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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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9/50

第九話 十の手前で灰は止まる

 昼と夕のあいだ、商店街の天窓から落ちる四角い光がゆっくり移動して、常夜紫煙堂のガラス戸を薄く照らした。

 川風は橋脚で砕け、店の前を撫でて路地の奥へ消える。

 湿度計は五十六%。

 黄銅の秤は皿を閉じ、針は零のまま静止。

 瓶の列は口を固く結び、指でそっと触れる と、硝子が同じ高さで小さく返事をする。

 音はすぐ木に吸い込まれ、店の空気は落ち着いた。


「……やっぱり、誰か覗きに来ています」


 天田芽衣子は鏡の前で短く息を吐いた。

 鏡面に白い曇りがふわっと咲き、数秒で消える。

 曇りの縁には、朝についた別の呼気の痕が薄く重なっていた。

 布越しの息の形。

 唇の輪郭ではない。

 高さも少し低い。


「鏡は息を覚える。覚えられるのが嫌いな相手は、鏡の前に長くいられない」


「“犯人”、ですかね」


「多分」


 夜村紫郎は、No.18〈試作31〉の小瓶の蓋をわずかに緩めた。

 蜂蜜の影のような甘い香りが、空気の上層に薄い膜を作る。

 今朝、月乃台分室の中庭に置いてきた“匂いの壁”と同じだ。

 置く量は少なくていい。

 香りの高さは店の温度に合わせる。


「北条は」


「分室の裏。軽バンの戻り待ち。『黒いワゴン』は今日は動き無し、だそうです」


「早じまいした倉庫は」


「第三と第四……課長が先に回っている可能性があります」


 鈴は鳴りそうで鳴らない。

 外の指がガラスの縁をなぞって、すぐ離れた。

 紫郎は陶器皿を三つ並べ、塩の粒を少しずつ落としていく。

 角が落ちた丸い粒。

 袋の口には細い皺。

 これは素手の癖でできる皺だ。

 手袋越しだとこうはならない。

 粒の大きさは三種。

 混ぜ方は雑に見えるが、雑に“見せたい”手つきにも見える。


「“灰止め”の擬装かもしれない」


「灰の広がりを抑える粉ですね」


「そう。塩は重い。灰は軽い。一緒に置くと足の運び方が出る。靴底の癖だ」


「歩き方で分かる、と」


「うん。粒の偏りが教えてくれる」


 天田は巻紙の束を手に取る。

 二列の微孔。

 片側だけ、十四孔ごとに小さな欠け。

 成栞紙工K-12、十四番の刃の欠け。

 体育館、倉庫――同じ刃がいくつもの現場を縫っている。


「数字が揃い過ぎます」


「数字を揃えるのが好きな手だ。合図に使う。九で止める。十の前で、別の手が入る」


「十は“別の場所”でやる」


「そう」


 鈴が短く鳴った。

 薄いベージュのコートの中年客が入る。

 指の節は太く、爪の縁に薄い茶色。

 手巻き派の指だ。

 肩の布バッグの口から、巻紙の箱が覗いている。


「こんばんは」


「いらっしゃいませ」


 客は箱を台に置いた。

 側面に鉛筆の細い文字――「K-12/31」。

 消しゴムで消そうとして、薄い跡が残っていた。


「それ、どこで貰いました」


「分室のイベントの片付けで。『吸いやすい』って」


「失礼、少し見ます」


 紫郎は一枚抜く。

 二列の微孔。

 片側だけ、同じ間隔でささくれ。

 指の腹で縁を撫で、乾きの音を聴く。

 全体は悪くないが、縁に“荒れ”の音。

 刃の欠けの癖だ。


「燃え方、速くなりませんでした」


「先が細く尖って、少ししなる感じでした」


「紙が葉に追いつき過ぎている。火が走る。微孔の並びが原因かもしれない」


「そういえば、灰が先で細くなって、少し曲がる感じでした」


「その形だと、紙の側が急いでる」


 天田は名刺の裏に小さく印をつけた。

 紫郎は瓶の口を閉じ、香りの膜を薄く保つ。


「それ、いつ、どこで」


「先週土曜、体育館裏の分室。片付けの後、会計の子が“試して”って」


「名前は」


「黄瀬さん、だったと思います」


「葉は何を巻いてた」


「ここで調合したブレンドです。甘さを抑えたバージニア主体でした」


「……近頃煙草の変わった匂いを嗅いだ事はないですか?」


「そうですね……少し前に、月見通りの屋台で。丁子の香りが強くて、まるでクレテック(丁子入り紙巻)の匂いのなら」


「演出だね」


「あと、塩を撒くと灰が広がらないって聞いて真似したら、床が白くなって怒られました」


「塩は台所に戻しましょう」


「はい……」


 客は照れ笑いをして、シャグの紙袋を受け取った。

 会計を済ませて鈴を鳴らし、去っていく。

 風が向きを変え、看板の紫が一瞬薄くなる。


「“貸出巻紙”、街へ出始めました」


「舞台の外に流れた」


「演出が生活に混ざるの、嫌な感じです」


「嫌な感じは、だいたい当たる」


 紫郎は鏡の角度を少し変え、通りを逆さに映す。

 黒い影が一度立ち、すぐ薄れた。

 形を持たない。

 今はそれでいい。


「北条から」


 天田の携帯が震える。

 耳に当てる と、彼女は短く頷いた。


「軽バン、空荷で戻り。荷は無し……課長が先に台帳を回収。『安全対策アドバイザー』の名刺束も押収」


「仕事は早いのに、いつも『待て』と言う」


「時間を動かす『待て』、ですね」


「そういう人はいる」


 鈴は鳴らずに揺れた。

 外の指がガラスに触れかけて、引いた。

 瓶の囁きが一段低くなり、すぐ戻る。

 扉は開かない。

 空気だけがわずかに沈む。


「……覗いて、帰りました」


「匂いの壁が効いた。鏡で“自分の息”を見たのかもしれない」


「覚えられるの、嫌いですから」


 湯を沸かし、二人分のコーヒーを落とす。

 湯気が静かに伸び、鏡の端がうっすら曇った。

 甘い香りと苦い香りが重なって、店の空気に層ができる。

 紫郎は秤の皿を上げ、零へ戻る速さを目で測った。

 急ぐ理由は無い。


「一つ、試していいですか」


「何を」


「“灰の輪郭採り”。ガーゼに油分をほんの少しつけて、触れて引くだけで輪郭を写すやり方です。父が喫煙室の清掃で使ってました」


「やってみよう」


 天田はガーゼを薄く広げ、端に油を馴染ませる。

 今朝、中庭で拾った九つの灰を、一つずつ布へ触れて引く。

 押さえない。

 輪郭だけが移る。

 先端の曲がり、左右の差、火の走り、紙の微孔の影。


「……九つの内、三つの先端が“右へ折れる”。

息の向きが右に寄っている」


「右利きの息だな。火の持ち方は左。腕時計を右にする癖と重なる」


「黄瀬、ですね。『九で止める』側です」


「十を打つのは、別の手」


「“別の場所”で、別の人」


 鈴が鳴った。

 島倉誠一が帽子を取り、店の空気を嗅いだ。


「……いい。蜂蜜の影、風に負けてない」


「島倉」


「西の高架下、今夜は“会”が無いのに譜面台が並んだまま。片付け日に人を入れたがるのは、舞台の“外”で動かす物がある時だ。体育館の桜の根元、砂利が足されてた。色が違う。混ぜ方が雑……『雑に見せる技術』は一番タチが悪い」


「見たんですね」


「見た。月見通りの屋台は『丁子の箱』をやめて、『舞台演出協力』の紙を出してた。演出が街へ出てる」


「嫌な感じは、だいたい当たる」


「No.18〈試作31〉、少し嗅がせて」


「嗅ぐだけだ」


 紫郎が瓶をわずかに開ける。

 島倉は息を整え、目を細めた。


「……向こうの“声”は雨に弱い。明日は乾く。乾く前に灰を拾え。拾えば道になる」


「拾う」


「拾えば、次の角まで見える」


 島倉は踵を返し、鈴を鳴らして出ていった。

 余韻は短い。

 風が一度強くなり、看板の紫が濃くなる。


「北条の追伸。名刺の名前は伏せ。『今は出せない』だそうです」


「伏せるのは、まだ言えないか、言うと壊れるか」


「どちらです」


「まだ言えない、に賭けたい」


 天田は短く笑い、すぐ真顔に戻った。

 迷いはあるが、足はぶれない。

 怖いと言える。

 それで強くなる。


「ところで紫郎さん。

今日、もう一つ気になった事があります」


「何を気にしている?」


「喫煙所の床。フリント粉(フェロセリウム=着火石の粉)が少し残ってました。磁石に弱く反応します。左側に多い」


「左手でライターを弾いた癖。『左利き』の動きに合う」


「はい。吸い殻は活性炭フィルター(口当たりを丸くするタイプ)が多め。紙は“バンド紙”(燃焼抑制の帯入り)。遅い火の実験に向いてます」


「一分で足りる仕掛けだな。匂いで鼻を疲れさせ、ゆっくり燃やして時間を作る。ナフサ(オイル燃料)と丁子油(クローブの精油)を薄く使えば、匂いは『甘い→辛い→薄いオイル』の順に動く」


「順番、覚えました。同じでした」


「それが指紋になる。順番は嘘をつかない」


「……分かりました。全部、記録して残します」


「頼む」


 簡単な書類袋を用意し、粉・灰・吸い殻・写真を整理する。

 秒単位のログは別の封筒へ。

 北条の無線が短く入る。


『報告。通行ログ、時刻14:02:11でスプリンクラー作動。入室14:01:38、退室14:02:05。差、二十七秒』


「時刻がアリバイになる。外で火を入れて離れた」


『了解。設備業者から生データもらう』


「助かる」


 紫郎はうなずき、カウンターの端に灰皿を置いた。

 灰皿は浅い。

 音をためない形だ。

 天田は胸の前のメモ帳を開いて、短く書く。

 ――『順番=甘→辛→油』『フリント粉=左に偏り』『紙=バンド紙』『巻紙=K-12/31』『息=右寄り』『黄瀬=九まで』『十=別』。

 結論は書かない。

 積むだけ。


 金具が小さく擦れた。

 鈴は鳴らない。

 扉は開かない。

 匂いの壁の前で、誰かが“やめた”。

 鏡は息を覚え、消えかけた曇りの縁を抱え込んでいる。

 通りの提灯がかすかに揺れ、遠くで自転車のブレーキが鳴った。


「来て、帰った」


「十ではない」


「九の後に、長い間」


「長い間の次は、長い一手だ」


 紫郎は灰皿を中央へ寄せる。

 空気が一瞬だけ縮んで、すぐ戻る。

 瓶の囁きは同じ高さ。

 湿度は五十六のまま。

 天田は姿勢を正し、メモ帳の角を胸に押し当てた。

 わずかに布がへこみ、形が変わる。

 その形は、決意だ。


「明け方、桜の根元へもう一度。砂利の音は夜の方が深い。深い音は届きやすい」


「行きます」


「分室の台帳は戻る。戻らなければ、紙が語る」


「紙は嘘を吐けません」


「紙も、煙も」


 紫郎は一呼吸置いて、言葉を置いた。


「煙は、嘘を吐かない」


 小さな声。

 けれど、木と瓶と秤と鏡は、その長さをよく知っている。

 言葉は店に沈み、紫の底で止まり、外の暗がりへ薄い波紋をひとつ投げた。

 音は無い。

 でも広がる。

 月乃台分室の桜の根元では、砂利が今夜も低く鳴り、九で止まった灰の輪郭が――十の手前で、静かに待っている。

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