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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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第五十話(最終話) 煙は嘘を吐かない

 午前の光が天窓で四角に切れて、常夜紫煙堂のガラス戸をゆっくり横切った。

 湿度計は五十六%。

 瓶の列は口を結び、黄銅の秤は皿を閉じ、針は零。

 カウンターの黒いボードには、太い字で三つだけ書いた。


《秒》《粉》《印》。


「おはようございます、紫郎さん」


「おはよう、天田」


 天田芽衣子は制服。

 胸のペンは二本、きっちり揃っている。

 今日は、終わらせる日だ。


「会議室に全員そろいます。村垣は確保済み。梶谷は“立会い”で来ます」


「課長も来る」


「はい」


 紫郎は小瓶の蓋をほんの少しだけ緩め、綿棒で空気を撫でた。

 No.18“試作31”。

 蜂蜜の影みたいな甘さが、ごく薄く店の真ん中に残る。

 誰の目にも見えないが、鼻は覚える。


「行こう。言うのは、事実だけ」


ーーー


 白い会議室。

 長机。

 前方にスクリーン。

 協会の担当、代理店の青柳、警備の責任者、北条。

 村垣は別室で待機。

 梶谷は淡い笑み。

 最後に、眠たげな目の男が入ってきた。

 佐伯浩一。

 ネクタイは緩い。

 歩く足は、粉を踏まない。


「お忙しい所、ありがとうございます」


「まあまあ、焦るな。簡単に済ませよう」


 その言い回しに、天田の肩がわずかに動く。

 紫郎は正面に立ち、スクリーンを指した。


「結論から。“木工の夜”――港の外で動いた箱の線。“灰の部屋”――十本の吸い殻で偽装した線。どちらも、現場の“手”と、内側の“指示”で動いた。証拠は三つ。“秒”“粉”“印”。順に置きます」


 スライドが切り替わる。

 時刻の列が並ぶ。


「“秒”。港Bの内線転送“20:14:16”。扉センサー“20:14:21”。白い軽バン発進“20:14:40”。協会第3倉庫の扉“20:32:08”。距離と合致。“灰の部屋”前後の連絡は協会回線“13:41:22”。件名は『K-12/31/焦らず/廃棄札』。内線→扉→発進→現場の偽装――この順番は、内側の人間がいないと作れない」


 次のスライド。

 床の接写。

 黒い細かな粒が、片側に寄っている。


「“粉”。フェロセリウム(ライターの着火石)の粉。磁石にわずかに寄る。Zippoはウィック(綿芯)とフタの構造でナフサ(軽質石油留分)を燃やす。ホイールでフェロセリウムを削るから金属粉が残る。一方、圧電式の使い捨ては水晶の火花で点くので金属粉は出にくい。港・倉庫ではこの粉が“左前”に繰り返し落ちた。左利きの“現場の手”――南条で説明出来る」


 さらに、取手裏の写真。

 二センチの位置に淡い光。


「“印”。取手裏“二センチ”にUVインク(ブラックライトで光る透明色)で薄い目印を入れた。『廃棄』と『返却』――札は違っても箱は同じ。どちらも“同じ夜”に触られていた。札と日付の運用を知る“内側”がいる」


 スライドがもう一度切り替わる。

 吸い殻の断面写真。


「補足で“紙”の話。吸い殻には活性炭フィルターの粒が見える。匂いの一部を吸着して口当たりを丸めるが、匂いの“順番”までは消えない。巻紙の薄いリングはLIP(低出火性)。置き忘れても燃え広がりにくい。短時間で離れる現場の癖と噛み合う。“灰の部屋”の十本は銘柄がバラバラでも、落下の高さ・投げる弧・左ねじりの両切りがそろって、一人分の動き。村垣曜司が“女に見えるように”“百円の口紅で”“塩で広げ止め”を指示通りやった――供述と合致」


 紫郎は視線をゆっくり全員に回し、短く言った。


「名前を言う」


 スクリーンに二つ、順に出る。


『村垣 曜司(偽装作業の実行)』。

『梶谷 宗吾(指示・段取りの媒介)』。


 ざわめきが走り、薄まっていく。

 紫郎は続けた。


「そして、立場を使い「時刻ログを操作・許可し、犯人が動ける秒を作る」役割をした人物……つまり、内部権限を使って犯行のタイミングを可能にした“秒”を渡した人間を言う」


 スクリーンに四文字。


『佐伯 浩一』。


 空気が固まる。

 佐伯は笑う。

 肩の力の抜けた、いつもどおりの笑い。


「夜村君。俺が“黒幕”だと言うのか。君の話は面白い。だが、推理だ」


「推理ではない。“秒”だ」


 北条が封筒から紙を出す。

 ゲート室端末の利用者ID(ゲスト権限)ログ。

 該当時刻の操作は県警協力者ID――一名。

 佐伯。


「端末で内線転送のボタンを押したのは、あなたです」


「俺は挨拶に回っただけだ。広報の件でな」


「その五分で“内線”が動き、“扉”が動き、“車”が動いた。“灰の部屋”のメールは協会回線から。発信直後に現場が動き、十分で十本が撒かれた。――“秒”が揃っている」


 名前を出されても、佐伯の顔色は変わらない。

 笑みは眠たげなまま、ただ目の奥だけが冷たく光っていた。


「夜村君。秒だの粉だの印だの……随分と精密だな」


 机に肘をつき、肩を揺らす。


「だがそんなもの、現場の偶然でいくらでも説明がつく。時計はずれる。粉は風で流れる。印は誰の指にも触れる。……君らは、世界を綺麗に切り揃えすぎるんだ」


 天田が反論しかけるが、佐伯は手を上げて制す。


「現場はもっと鈍い。人は秒単位で動かない。スポンサーは気まぐれに金を出す。協会は責任を押しつけ合う。警備は予算がない。警察は書類に時間を食う。……誰も回さなきゃ、全部止まるんだよ」


 声は落ち着いている。だが言葉の端に、わずかな苛立ちが滲む。


「俺は調整しただけだ。メールを一本、転送しただけ。合鍵を一度、動かしただけ。……手を下したのは現場の連中だ。俺は紙を一枚ずらしただけだ」


 紫郎は黙って聞く。

 沈黙に耐えられず、佐伯はさらに言葉を重ねる。


「必要悪って奴だ。君らは“正義”を信じるんだろうが、正義は遅い。遅い正義じゃ、街は守れない。汚れ役は誰かがやらなきゃならない。俺はその役を引き受けただけだ」


 北条が冷たく言う。


「汚れ役を自称するなら、潔く認めろ。佐伯浩一。お前が“秒”を渡した」


 佐伯の笑みが、わずかに歪む。


「……俺が黙れば、何も繋がらない、君らの推理は煙みたいなものだ。風が吹けば消える」


 言葉とは裏腹に、指先は膝の上で小さく動いていた。落ち着いて見せながらも、逃げ道を探している。


「夜村君、考えろよ。君の嗅ぐ匂いも、見る秒も……全部は人間の行動を後付けで並べただけだ。俺が一言“違う”と言えば、紙の上では崩れる。裁判所に並ぶのは匂いじゃない、書類だ」


 天田が声を張る。


「でもその書類を“書き換えた”のはあなたです!」


 佐伯は笑う。

 今度は苛立ちではなく、薄い優越の笑みだ。


「書類は誰でも書き換える。消しゴムで消し、溝を残し、インクを重ねる。俺がやらなくても、別の誰かがやる。……俺は少し器用だっただけさ」


 北条が手錠を出すと、佐伯は椅子に背を預け、ため息をつく。


「若いの。お前達の正義は長持ちしない。俺が消えても、また別の誰かが同じ“秒”を回す」


 その目は底のない井戸のように冷たく、感情の影はなかった。


「煙は嘘は吐かない」


 紫郎は小皿を置く。


「人を動かす理由は、ここでは問わない。問うのは残った痕だけだ」


 黒い微粉が少し。

 磁石を近づけると、粉がわずかに寄る。


「これは喫煙所の左手前で回収したフェロセリウム粉。港B、倉庫、分室で揃った。落ち方は同じ、左寄り。南条が“触る役”。そしてあなたが“秒”と“鍵”と“札”で触らせる役だった」


 紫郎はもう一枚、貸出簿の拡大を出す。


「保管室の合鍵。貸出簿に“広報立会い”の手書き。時刻は“20:12”、返却“20:17”。港Bの“20:14:21”と重なる。筆圧の溝は新しい。消しゴムのカスが残っていた。書き換えだ」


 天田が前に出る。

 声は落ち着いている。


「“焦るな”は、私も何度も助けられました。でも昨日の“焦るな”は違いました。『秒を渡す為』の“焦るな”でした」


「根拠は?」


「音です。無線の“焦るな”――三現場で録音。無音の間の長さが一致。決め手は“秒”。でも音も同じ人でした」


 佐伯は肩をすくめる。


「“可能性”で人を縛るのか。若いな」


「可能性では締めません。三つで締める」


 紫郎は黒いボードを指差し、ひとつずつ打った。


「“秒”。あなたが押した。

 “粉”。あなたが踏まない足で示した。

 “印”。あなたが同じ夜に箱を触らせた。


 この三つで一本の線。ここに“人”がいる。――あなたです」


 静寂。

 北条が手錠を取り出す。

 金属の小さな音。

 佐伯は逃げない。

 笑いもしない。

 ただ、目だけが若干細くなる。


「……焦るなよ」


 その言い方が、初めて“脅し”に聞こえた。

 天田は一歩も引かない。


「焦りません。記録します。全部、残します」


 北条が低く言う。


「佐伯浩一。建造物損壊幇助、証拠隠滅幇助、職権乱用の疑いで、同行願います」


 手錠がかかる。

 乾いた音。

 白い壁に薄く跳ね返る。


 梶谷は席を立たない。

 薄い笑みのまま、視線だけが泳ぐ。


「梶谷さん。あなたは指示を出した。村垣は実行した。“灰の部屋”の十本は、多人数に見せるための偽装。“木工の夜”では、K-12/31と記された封筒の紙、ロット統合/帳尻:鳳章の指示。川端祐介は、その“帳尻”に口を出した。――動機は、そこで足ります」


 梶谷の笑みが薄くなる。

 答えは出さない。

 だが、秒と紙がもう答えている。


 梶谷もまた連行されて行った。


ーーー


 夕方。常夜紫煙堂。

 湿度は五十六%のまま。

 瓶の唇は静かに囁き、秤の針は零。

 カウンターに、今日のファイルが積まれ、その一番上に天田の字で一行。


《秒・粉・印=一本の線》。


 紫郎は灰皿を指で回し、店の真ん中に置いた。

 灰皿の縁には、小さな傷。

 左側が深い。

 人はすぐには癖を変えない。


「まとめます」


「うん」


「“灰の部屋”は、村垣。“左で、灰皿なし、布の口紅、塩で広がり止め”。十本は二〜三口で点けて落とす繰り返し。銘柄違いに見せたけど、落ちる高さも、弧も、左ねじりも、一人分でした」


「そうだ」


「“木工の夜”は、物理的に殴った手はまだ出ていません。でも、K-12/31の紙、“口出ししたから”という村垣の供述、弦月サービスの動き、そして佐伯の“秒”。動機・段取り・隠蔽の線は出そろいました」


「名前は、必要な順に言えばいい」


「はい」


 天田は吸い殻の写真を指でたどる。

 活性炭の黒い粒。

 フィルターの小さな穴――ベンチレーションホール。

 巻紙のLIPリング。

 どれも“短く離れる”動きと噛み合っていた。


「紫郎さん。煙草の事を、ただの雑学だと思っていた時期がありました」


「雑学で終わる時もある。でも今日は違った。フェロセリウムの粉は磁石に寄る。ナフサの油は順番の最後に薄く残る。クレテックの丁子はオイゲノールで甘い痺れを置く。活性炭は匂いの角を丸めるが、匂いの並びは消えない。LIPのリングは“短い離脱”に合う。――道具は、全部、行動を語る」


「ああ」


 紫郎は小瓶の蓋を開け、綿棒で空気を撫でた。

 店の真ん中へ、薄い目印。

 誰にも見えないが、確かに“ここにある”。


 窓の外で風が向きを変え、通りの砂利が低く鳴る。

 砂利は靴を覚え、同じ靴は、またここを通る。

 名前が変わっても、癖は変わらない。

 秒は嘘をつかない。

 粉は嘘を隠せない。

 印は触れた事実を忘れない。


 紫郎は、灰皿に視線を落とし、ただ一言だけ置いた。


「煙は、嘘を吐かない」


「はい。煙は嘘を吐かない」


 瓶の列は何も言わずに迎える。

 湿度計は五十六%。

 秤は零。

 店は静かに呼吸を続けた。


 常夜紫煙堂事件録・了。

 けれど、煙は消えない。

 次の一行は、もう決まっている。




「煙は嘘を吐かない」

最後まで読んでいただきありがとうございます!

初めての推理ものなので、良くない点が多々あると思います。

難しい言い回しや、自分自身煙草を吸わないので

ネットからの情報ばかりで、信憑性がないかも。

おかしな点があれば感想などでいただければ嬉しいです!

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