第八話 分室の風は灰を並べる
明け方の街は、紫と鉛の間で息を潜めていた。
川沿いの風は橋脚で割れ、低い唸りだけが地面に残る。
古い体育館の裏手の路地は夜露で柔らかく、踏めば薄い陰が残った。
表の看板は「文化連絡協会 月乃台分室」。
塗料は重ね塗りで縁が盛り上がり、斜めの朝日で厚みが逆に浮いて見える。
搬入口のシャッターは半開き。
内外の温度差に押されて、弱い風が中へ吸い込まれる。
湿ったゴム床と古い木の匂いに、うっすら甘さが混じる。
松脂だ。
ここではかつて弦を擦ったのだろう。
けれど今は楽器の影はない。
「……ここですね」
天田芽衣子は帽子の庇を軽く押さえた。
制服の肩の露は縫い目に沿って並び、彼女の呼吸に合わせて細かく震える。
「ここだ」
夜村紫郎はまず音を聴く。
湿りを含んで膨らんだ蝶番の小さな軋み。
広い空間特有の、遅れて返る低音の尾。
音は大きくないが、広さを正直に語る。
「北条は」
「裏の駐車スペースで待機中。搬入車が来ればすぐ知らせます」
「風が“奥へ招いている”。入ろう」
天田がうなずき、シャッターの隙間から滑り込む。
紫郎も続いた。
広間は薄暗く、天井の吸音板は黄ばみ、床のラインテープは色褪せている。
折り畳み椅子と譜面台は端に整然と積まれ、壁際のコンセントから延長コードが一本、床を這って舞台袖の黒い幕の奥へ消えていた。
「……匂いが層になってる」
舞台袖へ近づき、吸気口の格子を覗く。
金属網に白と灰の粉が薄く張り付き、均一ではない。
ところどころ、短い線のように集まっている。
「灰だ。両切り。……ねじりは左。格子に触れた時の崩れ方が、倉庫と同じだ」
「塩は」
「隅だ」
二人で舞台の角へ回る。
板の端、幕の影に白い粉が薄く撒かれている。
乱暴に見えるが、粒は角が落ちた丸いものが多い。
袋から直にではなく、靴底で揉まれた後の塩。
粒の大きさも混在。
三種、あるいはそれ以上。
「体育館の“湿気止め”に見せかけてる……?」
「擬装か、あるいは“言い訳”づくり。滑り止めだと言い張れるように」
「誰か来ます」
天田の囁きと同時に、広間へ続く鉄扉が小さく揺れた。
足音はない。
風が僅かに変わっただけだ。
紫郎は舞台裏の出入口に視線を置き、そこからゆっくり外す。
正面よりも周縁の方が、見える時がある。
鏡と同じだ。
「……何も映らない」
「鏡が欲しいが、今日は持ち出していない。代わりに“紙”を見よう」
舞台袖の机にコピー用紙、ホチキス、小さなゴミ箱。
ゴミ箱の内側に、巻紙の細い帯が二枚、剥がれて張り付いている。
つまみ上げると縁の微孔が光を噛む。
二列。
片側だけ十四孔ごとに欠け。
「K-12の“十四番欠け”。……成栞紙工の刃だ」
「ここでも“同じロット”が使われてる」
「全てが、ここに繋がる」
天田の瞳に熱が走る。
すぐ声は落ち着けたが、呼吸が速くなる。
紫郎は空気を数えるように指を軽く上下させた。
「呼吸を落とせ。深く吸って、長く吐く」
「……はい」
広間の床にはチョークの薄い線が残る。
四角、十字、円。
音響の立ち位置か、合唱の目安だろう。
その円周に沿って小さな点が九つ、間を置いて並ぶ。
白ではなく灰色。
靴では踏まず、指で置いた痕。
九で止まっている。
「九までで切ったか。十は、ここではやらない」
「十が“合図”だから、でしょうか」
「十の前に別の手が入る。あるいは“別の場所”で十を打つ」
背後から柔らかな声。
「まあまあ、焦るな」
佐伯浩一が舞台下手の通路に立っている。
眠たげな目、緩いネクタイ。
だが足は白い粉の塊を自然に避ける。
視線を落とさずに。
「課長」
「見事な早起きだな。……おや?」
吸気口の格子を覗き、指を伸ばしかけて止める。
止め方が正確すぎる。
灰を崩さない角度を知っている手だ。
「滑り止めの粉が雑だ。管理人に言っておく」
「課長、使用履歴を確認したいです。昨夜、もしくは一昨日――」
「台帳は事務から回す。焦るな」
そう言って扉の方へ歩く。
扉の縁の粉は踏まない。
押し板の指紋の向きを目で撫で、何も触らない。
触らない事が、触れた記憶を匂わせる。
「北条には連絡したか」
「待機中です」
「よろしい。……紫郎君、民間人が朝っぱらから舞台裏をうろつくのは、褒められんぞ」
「煙は朝の方がよく語る」
「はは。相変わらずだ」
佐伯は笑い、唇の端で時間を測るように黙った。
次の瞬間、鉄扉の向こうで鍵が触れる小さな音。
通用口が短く三回、間を置いて二回叩かれる。
合図めいている。
佐伯は振り向かずに手で制し、天田へ目だけで合図。
「私が出よう」
「いえ、警察が」
「焦るな」
扉を少し開け、外へ身を滑らせる。
すぐ閉まり、空気は元の温度に戻る。
紫郎は机上のホチキス針の箱をずらし、下の影を見る。
四角いはずの影が一本だけ伸びている。
細い金属棒が挟まっていた。
取り出すと譜面台の脚のネジ。
頭に薄く赤い粉。
口紅の粒径と同じ。
「……“練習”を、ここでも」
「誰が」
「“九で止める人”だ」
天田が唇を結ぶ。
そこへ携帯が震える。
北条だ。
「搬入口に動き。黒いワゴンではなく白の軽バン。ステッカー無し。降りた影は一人。フード。……腕時計は右」
「ここへ来る」
「はい」
「舞台袖で待つ」
二人は幕の陰へ。
広いのに、息が触れそうな近さ。
足音は驚くほど小さい。
軽バンの影は扉を押し、滑るように入る。
床の線を踏まず、塩も踏まず、吸気口の格子へ一直線。
片手で網を軽く弾く。
灰が一粒落ちる。
それをつまみ、指で潰す。
赤くはない。
灰の白。
匂いは嗅がない。
嗅げば誰かの“声”が聴こえるのか、最初から聴く気がないのか。
影は机へ寄り、ゴミ箱を覗き、空を確かめる。
譜面台の脚に触れ、ネジが一本欠けているのに気づかないふりで通り過ぎる。
練習された無関心。
無関心は最高の擬装だ。
天田が一歩出た。
「警察です」
影は肩をすくめたように見え、すぐ手を下ろす。
逃げない。
逃げても無駄だと知っているのか、逃げる必要がないのか。
「お名前を」
「……黄瀬」
声は若い。
若さを隠そうとする低さが混ざる。
「所属は」
「文化連絡協会。月乃台分室、会計。鍵の確認に来ました」
「朝の四時半に」
「この時間しか空かない日もあるので」
「“滑り止めの粉”はあなたが」
「清掃が来ない時は、私が撒いた事もあります」
「塩を、ですか」
「粉です」
言い間違えない。
最初から“粉”としか見ていない声。
黄瀬はスポーツバッグを床に置き、メトロノームを出した。
黒い三角。
目盛りは「90」に合わせられている。
九十。
九。
「準備の……確認だけです」
「そのメトロノームは」
「備品です」
天田は一歩踏み込み、バッグの内側を覗く。
巻紙の箱はない。
鏡も布も塩もない。
だが底に薄い粉。
白でも赤でもなく、灰に近い。
灰はどこへでも紛れ込む。
「昨夜、ここへ誰か来ましたか」
「知りません」
「“弦月サービス”をご存じですか」
「運送会社?……請求書で見た事は」
「“梶谷”は」
「覚えがありません」
嘘の速度は一定にできる。
だが呼吸はすぐには揃わない。
黄瀬の息はメトロノームの九十に合わせようとして、わずかに遅れる。
遅れは、言葉だけが先に走っている印だ。
「鍵だけ、すみません」
黄瀬はバックヤードへ歩き、事務室の扉を開けた。
中は狭い。
金属机、ロッカー、書棚。
上段に伝票の箱。
側面に小さく「K-12/31」。
薄く消そうとした跡。
天田は目で紫郎に合図する。
「……“貸出巻紙”がある」
「“貸出”」
「イベント用の演出道具として。煙は舞台装置にされやすい」
紫郎は箱の埃に触れた。
埃は紙粉。
だが縁、手が触れる部分だけ灰が混ざる。
両切りの灰。
左のねじり。
十四の欠け。
全部ここで揃う。
事務室の奥の窓から中庭。
古い桜の株元に丸い砂利。
丸い粒は靴底に居座りやすい。
居座った粒は灰と揉まれて角が落ちる。
「桜の下、見ます」
「行こう」
中庭へ出ようとした時、廊下の角からまた寝ぼけた声。
「まあまあ、焦るな」
佐伯が立つ。
黄瀬は軽く会釈した。
安全確認に来る“警察の人”を知っている目。
眠たげな目。
粉を丁寧に避ける足。
佐伯は気づかないふりで事務室の時計を見上げる。
「朝の五時は、まだ夜だ。……天田、台帳は俺が預かる。北条には私から連絡する」
「しかし――」
「焦るな」
同じ言葉でも、今朝は少し硬い。
理由は言わない。
――――
中庭。
桜の幹の影が長い。
砂利は露で湿り、踏むと低く鳴る。
粒の間に灰。
白ばかりではない。
焦げの黒が混じる。
松脂の甘さがごく薄い。
「ここに“声”を置いた」
「誰かが」
「九つ」
砂利の円の縁に灰の短い点が九つ。
等間隔ではなく、少し疲れた歩幅。
十は無い。
九で止める。
十の前に別の手。
紫郎はしゃがみ、灰を一つずつ陶器皿へ移す。
皿は朝光を受けて薄く光り、音を飲む。
「今日の風なら、九はここで止まる。十を打つなら、あの角だ」
指差したのは外壁と倉庫の狭い隙間。
風はそこへ流れ、温度は低く、音は遅れる。
遅れる音は“間”をずらす。
ずれは狙いを外さないための準備になる。
「張り込みますか」
「張らない。……“置く”。No.18の“試作31”を」
「また“壁”」
「匂いの壁は風で形を変える。今日は味方だ」
天田は小さく笑う。
短いが芯は強い。
瓶を受け取り、桜の根元と外壁の隙間の“風の入口”にごく少量、香りを置く。
蜂蜜の影の匂いが、朝の湿りに薄く混ざる。
「紫郎さん」
「なんだ」
「……課長は、どうして粉を“自然に”避けられるのでしょう。偶然と言われればそうも見えます。でも、続く偶然は、たいてい偶然じゃない」
「癖はリズムになる。リズムは隠せない」
「分かっていても、言葉にしづらい」
「今は無理に言わなくていい。煙に言わせる」
「煙に」
「煙は嘘を吐かない」
紫郎の声は小さいが確かだ。
桜の葉の露が一つ落ち、砂利で小さな音。
九の後に置かれた短い静けさのように聞こえた。
――――
午前十時。
台帳の写しを取り、巻紙箱の写真を撮り、署へ戻る段取りを決めたところで北条から連絡が入った。
「白の軽バン、登録は“文化連絡協会”。運転は黄瀬本人。今、分室の外で待機。黒いワゴンは動き無し。……都心リンクの第三倉庫、早じまいです」
「早い」
「“午前中に”動かす算段だ」
天田はうなずき、紫郎を見る。
紫郎は瓶の口を軽く閉じ、匂いの壁を薄く保ったまま振り返る。
「分室と倉庫、二手に分かれれば、目も耳も薄くなる。――今は“ここ”を保つ」
「はい」
その時、広間の向こうでメトロノームが、誰も触れていないのにわずかに鳴った。
カチ、カチ。
針は九十。
音は薄いのに、空間がよく拾う。
二人は顔を見合わせ、すぐ視線を外した。
「……鳴ったからといって、始まるとは限らない」
「鳴らして、“見ている”だけかもしれない」
「鏡があれば、息が分かる」
「鏡は店だ」
「店に置いた。息は覚えている」
紫郎は時計を見た。
針が十一にかかる手前で深く息を整え、また進む。
湿度は上がり、空気は少し重くなった。
外の桜の影は短く、砂利の輪郭は鈍る。
「戻ろう」
「分室は」
「風で保つ」
体育館を出ると、通用口の影から佐伯。
眠たげな目で空を見上げ、ネクタイを整える。
粉は踏まない。
灰も踏まない。
足は何も言わない。
「まあまあ、焦るな。台帳は後で回す。……天田、無理はするな」
「はい」
「紫郎君、店で待て。何かあれば、向こうから来る」
佐伯は笑う。
薄く、短い。
けれど最後に、ほんのわずかな“溜め”があった。
九で止め、十の手前に置く、あの溜め。
――――
常夜紫煙堂に戻ると、瓶の唇はいつもより低く囁いた。
扉が開いて、すぐ閉じた時の空気の沈み方。
鏡はカウンターで、息の記憶を薄く抱いたまま眠る。
布の端は赤い粉をたっぷり含み、塩の小袋は角を失って丸く、巻紙は片列の欠けを黙って並べる。
「……扉、開きましたよね」
「開いて、閉じた。誰も入っていない」
「覗いた」
「鏡が覚えた」
天田は鏡の前で短く息を吐く。
曇りは細く伸び、縁で鋭く切れる。
その端に、別の曇りの“名残”が重なる。
誰かが先に吐いた息。
高さが違う。
口の開き方が違う。
縁の毛羽立ちは、布を介した呼気を語る。
「“彼ら”は自分の息を嫌う」
「覚えられるから」
「覚えられるのを、嫌う」
鈴がごく小さく揺れた。
鳴らない。
揺れるだけ。
外の風は柱で砕け、紫の看板の色が一度薄くなり、また戻る。
砂利の低い音が、遠くで二度。
「紫郎さん」
「なんだ」
「今日の“九”は見えた気がします」
「九は見えた。十は、ここじゃない」
「どこで」
「“別の場所”。――だが道は繋がっている」
紫郎は灰皿を中央に置く。
店の空気が一瞬すぼみ、また戻る。
瓶は同じ高さで囁き、秤は皿を閉じ、針は零。
天田は姿勢を正し、わずかに顎を引いた。
「……紫郎さん」
「うん」
「言ってください」
紫郎は短く息を整え、言葉を置く。
「煙は嘘を吐かない」
声は大きくない。
けれど木と瓶と秤と鏡が、その長さをよく知っている。
言葉は店に沈み、紫の底で止まり、外の暗がりへ薄い波紋をひとつだけ投げた。
波紋は音を持たないが、確かに広がる。
体育館の中庭の砂利は、きっと今も低い音で鳴り、九で止めた先、十に届く手前の静けさを長く保っている。
明日、風が変わる。
風が変われば、匂いの壁の形も変わる。
変わっても、灰は並ぶ。
並び方は嘘を吐かない。
分室の風は灰を並べ、並んだ灰は道を描く。
その先でまた誰かが、粉を踏まずに立つだろう。
けれど、どんなに丁寧でも、灰は見ている。




