第19話 湖の波紋
感情の赴くままに、ここへ来た。
──ムーンティア湖。スワードと夜を過ごした、思い出の場所である。
シャルロッテは想いを巡らせた。
煌めく星々、夜の薫風。鏡のような湖面には流れ星が描かれた。情緒纏綿たる風景画のような、美しい夜。
その日、シャルロッテは月の神に願った。
か弱くなれるように。恋ができますようにと。
『ルーネに願わずとも、わたしといれば全て叶う』
(殿下は微笑んでいたわ。訓練のために、恋人らしい事を言ってくださったのよね。それなのに、わたしは……)
あれは、ただの訓練だった。
言葉も触れ合いも、か弱くなるための"恋人ごっこ"。そこに本物の気持ちなんてない。
──そう、分かっていたはずなのに。
意図も容易く、感情が動かされてしまった。
触れられた指先の熱は、今も確かに残っている。
シャルロッテは、強く拳を握った。
(……忘れなくちゃ)
彼には、本当の恋人がいる。
あの人の隣に立つのは、あんな少女なのだろう。剣を振るうたび、腕が震えても、それを庇ってもらえる人。
破壊する存在ではなく、庇護される存在。
──自分とは、違う。
空を仰いだ。青が茜に染まり始めている。
整備された遊歩道を歩けば、下山者とすれ違う。彼らの大半はカップルだ。皆、肩を寄せ、視線を絡め合い、二人きりの世界に浸っている。
(皆さんは《《本物の恋人》》なのね)
そんな事を、曖昧に思考する。そうして上の空で歩いていると、誰かと肩がぶつかった。
「あっ、申し訳ありま──」
「おや? シャルロッテ嬢ではありませんか」
──鼓膜を刺激する、酒焼けした低音。
瞬間、シャルロッテの心臓が止まった。
(ど、どうして彼がここに?)
指先が震え、耳元で脈音が鳴り響く。
シャルロッテは恐る恐る顔を上げ、《《彼》》と見合わせた。
夕日を纏う濃紺の髪と、同系色の瞳……。
唇が乾く。震える声で、かろうじて名を呼んだ。
「モーヴ公爵……さま」
──ミスト・モーヴ公爵。
怪力令嬢を手ひどく振った、シャルロッテの元婚約者だ。
「やあ、こんな所でお会いするとは奇遇ですね。お連れの方は?」
モーヴはわざとらしく首を傾げ、周囲を見回した。
ムーンティア湖は恋人たちの聖地だ。桃色の空気が漂っており、シャルロッテは肩身を狭くしていた。
(答えなんか知ってるくせに……)
「連れがいるか?」など、自分が振った婚約者に、あえてする質問ではない。相手を尊重し、訊くべきではない。
モーヴの舌が唇のあわいを湿らせる。そして泥濘んだ目が、シャルロッテの首筋や胸元、全身の肉線を舐め回した。
(やだっ……わたしったら!!)
シャルロッテは慌てて胸元を押さえた。
今日に限って、胸元が開いたドレスを着ている。ふくらみは、日焼けで朱に染まっていた。
着の身着のまま、逃げるように城を出てきたせいだ。あの時は、一刻も早く、その場を離れたかったから。スワードから離れたくて、無計画に、ここへ来てしまった。
侍女も連れず、帽子や羽織りは当然ない。
ふと触れてみれば、うなじは流汗淋漓の状態で。花の形の結い髪は、ほつれていた。
(我ながらひどい格好ね……)
シャルロッテは、ぎゅっとドレスを握った。
あまりの口惜しさで、耳裏がひりつく。
「これは失敬! おひとりさまでしたか」
奥歯で笑いを押し殺し、芝居がかった声で言った。慇懃無礼な振る舞いは、婚約時代から健在である。
元よりモーヴの印象は良くなかった。シャルロッテの外見が好みというだけで、婚約を申し込んできたから。
家族は婚約に猛反対した。きっとろくな男ではないと憤慨した弟が、鼻血を出したくらいである。
(でも、怪力体質も愛してくれるかもしれないでしょう?)
そう、希望を抱いたのも束の間。
"怪力令嬢"の逸話を知ると、彼の態度は一変した。婚約中、対面したのは数度だけ。
回想すれば、嘔気を覚える。
「わたしがあなたを不幸にしたのですね」
シャルロッテは、モーヴを睨め付けた。
自分は傷ついてない。
──傷ついてなんか、ない。
するとモーヴは、唇の端をぐにゃりと上げた。
「責任をとって──《《お慰め》》しましょうか?」
指先が、まろい頬を撫でた。
欲を孕む指使いに、シャルロッテの肌がぞわりと粟立つ。血の流速が上がり、呼吸が浅くなる。
──逃げなくちゃ!
警笛が頭の中で鳴り響く。
シャルロッテはドレスをたくし上げ、全速力で駆け出した。
木々の騒めきに混ざり、足音が追ってくる。
勢いよく林を抜け、シャルロッテはたたらを踏んだ。追い立てるような葉擦れの音が、湖畔に響き渡る。
──ムーンティア湖。
あの夜と同じ、壮麗な景色。
だがその湖面は、忙しなく風紋を刻んでいた。
嵐が、やって来る。




