第六話 路地の譜面は雨で読める
夜の雨は明け方に温度を落とし、街の輪郭をいったん溶かしてから、また薄く固めた。
川沿いの風は橋脚の角で砕け、低い唸りだけが地面に残る。
丸い砂利はその唸りを腹に溜め、踏まれた時だけ低く鳴った。
楽器工房の跡地はシャッターの横腹を濡らし、錆の筋に沿って水がゆっくり垂れる。
表札の文字は半分剥げ、残った線だけが音符の尾のように見えた。
朝一番、天田芽衣子はそこに立っていた。
制服の肩に残る露が、呼吸に合わせてわずかに震える。
路地の入口からは、まだ人の匂いがしない。
「紫郎さん」
振り向いた先で、夜村紫郎が傘を閉じた。
常夜紫煙堂から持ってきた薄い陶器皿、ピンセット、拡大鏡。
瓶は一本、No.18の試作三一。
瓶の口をほんの少し緩めると、蜂蜜みたいな乾いた甘さが雨の匂いの上に短く乗り、そのまま路地へ溶けた。
「雨が下地を出した。今が読み時だ」
「……下地?」
「砂利の並びと灰の落ち方。足跡が線になる。乾く前なら、雨が線を浮かせてくれる」
紫郎はシャッター下の隙間に膝をつき、砂利の谷を爪でなぞった。
谷は浅いが、規則がある。
右、右、左、右。
歩幅は一定。
同じ位置を踏み直した跡が三つ。
踏み直しの力で谷の縁が少し潰れている。
潰れた縁に白い微粉――塩――が薄く貼りつく。
角は丸く、昨夜のうちに何度か揉まれている。
「二人分ですか?」
「いや。一人が往復した。行きは右寄り、帰りは左寄り。途中で荷を持ち替えた」
「荷物?」
「銀のケースか、塩袋だ。重さで肩が変わる」
紫郎は陶器皿を地面に置き、ピンセットで谷に沈んだ灰を一つ摘み上げた。
両切り。
芯の撚りは左。
巻紙の通気孔は二列で、片側だけ周期的な欠け。
倉庫のサンプルと一致。
松脂の微香。
雨で薄まっても消えない。
「同じ手口だ。ここで“声”を整え、倉庫で“練習”し、アパートで“本番”をした」
「本番……」
「足取りが揃いすぎている」
シャッター脇、コンクリートの角に白い線が二本、十字に擦れていた。
チョーク粉。
線は浅く、踵で踏まれて切れている。
交点のそばに小さな丸い点が九つ、斜めに並ぶ――灰だ。
九つで止まっている。
十に届く前に誰かが来たか、止められたか。
「九で止まってます」
「十に届く前に事件が動いたんだろう」
「十は、あの部屋で満たした。……ここは“予行”だ」
天田は頷き、シャッターの縁を指で撫でた。
金属の薄皮が指先で鳴り、冷えた音が雨に混ざって散る。
音は直線ではなく、ほんのわずか遅れる。
遅れは習慣の形だ。
「紫郎さん。昨夜、北条さんから“弦月サービス”の所在地が来ました。第四倉庫の裏に仮設コンテナ。朝のうちなら人が少ない。――行きますか」
「行く」
紫郎は瓶の口を閉じ、皿を布で覆った。
布は木綿。
水を吸い、半分だけ灰に渡し、半分は布に残す。
残った水は、あとで“匂いの記録”になる。
―――
第四倉庫の敷地は、朝の段取りの音で忙しい。
フォークリフトが短く鳴き、パレットの段ボールを押しては引き、同じ直線を往復する。
仮設コンテナは背の低い金属箱。
扉に「弦月サービス」と白いステンシル。
字の端は滲み、刷りの粗さが目に立つ。
「失礼します。警察です」
天田が声を掛けると、内側でチェーンが鳴った。
扉が少し開き、作業着の男が顔を出す。
目は眠っていない。
だが、眠り方を忘れた目だ。
「何の用だ」
「昨夜、この近辺で不審車両が――」
「知らないね」
扉を閉めようとする腕の力は、必要以上に強い。
紫郎は一歩進み、隙間から空気を嗅いだ。
乾いた紙、印刷インク、古い木箱、そして――丁子。
薄い。
箱の中に古い殻だけが残っている匂い。
新しく挽いた香りではない。
「屋台の丁子の箱があるな」
「は?」
「匂いが殻だ。最近開けた小箱じゃない。……飾りだ」
男の表情が、わずかに硬くなる。
天田は手帳を開き、淡々と続けた。
「“弦月サービス”は都心リンク運送の下請け。昨夜の黒いワゴンは、こちらの管理車両と記録があります。協力をお願いします」
「管理車両は複数ある」
「赤と白のステッカー。荷台に銀のケース」
男の視線が一瞬泳いだ。
泳ぎは浅い。
ミスを隠す泳ぎではなく、言葉の順を探す泳ぎだ。
「……ケースは、楽器の貸出で」
「貸出?」
「搬入を頼まれただけだ」
「誰に」
「梶谷って奴の“所”から」
「また梶谷か……」
村垣が言ったのと同じ。
梶谷とは一体何者なのか……。
天田は名刺を受け取り、最小限の確認だけして引いた。
無理にこじ開けると、次の音が濁る。
濁れば、灰の声が消える。
外に出ると、風が少し強くなった。
パレットのビニールが、ばさ、と鳴り、金属の柱が低く唸る。
紫郎は風下に身を寄せ、砂埃に混ざる匂いを吸った。
紙、塩、古い油。
――それと、蜂蜜のような甘さ。
No.18の基調に似ているが、焦げが深い。
熱を入れ過ぎたシャグの匂い。
「天田。ここで誰かが“似せた”」
「常夜紫煙堂の配合に?」
「似せたが、火を入れ過ぎた。焦げは甘さで隠れない」
「誰です」
「分からん、だが、梶谷の名は怪しむに値する」
紫郎は言葉を短く置き、空を見る。
雲の薄い層が風に裂け、少しだけ光が落ちる。
その瞬間、コンテナの影の端で小さな光が跳ねた。
鏡の欠片。
ピンで留めたように地面に沈み、片面に薄い指紋。
線は細い。
手袋越しではない。
「鏡の破片」
「……発声練習用の」
「鏡は嘘を吐かない」
紫郎は破片を布に包む。
布は水も記憶も吸う。
吸ったものは、あとで声になる。
○○○○○
昼前、常夜紫煙堂のドアベルが短く鳴った。
島倉誠一が帽子を脱ぎ、店の空気を鼻でかいだ。
丁子ではない、蜂蜜の影の匂いで、眉がわずかに上がる。
「……いい匂いだ。昨夜は外で、良くない匂いを嗅いだよ」
「島倉」
「西の高架下。楽器ケースの集まりがあった。“月の会”って紙を持ってた。月の“月”。弦の“弦”じゃない」
「“月の会”」
「古い合唱サークルが、会場を失って流れてるって噂だ。黒いワゴンが出入りしてた」
天田がメモを取り、端を折る。
折り目は硬い。
硬さが次の一歩の角度を決める。
「情報、ありがとうございます」
「代わりに……No.18、少し嗅がせてくれ」
「嗅ぐだけですよ」
「それでいい」
紫郎が瓶の口を短く開け、香りを空気へ渡す。
島倉は目を閉じ、薄く笑い、すぐ開けた。
「いい。……ただ、あちらの“匂い”は外で長く持たない。雨に弱い」
「雨に?」
「水気で調子が崩れる。崩れた方が、追いやすい」
島倉が帰ると、店はいつもの静けさを取り戻す。
湿度計は五十六%。
秤は零。
瓶の唇は朝より温かい。
紫郎は皿の前に座り、鏡の欠片を取り出す。
角に赤い粉が一つ。
口紅の顔料。
粒は角張り、油分が少ない。
百円商品の赤だ。
「工房――倉庫――“月の会”。……線は一つに繋がる」
紫郎は椅子から立ち、ガラス戸の外を見る。
通りの向こうで黒いフードの影が一瞬立ち、すぐ消えた。
影は風に似る。
風は、時々、人の形をする。
―――
夕暮れ前、西の高架下は準備の音で騒がしい。
折り畳みの椅子、簡易譜面台、古いマイクスタンド。
提灯の赤が少しずつ灯り、川風は梁で砕けて低く唸る。
紙に「月の会」と手書きの札が仮の受付に置かれ、受付の男はフードの縁を何度も触る。
触る度、粉が指の腹に移る。
粉は赤。
顔料の粒径は粗い。
百円の赤だ。
「一般の参加者ですね」
天田が囁く。
紫郎は小さく頷く。
「見張ろう」
「はい」
二人は影に立ち、場の動きを読む。
足音、椅子の脚が地面を擦る音、人の声。
まだ揃っていない。
まだ“本番”は始まらない。
やがて、黒いワゴンが一台、梁の柱の影に滑り込む。
後部窓に赤と白のステッカー。
荷台に銀のケース。
運転席から降りた人物はフード、腕時計は右。
歩幅は一定。
灰皿は見ない。
足元の白い粉――塩――を踏まない角度で歩く。
「来ました」
「追うな。様子を聴け」
フードの人物は受付に短く声を掛け、譜面台の奥へ消えた。
その背を追うように、気の抜けた声が風に混ざる。
「まあまあ、焦るな」
振り返ると、佐伯浩一が立っていた。
提灯の赤が横顔に薄い影を落とし、目は眠たげだが、足元だけが鮮明だ。
白い塩の小さな塊を、視線を落とさず正確に避ける。
「見物ですか、課長」
「取り締まりだ。……君らはこの辺で。あとは私がやる」
「課長、ひとつだけ」
天田が一歩出る。
声は丁寧だが芯がある。
「“月の会”と“弦月サービス”。どちも“月”です。偶然ですか」
「それを言うなら第四倉庫も含まれる、四という数字は月の四相(新月・上弦・満月・下弦)を連想させる」
「さあ。月の付く名は多い。月見、月光、月島……」
佐伯は肩をすくめて笑う。
その間に、フードの人物が銀のケースを譜面台の脇へ置く。
金具が短く鳴る。
開く音はしない。
開かないまま、吸い殻が一つ落ちた。
両切り。
灰皿は使われない。
場の調子が固まっていく。
「天田。……戻れ」
佐伯の声は湯気のように薄い。
だが、その奥に余計な音がひとつ混じる。
金属が布を擦る微かな音。
スツールの脚が地面で鳴らす音の短い欠片。
紫郎は天田の袖を引き、影へ下がった。
譜面台の前で、人々の話し声が一度止まる。
次の瞬間、黒いフードの人物が二本目の吸い殻を落とした。
灰は短く、火は速い。
足元の塩が薄く撒かれて灰の広がりを止める。
九つ目が落ちた時、風が変わった。
梁から雨粒が二つ落ち、提灯の赤が一瞬濁る。
濁った赤の中で、三本目の吸い殻が落ちた。
そして、銀のケースが持ち上がり、影の中へ滑り込む。
「今だ」
紫郎の声は小さく、しかし確かだ。
天田が動き、北条が横から挟み、ケースの取っ手を押さえる。
フードの人物は肩を揺らして驚き、すぐ肩を落として手を離した。
ケースは思ったより軽い。
中身は空洞に近い。
開けると、入っていたのは楽器ではなく、鏡と布と塩の小袋。
そして巻紙。
二列の通気孔、そのうち片側だけ周期的な欠け。
「おいおい」
近頃よく聞く声が横で笑う。
笑いの奥で、何かが小さく外れた音。
佐伯の靴先が、塩の白い塊を視線を下ろさず避けた。
「課長」
天田が呼ぶ。
佐伯は眠たげな目をほんの少し細め、「まあまあ、焦るな」とだけ言った。
その時、風が高架で砕け、低い唸りが地面に落ちる。
遠くの道路から黒いワゴンの音が近づく。
赤と白のステッカー。
窓の奥で、誰かの影が動いた。
「紫郎さん」
「うん」
「どうしますか」
「声を聴く。流れを乱すな。――天田、北条とケースを押さえて」
「了解」
紫郎は一歩、前へ出た。
提灯の赤が風で揺れ、地面の塩が粉のまま光る。
鏡はケースの中で沈黙し、布は赤い粉を抱き、巻紙は通気孔で雨を拒む。
「煙は嘘を吐かない」
言葉は夜の湿りに溶け、しかし消えずに残った。
黒いワゴンの音は近づき続け、場はまだ壊れていない。
十の声の中のひとつが、いま、ようやく輪郭を持ち始める。
その輪郭は、あの路地の線の上で、雨にうっすらと読める形になっていた。




