表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/23

第19話 湖の波紋



 感情の赴くままに、ここへ来た。

 ──ムーンティア湖。スワードと夜を過ごした、思い出の場所である。


 シャルロッテは想いを巡らせた。

 煌めく星々、夜の薫風。鏡のような湖面には流れ星が描かれた。情緒纏綿たる風景画のような、美しい夜。

 その日、シャルロッテは月の神に願った。

 か弱くなれるように。恋ができますようにと。


『ルーネに願わずとも、わたしといれば全て叶う』


(殿下は微笑んでいたわ。訓練のために、恋人らしい事を言ってくださったのよね。それなのに、わたしは……)


 あれは、ただの訓練だった。

 言葉も触れ合いも、か弱くなるための"恋人ごっこ"。そこに本物の気持ちなんてない。


 ──そう、分かっていたはずなのに。

 意図も容易く、感情が動かされてしまった。

 触れられた指先の熱は、今も確かに残っている。

 シャルロッテは、強く拳を握った。


(……忘れなくちゃ)


 彼には、本当の恋人がいる。

 あの人の隣に立つのは、あんな少女なのだろう。剣を振るうたび、腕が震えても、それを庇ってもらえる人。

 破壊する存在ではなく、庇護される存在。


 ──自分とは、違う。


 空を仰いだ。青が茜に染まり始めている。

 整備された遊歩道を歩けば、下山者とすれ違う。彼らの大半はカップルだ。皆、肩を寄せ、視線を絡め合い、二人きりの世界に浸っている。


(皆さんは《《本物の恋人》》なのね)


 そんな事を、曖昧に思考する。そうして上の空で歩いていると、誰かと肩がぶつかった。


「あっ、申し訳ありま──」


「おや? シャルロッテ嬢ではありませんか」


 ──鼓膜を刺激する、酒焼けした低音。

 瞬間、シャルロッテの心臓が止まった。


(ど、どうして彼がここに?)


 指先が震え、耳元で脈音が鳴り響く。

 シャルロッテは恐る恐る顔を上げ、《《彼》》と見合わせた。

 夕日を纏う濃紺の髪と、同系色の瞳……。

 唇が乾く。震える声で、かろうじて名を呼んだ。


「モーヴ公爵……さま」


 ──ミスト・モーヴ公爵。

 怪力令嬢を手ひどく振った、シャルロッテの元婚約者だ。




「やあ、こんな所でお会いするとは奇遇ですね。お連れの方は?」


 モーヴはわざとらしく首を傾げ、周囲を見回した。

 ムーンティア湖は恋人たちの聖地だ。桃色の空気が漂っており、シャルロッテは肩身を狭くしていた。


(答えなんか知ってるくせに……)


 「連れがいるか?」など、自分が振った婚約者に、あえてする質問ではない。相手を尊重し、訊くべきではない。


 モーヴの舌が唇のあわいを湿らせる。そして泥濘んだ目が、シャルロッテの首筋や胸元、全身の肉線を舐め回した。

 

(やだっ……わたしったら!!)


 シャルロッテは慌てて胸元を押さえた。

 今日に限って、胸元が開いたドレスを着ている。ふくらみは、日焼けで朱に染まっていた。

 

 着の身着のまま、逃げるように城を出てきたせいだ。あの時は、一刻も早く、その場を離れたかったから。スワードから離れたくて、無計画に、ここへ来てしまった。


 侍女も連れず、帽子や羽織りは当然ない。

 ふと触れてみれば、うなじは流汗淋漓の状態で。花の形の結い髪は、ほつれていた。


(我ながらひどい格好ね……)


 シャルロッテは、ぎゅっとドレスを握った。

 あまりの口惜しさで、耳裏がひりつく。

 

「これは失敬! おひとりさまでしたか」


 奥歯で笑いを押し殺し、芝居がかった声で言った。慇懃無礼な振る舞いは、婚約時代から健在である。




 元よりモーヴの印象は良くなかった。シャルロッテの外見が好みというだけで、婚約を申し込んできたから。

 家族は婚約に猛反対した。きっとろくな男ではないと憤慨した弟が、鼻血を出したくらいである。


(でも、怪力体質も愛してくれるかもしれないでしょう?)


 そう、希望を抱いたのも束の間。

 "怪力令嬢"の逸話を知ると、彼の態度は一変した。婚約中、対面したのは数度だけ。

 回想すれば、嘔気を覚える。


「わたしがあなたを不幸にしたのですね」


 シャルロッテは、モーヴを睨め付けた。

 自分は傷ついてない。


 ──傷ついてなんか、ない。


 するとモーヴは、唇の端をぐにゃりと上げた。


「責任をとって──《《お慰め》》しましょうか?」


 指先が、まろい頬を撫でた。

 欲を孕む指使いに、シャルロッテの肌がぞわりと粟立つ。血の流速が上がり、呼吸が浅くなる。


 ──逃げなくちゃ!


 警笛が頭の中で鳴り響く。

 シャルロッテはドレスをたくし上げ、全速力で駆け出した。

 木々の騒めきに混ざり、足音が追ってくる。


 勢いよく林を抜け、シャルロッテはたたらを踏んだ。追い立てるような葉擦れの音が、湖畔に響き渡る。


 ──ムーンティア湖。


 あの夜と同じ、壮麗な景色。

 だがその湖面は、忙しなく風紋を刻んでいた。

 嵐が、やって来る。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ