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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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第七話 鏡は息を覚えている

 雨が夜の底へ沈んだ後の街は、濡れた紙みたいに柔らかい。


 通りのネオンは出しゃばらず、紫の看板だけが静かに息をしている。


 常夜紫煙堂のガラス戸を閉めると、鈴が短く二度鳴り、店の空気は外の湿りを押し返して、しん、とした。


 カウンターに銀色のケース。

 留め金は外れ、蓋は直角で止まっている。

 中身は楽器ではない。

 薄い鏡、白い木綿、塩の小袋が三つ、巻紙の束。

 巻紙には二列の微孔、片側だけ一定間隔でわずかな欠け。

 布には赤い粉――百円口紅の顔料――が帯のように薄く付いていた。


「……静かです」


 天田芽衣子は襟を整え、ケースの縁越しに鏡をのぞいた。


 息はまだ少し速いが、店の温度に合わせて落ち着いていく。


「静かな時ほど、物はよく喋る」


 夜村紫郎は照明を一段落とし、並ぶ瓶の口を指でなでた。

 硝子が同じ高さで乾いた囁きを返すまで行ったり来たり。

 音がそろうと秤の縁に触れ、黄銅がひとつだけ薄く鳴るのを確かめた。


「まずは息だ。鏡は息の癖を覚える」


「息……」


「表面に光を落とす。室温差で曇る。曇りの縁が、近さや高さ、口の開き方まで見せる」


「やってみます」


 天田は蓋を押さえ、布の角だけで鏡を持ち上げる。


 紫郎はさらに照明を落とし、小型ライトを斜めに置いた。

 鏡は闇を抱え、その上に細い光の帯。


「軽く、息を」


「はい」


 ふっと吐く。

 白い曇りが咲き、等高線みたいに伸び、端でほどける。

 紫郎は虫眼鏡を傾け、光を浅く滑らせた。


「縁が荒れていない。直前に強く擦った跡はない。……ここ、端に棒状の曇りが残っている。布の縁で口紅の粉を当てた時の呼気だ。唇そのものではない」


「鏡の前で“それらしく見せる口”を作る道具、ですね」


「そうだ。鏡は真似を見ていた」


「鏡は嘘を吐かない……いえ、『煙は嘘を吐かない』でした」


「どちらも、だ」


 紫郎はわずかに笑い、鏡を戻す。

 鏡に逆さの紫看板が映り、「常夜紫煙堂」の字が一瞬「常夜紫煙月」に見えた。

 外の雨で文字がにじみ、その揺れが鏡の中で別の形にほどける。


「塩を見る」


「三袋。ひとつは口が甘い。紙の縁がふやけています」


「手袋越しに何度も摘んだ癖だ。角が丸い。……粒の大きさも微妙に違う」


 紫郎は陶器皿に三袋を分けて落とし、木綿の端から水滴を一滴ずつ近づけた。

 ひとつはすぐ溶け、ひとつは輪郭を保ち、もうひとつは表面だけ曇って止まる。


「可溶性が三段階。ばらつきすぎだ。ひと袋で混ぜたのか、寄せ集めか」


「灰の広がりを均一に止めたいなら、こんな混ぜ方はしません」


「雑だ。だが“雑に見せる”技もある」


「目眩ましですね」


「『月の会』の屋台で見た赤粉も雑だった。けど、歩く間隔は一定だった」


「手は粗い、足は正確……」


「鼓動は乱れていない」


 天田はうなずき、巻紙の束を持ち上げた。

 帯に鉛筆の擦れ、消し残しの影。

 角度を変えると薄い線が浮く。


「見えます。K、横棒、短い縦……『K-12/31』」


「31か」


「前にも出ましたよね、31」


「うちのNo.18の試作31。……偶然か、誰かの遊びか」


「誰か」


「そう、『誰か』だ」


 雨がひと時強まる気配。

 ガラスの外で影が二つ交差して薄れる。

 タクシーのタイヤが水膜を裂き、音が店内で短く途切れた。


「北条さんから」


 携帯が震え、指の骨へ小さな波が走る。

 天田は耳に当て、すぐうなずいた。


「黒いワゴンは今夜動き無し。……ただ、事務所の灯りがいつもより早く消えたそうです」


「早く閉める所は、朝が早い。勝負は明け方だ」


「張り込みますか」


「今夜は張らない。ここに“置く”」


「何を」


「匂い。No.18の試作31。……同じ数字をぶら下げておけば、向こうは合わせに来る」


「餌ですね」


「声は声を呼ぶ」


 紫郎は棚から細い瓶を取り、ラベルの隅「18-31」に触れた。

 口をかすかに開けると、蜂蜜の影のような甘さが雨上がりの空気に薄く重なる。

 香りは店じゅうに広がらず、カウンターの上に静かに留まった。


「匂いの壁を作る。ケースの内側にも少し。……それから鏡に薄く息を」


「はい」


 天田はもう一度、短く浅く息を吐く。

 曇りは細く、縁は鋭い。

 紫郎は曇りがゆっくり消えるまで見届けた。


「いまの息の癖は、ここに残った」


「見張りは……」


「瓶がやる」


「瓶が?」


「硝子は温度で声色が変わる。扉が開いて風が入れば、唇の囁きがひと段下がる。……僕の耳は、瓶の気分にも付き合う」


 天田は小さく笑った。

 すぐあとで鈴が鳴りかけて、鳴らない。

 外で誰かが腕だけ伸ばし、ガラスに触れず引いた。


「今、誰か」


「来て、やめた」


「覗いた?」


「鏡でわかる」


 紫郎はカウンターをずらし、鏡の角度を通りへ。

 ガラス戸の外は逆さ、紫看板と黒い影が重なる。

 影は形を持たないが、確かに“見ている”。

 乾いた目が皮膚を撫でる感覚が、鏡から背へ移る。


「紫郎さん」


「うん」


「怖いです」


「怖いと言えるのは強い」


「強い、ですか」


「怖さを隠す方が嘘だ。煙は嘘を嫌う」


「はい」


 言葉が落ち着いた頃、鈴が短く鳴った。

 入ってきたのは北条隆司。

 肩は濡れているが、靴は泥を拾っていない。

 彼は鏡を一度見て、目に七割くらいの安心をのせた。


「失礼します。動きは」


「匂いを置いた。今夜は“来るかどうか”じゃない。“来られる状態か”を確かめる」


「比喩が多いですね」


「煙は比喩だらけだ。……北条、塩は踏むな」


「了解」


 北条は歩幅を変え、白い塊を正確に避けた。

 自然で、注意深いが、過剰ではない。

 紫郎は佐伯の歩みを思い出す。

 あれは“過剰”。

 偶然に見せるには丁寧すぎた。


「佐伯さんは、何かやってるのか?武術とか」


「いえ、そんな話は聞いた事ありません」


 北条は短くうなずいた。


「……で、巻紙は」


「片側だけ欠け。十四孔ごとに欠けが出る。打ち抜き刃の歯が一つ欠けてる可能性」


「製造源に当たるのは、今じゃない」


「今じゃない」


 三人の声の調子が揃う。

 揃いは落ち着きを作り、来客を受ける場所の形を整える。


「署に戻ります。何かあればすぐ」


「ああ」


 北条が出ると、店はまた静かに戻る。

 瓶の囁きがひと段落ち、すぐ元に。

 外の風は川から弱く吹き、紫の看板を撫でて通過した。


「コーヒー、淹れます」


「貰おう」


 天田は小さなドリッパーで湯を細く落とす。

 湯気は控えめ、香りは煙草の影に寄り添う。

 二つの湯気が絡むところで鏡の面が薄く曇り、誰もいない方角へ伸びて、ふっと切れた。


「今の、何です」


「風じゃない。温度差。扉が“閉まった”時の差だ」


「開いたのではなく、閉めた?」


「開けずに、閉めた。覗いて、辞めた。……匂いの壁にぶつかったか、自分の息の形を鏡で見たか」


「自分の息……」


「鏡は息を覚える。覚えられるのを嫌う奴は、鏡を嫌う」


「『犯人』は、覚えられるのを嫌う」


「おそらく」


 コーヒーを口へ。

 苦味は浅く、後味だけが長い。

 そこに蜂蜜の影が薄く乗って、店の空気はいっそう静かになった。


「数字の話。……31は向こうにも刺さるはずです」


「数字で段取りを合わせる連中なら、なおさらだ」


「『九』で止める癖があります。『十』は何かの合図だから」


「九の先で、別の手が入る」


「はい」


 やり取りが落ち着くと、天田はメモ帳を閉じて胸に軽く当てた。

 紙の角が布を押し、形が少し変わる。

 決意の形に似ている。

 紫郎は瓶の口をもう一度だけ開け、匂いの壁を薄く補強した。


 鈴は鳴らずに震えた。

 金具がかすかに擦れる。

 扉の縁に見えない指が触れて、すぐ離れた気配。

 鏡は何も映さない。

 映さないのが、今は正しい。


「帰りますか」


「もう少し」


「もう少し」


 天田は笑って、すぐ真っ直ぐに外を見た。

 暗がりは動かない。

 動かないこともまた、合図になる。


「紫郎さん」


「なんだ」


「怖いです。でも、ここで怖いと言えるのが、今は嬉しいです」


「それでいい」


「はい」


 時計の針がひとつ進む。

 湿度計は五十六、秤は皿を閉じ、針は零。

 瓶の口は同じ高さで囁き、鏡は息の形を薄く抱いたまま眠る。

 塩は皿の上で角を失い、巻紙は片側の欠けを黙って並べた。


「明け方、工房の路地を撫でる。砂利は夜のうちに踏み跡が深くなる。跡が深ければ、声は低くなる。低い声は届きやすい」


「証拠が残りやすいんですね……分かりました」


「明け方まで、ここを保つ」


「はい」


 紫郎は灰皿を中央に置く。

 店の空気が一瞬すぼみ、また戻る。

 紫の看板は外でわずかに濃く、雨音はほとんど消えた。


「煙は嘘を吐かない」


 その言葉は大きくない。

 木と瓶と秤と鏡は、その長さをよく知っている。

 言葉は店に沈み、紫の底で止まり、外の暗がりへ薄い波紋をひとつだけ投げた。

 波紋は音を持たないが、確かに広がる。

 鏡はその波紋を、息の形といっしょに覚えた。

 覚えたものは、朝には必ず線になる。


 夜はまだ長い。

 九で止める癖の向こう、十の手前に誰かが立つ。

 鈴は鳴らず、扉は開かず、匂いの壁は薄いのに強く、強いのに薄い。

 静けさの底で、砂利の低い音がひとり分だけ遠くで二度鳴った。

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