
沈黙が落ち、夏虫だけが空気を読まず鳴いている。
シャルロッテは胸を張って見せた。
その様相に、スワードはがっくりと項垂れる。そして渋面を手で覆い隠し、
「はああぁぁぁっ……」
ため息に落胆を滲ませた。
これまで聞いてきた中でも格段に大きく、長い嘆息だ。ふと見れば、心なしか、先ほどよりクマが色濃くなった気がする。
──なぜ?
とにかく、何か付言しなければ。そう思い、シャルロッテは口を開く。
「で、殿下! わたしは……ひぅっ!」
その瞬間、スワードの腕が腰へと回され、ぐっと引き寄せられた。
倒れるような形で彼の胸に抱き止められる。
見た目よりも堅牢なその胸板に、シャルロッテは息を呑んだ。
スワードは隙間なく抱き締めてくる。
甘く爽やかな彼の香り。それに脳裏が支配され、シャルロッテの動きが止まった。
「聞くんだ。シャルロッテ・シルト」
諭すような穏やかな声音が、鼓膜が撫でる。恐る恐る見上げると、スワードの顔がそこにあった。
いつになく真摯な光を宿す、青い瞳。それに魅入って口を閉ざすと、彼は愁眉を開き、穏やかに微笑んだ。
「その逞しい想像力は褒めてやろう。だが違うぞ、シャルロッテ。最初から最後までな」
「……え?」
そのとき、ゼーンズが飛び起きた。そのまま勢いよく近づいてくると、彼は土まみれの自分の顔を指差した。そして、
「あ、あのっ! 俺を覚えてませんか!?」
声を弾ませて、そう言った。
期待に満ちた双眸は、強く輝いている。
その純粋な笑顔に、シャルロッテは身を固くした。
ゼーンズは土まみれの顔を袖口で拭う。
「むかし、子供を助けてくれましたよね!? その時の子供が……俺なんです!!」
そして、得意満面で胸を張った。
シャルロッテは刮目した。
自分が人助けをした覚えなんて──あった。
怪力の噂話に拍車がかかった、あの一件。
むかし、シャルロッテは嵐で倒伏してきた大木を、真っ二つに割ったことがあった。
当時のシャルロッテは、こう思った。
ゴリラかな、と。
そしてその場から、逃げるように去ったのである。
『怪力令嬢が子供を救出したらしい』
後にそんな噂を耳にしたが、自分自身にもそれが真実か判らなかった。
今の今までは。
「お、俺っ、シャルロッテさまの近衛騎士になりたくて、毎日毎日、団長に頭を下げまくったんです! そしたら殿下が手合わせしてくれるって……イテッ!!」
マメだらけの幼い手は、スワードに容赦なく叩き落とされた。
その反動で、ゼーンズは地面に尻餅をつく。
スワードは小さく吐息し、シャルロッテの顎をついと持ち上げる。
「シャルロッテ。きみに対するわたしの行動原理は、いつも一つだ。何か分かるか?」
問いかける声は、低く掠れた。
青い瞳の奥には、まるで獲物を追い詰めるような鋭い光が宿っていた。
腰に回された手、顎に触れる指先。彼が触れる場所から、皮膚を焼け焦がすような熱が伝ってくる。
世界の音が遠く、自分の鼓動だけが耳の奥に響いた。
顔を固定されてスワードと顔を突き合わせたまま、シャルロッテは逡巡する。
「……王太子としての責務……でしょうか?」
戸惑いに震える唇で、そう答えた。
するとスワードはひどく傷ついたような、呆れ果てたような顔で、ゆっくりと首を振った。
「それは血の問題だろう? 生来のものであって、行動原理ではない」
瞳を伏せ、顎に添えていた手を下ろし、右手を掴んできた。そのまま流れるように、自らの胸へと強く押し当てる。
生々しい胸筋の弾力に、シャルロッテの肩がびくりと震えた。
触れたことのない、男の肉体。
燃え盛る体温は薄い布地を通し、手のひらの薄い皮膚を突き刺してきた。
押し殺すような声音が降ってくる。
「……行動原理は、これだ」
不規則に暴れる鼓動が、手のひらを打ちつける。
普段の泰然自若なスワードの姿からは、想像すら及ばない乱れようだった。
「わたしがこうなるのは……シャルロッテ、きみだけだ」
「……殿下? あのっ……」
重ねた手背の上から、指を一本ずつ割り込ませるように絡められる。
白銀の髪が、さらりと鼻頭に触れてくる。
せき立てるような脈動が、シャルロッテの全身を震わせた。
──答えが見つからない!
返事に窮して口を閉ざした、そのとき。
「あの〜、俺がいること忘れてません?」
地面で胡座をかいたゼーンズが、つんと唇を尖らせてそう言った。
瞬間、シャルロッテは弾けるようにスワードから離れた。
助かった。安堵のため息を漏らすと、スワードは行き場を失くした手を伸ばし、ゼーンズの頬をつねった。
「空気を読め」
「ふひはへん」
ゼーンズは、まるで叱られた犬のように項垂れる。しかしシャルロッテを見ると紅潮し、
「シャルロッテさまに相応しい馬車を用意してきます! ケツ……じゃなくて、お尻が痛くならない、いいやつを!」
高らかに宣言して、翻った。
小さくなっていく背中を眺めながら、スワードは目頭をおさえる。
その疲弊が滲む横顔を、シャルロッテは静かに打ち守った。
初めて目にする、スワードの動揺した姿。
その原因は、自分だ。
そう思い至った瞬間、胸の奥で何かが疼く。
ふと胸に手を当てると、普段よりはるかに激しい鼓動が、手のひらに伝わった。
まるで駆け回った後のように、呼吸は浅く、速度が増している。
──先程までのスワードと、同じように。
シャルロッテの熱視線に気がつくと、彼はそっと手を差し伸べてくる。
「帰ろう、シャルロッテ。汗が冷えたら、また風邪を引いてしまうぞ」
いつもの穏やかな微笑みだ。
シャルロッテはその手を取ろうとしたが、寸前で迷わせ、引っ込めた。
「……今後は、こういう触れ合いはしなくて大丈夫です」
「は?」
一瞬で、スワードの笑顔が消え失せた。
なまじ美しい容姿なだけに、感情のない顔は人形のようで、どんな険相よりも恐ろしい。
迫り上がる緊張を呑み下し、シャルロッテは小さく反抗する。
「だ、だって! 訓練場ではわたしを避けました!」
スワードは、地面に転がったシャルロッテに近寄った。
しかしまるで正気に戻ったように、咄嗟に手を引っ込め、苦々しい表情を浮かべた。
それだけ嫌だったのだろう。
込み上げる羞恥と悲しみに、シャルロッテは奥歯を食いしばる。
スワードは逡巡なく、シャルロッテの手を取った。
「たしかに避けたな。あんなに汗だくの手では触れたくなかった。……汚いだろう?」
いつもは強引な彼が、傷ついたような苦笑を浮かべた。その想定外の反応に、シャルロッテは息を詰める。そして、
「はい!? そんなわけありません! 殿下は世界で一番清潔です! 汗だって……とてもきらきらしていて、まるで宝石みたいでした!」
思いつくまま、勢い任せに言い放った。
スワードは目を丸くして聞いていた。だがシャルロッテの言葉が途切れると、吐息混じりに一笑する。
「そうか。それなら今後は、しっかりと握っておこう」
そう言って指の間を埋めるように、五指を絡めてきた。
密着した手肌は、湿り気を帯びていく。
スワードは拳に力を込める。
「もう二度と、わたしから逃げられないように」
青い炎が、瞳の中に燃え上がる。
そこに映るシャルロッテは、まるで捕えられた獲物のようだった。




