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第20話 無力な自分



 月の神ルーネの微笑が、ふと思い浮かんだ。

 清らかな水質、湖底まで見渡せる、息を飲むほどの透明度。以前と変わらぬ美しさが、ここにある。


 だが1つだけ、決定的に違った。水面だ。


 湖はいわば鏡のようで、満点の星空が地上に降りたようだった。

 けれど今は違う。シャルロッテの動揺を投じたような、細波を立てている。


(どこかに隠れなきゃ! でもっ……)


 湖だけの空地に、隠れ処はない。

 因循する間に茜の空へ、夜の帳がおりていく。


 ──パキッ! 乾いた音が、静寂を割った。

 弾けるように、シャルロッテは振り返る。瞬間、全身が立木のように固まった。


「やあ、自然に囲まれて《《する》》のも乙ですね」


 モーヴがシャルロッテに肉薄し、星空に陶然と酔いしれた。


「来、ないで……」


 言葉がつかえ、吐息となって霧散する。

 全力疾走したとは思えないくらい、シャルロッテの顔は青褪めていた。

 木立の響きが遠くなる。

 その時、シャルロッテの細腕が、深部感覚を覚えた。


 ──恐怖で、怪力化している!


 けれど、今は無意味だ。手元に壊せる物がない。怪力で威嚇し、身を守れたかもしれないのに。


 ──怪力なのに、無力だ。


 シャルロッテが怯懦(きょうだ)する姿に、モーヴは喜色を湛えた。指先をちぎるように齧り、手袋を外す。地面へ放られたそれが土煙を立てると、モーヴは蹴散らして、シャルロッテの前にそそり立った。

 濃紺の瞳が情欲で濡れている。

 

「さあ、わたしに身を委ねて──」


 冷たい頬に、湿潤な手が添えられる。

 その時、湖面が隆起した。そして鏡のように砕け散る。飛沫は星のように明滅し、シャルロッテとモーヴにそぼ降った。


「──シャルロッテ!!」


 鋭い声が、閑寂を切り裂いた。

 こちらへ疾走して来る人がいた。月光を弾く銀髪を振り乱し、一直線に向かって来る──スワードだ。

 スワードが、助けに来てくれた。

 彼は、その美しい顔に、かつてない鬼相を浮かべていた。




「殿下っ!? ど、どうして……」


 シャルロッテの小音が、一瞬で夜の森へと溶けた。疑問が脳裏をよぎる。


 ──本物の恋人は?


 けれど問えなくて。唇が小刻みに震える。

 「王太子殿下!?」迫り来るモーヴの手が、ぴたりと静止した。


 刹那、スワードは滑るような足捌きで、二人の間合いに入った。シャルロッテを背中に隠す。

 そして腕を振りかぶり、モーヴに鉄拳を食らわせた。拳が頬を抉り、全身を吹き飛ばす。

 乱れた銀髪から、汗が滴った。


「……た」


 スワードの微かな声がした。

 聞き取れなかったが、しかし横顔から伝わってくる。逆立つ眉、吊り上がる眦。

 いつも冷静な彼が、


(まさか、怒っていらっしゃるの?)


 それも、相当の怒りだ。全身から滲み出る怒気に、背筋が凍った。

 時が止まるような緊迫感だ。

 シャルロッテは固唾をのみ、スワードの背を打ち守る。彼は、


「わたしのシャルロッテに何をした」


 剣を抜き払い、そう言った。瞳に青い炎を燃やし、モーヴに剣を突きつける。

 

(今、なんて……?)


 シャルロッテは生唾を飲み込んだ。

 聞き間違い、だろうか。慮外の言葉に思考が追いつかない。


 


 モーヴは血痰を吐き出し、素早く身を起こした。先程まで紅潮していた顔は、すっかり色を失っている。彼は、まるで額を土に埋める勢いで、平伏した。


「お……お、恐れ入ります殿下……わたしは、ただ彼女と……せ、世間話を、少し……!」


 そう言って、モーヴは頭をもたげた。眦に溢れんばかりの涙が浮かべ、スワードを窺っている。

 「なるほど」スワードは器用に片眉を上げ、


「淑女の肌に触れなければならない話題か。実に興味深いな?」

 

 にべもなく、冷ややかに微笑んだ。

 

「あっ、あっ、あれは! シャルロッテ嬢の顔に汚れがついていたので、拭って差し上げたのです! 嘘ではありません!」


 モーヴはスワードの袖に泣き縋った。シャルロッテの存在など、もはや忘却の彼方だ。

 「そうか」スワードが剣を戻す。モーヴは安堵のため息を漏らした。その瞬間、


「ならばその汚れた手、わたしが切り落としてやろう!」


 剣を握り直すと、スワードは裾を掴むモーヴの手に振り下ろした。

 ヒュッ! 剣身が空気を裂き、銀光を放つ。


 ──だ、だめ!!


 シャルロッテはスワードに飛びついた。

 刃が止まる。

 夜の風が吹き抜けた。止まっていた時間が、流れ始めたようだった。






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