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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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49/50

第四十九話 線になる日

 午前九時。アーケードの天窓から落ちる四角い光が、常夜紫煙堂のガラス戸をゆっくり横切った。

 湿度計は五十六%。

 瓶の列は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。

 カウンターには、地図を貼った黒いボード、UVライト、磁石、綿棒の袋、小瓶が三つ。

 紙の端には、太めの字で「秒・粉・印」と書いてある。

 秤の横に、薄い紙タグと細い結束糸。タグには小さく「J-18-31」と記してある。


「おはようございます、紫郎さん」


「おはよう、天田」


 天田芽衣子は制服。

 胸ポケットのペンは二本、向きも高さも揃っている。

 手には昨夜まとめたログの写しと、喫煙所の新しい配置図。


「まず、時刻の整理です。港Bの扉センサー“20:14:21”。協会第3倉庫の扉センサー“20:32:08”。白い軽バンの移動は“20:14:40”発、“20:31:33”着。距離の計算と合致します」


「よし。時間はアリバイになる。全部、記録して残そう」


「粉はフェロセリウムで一致。磁石にわずかに寄りました。喫煙所の灰皿の傷は左寄り。左利きの癖と合います」


「印は」


「取手の“二センチの位置”に入れたUVインクが、港Bの『廃棄』札の箱、協会第3倉庫の『返却』札の箱、どちらにも残存しました」


「いい。今日の材料は、この三つだ。秒と粉と印」


「それと、喫煙所の灰皿の下に小さな磁石を仕込みます。フェロセリウムの粉が左手前にわずかに集まりやすくなるはずです」


「やろう。粉の“落ち方”も癖になる」


 紫郎は小瓶の蓋を少し緩め、綿棒にごく薄く香りを含ませた。

 No.18の“試作31”。

 蜂蜜の影のような甘い匂いが、店の空気に目に見えない薄い膜を置いた。


「店にも薄い目印を残す。来るなら、ここを通る」


「はい。私は“声”も足しました。無線に入った『焦るな』の音声は三箇所で“間”がほぼ同じ。語尾の落とし方と拍の置き方が一致します」


「声は参考。決め手は“秒・粉・印”だ」


 鈴が一度、短く鳴いた。

 北条からの無線だ。


『港Bの警備ログに追加。20:14:16、管理室から内線転送。担当者名は空欄』


「時刻をボードへ」


 天田はボードにメモに残した。

 ――“20:14:16 内線転送(管理室→?)”。“20:14:21 扉センサー”。“20:14:40 発”。“20:31:33 着”。“20:32:08 扉センサー”。


「今日は“箱の足”にも仕込みます。コンタクトマイクを両面テープで一つ。運搬時の微振動から、台車の経路が逆算できます」


「秒と重ねれば、道になる」


ーーー


 港B。朝の潮が金属に薄く残り、フォークリフトの警告音が遠くで途切れた。

 脚の高い木箱が番号順に並ぶ。

 札は『返却』『資料』『廃棄』。

 箱は同じ堅木、同じ二重底。

 取手の裏、二センチにUVインクで薄い点。

 箱の足の裏に小型のコンタクトマイクを一つ貼る。

 磁石は喫煙所の灰皿の底へ入れた。


「ラベルの“見た目だけ元に戻した状態”は維持。中身は触らない」


「承知。タグ“J-18-31”は封筒側に」


 島倉が台車で目隠しを作り、視線を一瞬だけ正面へ向けさせた。

 舞台のアナウンスが遠くで鳴り、通路が緩む。

 その三十秒。

 作業着の男が滑り込む。

 南条。

 顔は下、動きは早い。

 左手で蝶番を押さえ、右手で角を支える。

 二重底は持ち上げない。

 滑らせる。

 封筒。

 入れ替え。

 戻す。

 座らせる。

 二十数秒。


 紫郎は追わない。

 天田は時計の秒と、コンタクトマイクの波形の立ち上がりを同時にトレースしてメモに残した。

 喫煙所では、Zippoが一度だけ鳴った。

 金属のカチン。

 火花の音は短い。

 灰皿の左手前に黒い粉が一粒、跳ねた。

 磁石のある縁に、すっと寄る。


「粉、回収。左手前。秒は20:14ちょうど台」


「よし。扉センサーまで五秒もない。線が詰まっている」


 灰皿の横に置かれた紙巻の吸い殻は、活性炭フィルターの帯が見える。

 巻紙には薄いリング。

 低出火性の“バンド紙”だ。

 置き忘れで燃え広がりにくい紙は、ゆっくり燃える。

 だから“十数秒で離れる”動きと相性がいい。


ーーー


 協会第3倉庫。

 扉の上のセンサー灯がかすかに滲む。

 取手裏“二センチ”のUVは淡く光り、触れた軌跡だけが線になって残った。

 喫煙所の灰皿は、左側の傷が深い。

 南条の指は、いつも同じ位置に火を落とす。

 粉は左へ寄る。


「粉→吸い殻→写真→時刻、の順でメモに残しました」


「南条は“触る役”で固まる」


 そこへ、眠たげだがよく通る声。


「まあまあ、焦るな」


 佐伯浩一。

 緩いネクタイ。

 足は粉を踏まない。

 視線は床を見ないのに、粉の粒を自然に避ける。


「小火の件は広報で整理した。現場は無理をするな」


「確認です。港B“20:14:16”の内線転送の直後、“20:14:21”に扉センサー。課長は、その頃に」


「そうかもしれん」


 佐伯は時計を見上げ、言葉の前に“間”を置いた。

 無線で聞いた“間”と、同じ長さ。


「焦るな。順番にやれ。俺は署に戻る」


 足音は粉を踏まずに消えた。


 天田は無言で頷き、視線だけで紫郎に問う。


「触らせる役がいる。鍵と内線と札を動かせる立場だ」


「……はい」


ーーー


 月乃台分室。

 通用口の小さなセンサーが虫の目のように光る。

 吸気口の格子には左ねじりの灰。

 短い点は“九”で止まる。

 十はない。

 机の上にはHBの鉛筆。

 軸に強い握り痕。

 書棚の伝票箱の側面には、消そうとした跡で『K-12/31』。

 ボードの隅に『焦らず丁寧に』の掲示。

 小さく『進行:青柳』。


「掲示の文言は合図になりやすい。けれど言い回しでは決めない」


「はい。秒・粉・印に“合うか”で見る」


 喫煙所から戻る通路の板は、足音が少し高い。

 コンタクトマイクを貼った箱が、台車で通る瞬間に小さく鳴った。

 波形のピークは“20:31:50”。

 倉庫の扉“20:32:08”と二十秒差。

 台車の距離と一致する。


ーーー


 夜。港の監視室。

 軽バンのドライブレコーダーから切り出された静止画に、運転席の影。

 フード。

 マスク。

 左手でホイールを撫でる癖。

 腕時計は右手首。

 灰皿の左手前に黒い粉。

 磁石にすっと寄る。


 紫郎は粉の小袋を二つ、黄銅の秤の前に置いた。

 灰皿由来の粉と、鍵屋で採った粉。

 どちらも磁石にわずかに寄る。

 粒の輝きは同じ。


「フェロセリウムは鉄と希土類が主。だから“少しだけ寄る”。黒い粉の置き方と寄り方は指の癖に出る」


「南条の“落とし方”は左前で固定。今日も変わりません」


「変えない所が、証拠になる」


ーーー


 常夜紫煙堂に戻ると、看板の紫が夜で濃くなっていた。

 カウンターに、今日の全部が並ぶ。

 紙、粉、写真、ログ、封筒、タグ“J-18-31”。

 ボードの地図には、黒い線が一本通り、三つの丸が同じ大きさで光る。

 端に、天田の丁寧な字で三つ。

 ――《秒》港B“20:14:16→20:14:21”、発“20:14:40”、倉庫“20:32:08”。

 ――《粉》喫煙所の黒粉=発火石由来、左手前に集積。

 ――《印》取手裏“二センチ”のUVライト反応。


「豆知識を二つだけ線に入れる」


 紫郎は吸い殻の巻紙をルーペで示した。


「一つ目。巻紙のリングは低出火性の帯。紙を部分的に厚くしたりフィラーを増やして、燃えを遅らせる。置いたら消えやすい」


「二つ目。活性炭フィルターは煙の一部を吸着して味を丸める。灰皿に残る帯の黒さと“軽い匂い残り”が一致する」


「葉の混合も“言い分”になります。BVTは火力乾燥で糖が多く、ORは香り、Burleyは低糖で香料が乗りやすい。港の指示書の略記は、その三系統」


「道具は嘘をつかない」


 天田は短くうなずき、ノートを閉じた。

 その表紙に、さらに小さく四つ記した。

 ――《鍵》《内線》《札》《左を避ける足》。


「明日、合同搬出です。人と箱が増えます」


「だから仕掛けも増やす。札は本物のまま。封筒の糊縁にNo.18“31”を極薄で置く。触れれば崩れ、“触れた順”が分かる。タグ“J-18-31”は封筒側にだけ。箱の足のコンタクトマイクは二点に増やす」


「喫煙所の灰皿は、磁石の位置を一センチだけずらします。左手の癖が強いほど、寄る位置が素直にずれます」


「北条はゲートとカメラの秒。杉谷は鍵袋の封印と貸出表。島倉は目隠しの角度を“十秒だけ”作る」


「はい。私は“声”をもう一度。『焦るな』の“間”を波形で並べます。三箇所の無線記録の無音区間を秒で比較」


「間に立てる人間は限られる。だが今は線で止める」


 紫郎は灰皿を中央に置き、No.18“31”のキャップをほんの少しだけ緩めた。

 香りの薄い目印が、店の真ん中に落ちる。

 見えないが、確かにある目印。


「天田」


「はい」


「明日、“名前”を言う。理由は三つ。秒。粉。印。――これで十分だ」


「分かりました。全部、記録して残しました」


「いい」


 鈴は、風もないのに、ごく小さく触れ合った。

 外の砂利は遠くで低い音を二度鳴らす。


「煙は、嘘を吐かない」


「ああ。煙は、嘘を吐かない」


 言葉は紫に沈み、波紋だけが静かに広がった。

 線は一本になりつつある。

 残るのは、その線の“間”に立つ名を、静かに置くことだけだ。

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