第四十七話 鍵と数字
午前の光が天窓で四角に切れて、常夜紫煙堂のガラス戸にゆっくり移った。
湿度計は五十六%。
瓶の列は口を結び、秤は皿を閉じ、針は零。
カウンターには今日の道具が並ぶ。封印シール、UVライト、薄い磁石、綿棒、コンタクトマイク、小型ICレコーダー、そしてNo.18“31”の小瓶。
紙の上には二本の鉛筆。HBと2B。
「おはよう、天田」
「おはようございます、紫郎さん」
天田芽衣子は制服。
胸ポケットのペンは二本、向きがそろっている。
手には今日の計画表。
「今日の目的は二つ。鍵のブランク(未加工キー)の流れを追う事。もう一つは『K-12/31』の書き手の癖を拾う事」
「港で削った形跡は出た。揺れと真鍮粉だ。買った場所と秒が出れば線になる」
「書き手は筆圧と数字の形を見ます。HBと2Bを使い分けて、斜光で凹みを拾います」
「結論は急がない。在った事実だけ記録する」
「はい」
鈴が短く鳴き、ふたりは店を出た。
ーー!
港から一本裏の通りに、金属シャッターの小さな鍵屋がある。
看板は「湊キーサービス」。
ガラス戸の内側に古いカタログ。U9、ディンプルキー、ドアクローザー。
作業台のキー複製機には、モーターと切削油の薄い匂い。
作業エプロンには金色の粉が点々と光る。
「おはようございます」
「警察の方かい」
「捜査一課の天田です。こちらは協力者の夜村さん。お話を伺います」
「なんの鍵だね」
「ブランクキーをまとめ買いした人を探しています。最近、現金で箱買い」
店主は帳面をめくり、指を止めた。
ページの端に黒い汚れが層になっている。
「これだ。先週金曜、午前十時台。五十本パックを二箱。現金。領収は『弦月サービス』宛名だけ」
「時刻は出ますか」
「古いレジだが、明細に時刻が残る。10:09:12」
天田は秒までメモに残した。
紫郎は作業台のブランクに目を落とす。
銀色と金色の素材が混じる。
袋の端に『#31』の印字。
「この『#31』は」
「形状番号。メーカーごとに違うが、この店では溝の形を番号で管理してる。港の倉庫の扉はだいたいこれで足りる。大量に出るのは『31』だ」
「数字がまた重なった」
「買った人の特徴は」
「若い。フードにマスク。背は高くない。箱は左手で持った。時計は右手首。電話が鳴って『はい、課長。焦らずやります』って言ってた。声は低めで、落としてる感じ」
「カメラはありますか」
「表に一台。画は粗いが見られる」
店主がアーカイブを出す。
フード、マスク、左手の箱、右手の時計。
肩幅と歩き方は、港で見た軽バンの影に似る。
「もう一つ。カウンターでZippoを触ってた。左手で弾く癖。黒い粉が落ちたままだ」
紫郎は薄い磁石を粉へ近づけた。
粉がわずかに寄った。
フリント粉だ。
Zippoは綿芯と煙突状のチムニー、穴付きの金属蓋で風に強く、ナフサ燃料を使う。
寒冷でも火が立ちやすいが、燃料臭が薄く残るのが癖だ。
「助かります。在ったと書ける」
ーーー
同じ頃、天田は文化連絡協会・月乃台分室へ。
表向きはスプリンクラーと避難経路の確認。
総務の男性が案内する。
事務室の白いボードには『返却/資料/廃棄』。
上に小さく消し跡。布でこすった薄い痕が残る。
「この消し跡、すみません。拭き残しですか」
「ああ、すぐ消します」
「いえ、こちらで確認します」
天田はUVライトを斜めに当てた。
凹みが影になり、小さな線が浮く。
『K-12/31』に似た筆順。
紙を当て、2Bでこすり出し。
凹みの形が紙に転写された。
「ボードに書いたのは、どなたですか」
「連絡係の黄瀬か、外部ディレクターの青柳。今日は倉庫の立会いです」
「この掲示の『焦らず丁寧に』は、いつからですか」
青い枠の安全掲示には小さく『進行:青柳』。
「昨日から」
「掲示は写真に。広報に回します」
机の上にHBの鉛筆が一本。
芯は短く、側面に歯形のような凹み。
強い握り癖がある手の跡。
封筒の『K』の角が深い筆圧と相性がよい。
天田は位置と向きを動かさず、斜光で撮った。
書類トレーの下の紙の圧痕にも『31』が小さく転がっていた。
ーーー
夕方、常夜紫煙堂。
湿度は五十六%のまま。
鍵屋の明細、カメラ静止画、フリント粉、こすり出し、掲示の写真、港のゲートログがカウンターに並ぶ。
北条がRFIDと駐車券の原データを置いた。
「時刻をそろえた。鍵屋の購入10:09:12。軽バン入場10:06:21。準備室入室10:07:10、退室10:08:02。車内のキー機は10:07:19に回り始め、10:08:41に止まってる」
「秒が一本になった」
島倉が袋を二つ並べる。
鍵屋の粉と喫煙所の粉。
どちらも磁石にわずかに寄った。
左手前に落ちる癖も一致。
紫郎は短く並べた。
一つ。鍵屋で『#31』のブランクを箱買い。10:09:12。左利き。右手の時計。『課長、焦らず』の通話。
二つ。港で可搬キーマシンが車内で動作。10:07:19→10:08:41。真鍮粉あり。
三つ。準備室の入退室は別人のカード。スキミングの可能性。
四つ。『K-12/31』は封筒、協会ボード、鳳章の箱で一致。
五つ。掲示の『焦らず丁寧に』は青柳印字。言い回しは一致するが筆跡は別。
六つ。『31』は鍵の形状番号、巻紙の記号、車のナンバーで重なる。
天田はノートに簡潔にメモに残した。
――鍵屋10:09:12/#31/左手前粉。
――港10:07:19→10:08:41。
――K-12/31=各所。
――『焦らず』掲示=青柳印字(筆跡は別)。
結論は書かない。積むだけ。
「次は何を押さえますか」
「ブランクの仕入れ元。箱底のロット。写真で戻してもらう。真鍮粉は科捜研へ。切削性黄銅(C3604)か、ニッケルシルバー(洋白)か、組成で分ける」
「了解」
「書き手は癖を比べる。『K』右上の跳ね、『1』の頭の出、2Bの止めが濃いか、HBで薄いか。封筒とボードで重ねる」
「青柳さんの付箋も取れました。『焦らず』『確認』『丁寧』。Kの角は浅く、1の頭は出ません。別の手です」
「掲示の言葉は借り物。言い回しだけで決めない」
天田は小さく息を整えた。
「鍵屋でZippoを左手で弾いたのも一致です。喫煙所の置き方どおり」
「左利きが重なる。合図は『焦らず』、数字は『31』。線は一本になる」
鈴が鳴く。
眠たげな声。
「順調そうだな」
「港の件、所轄に共有済み。焦るな。明日、鳳章と協会の合同搬出がある。顔を出せ」
「了解」
佐伯は短く消えた。
紫郎は天田を見た。
「言葉は響くが、言った人で決めない。在った事実を並べる」
「分かっています」
ーーー
夜、段取りを詰める。
混む場所ほど、秒と数字が活きる。
「明日の仕掛け。札は本物のまま。封筒にタイベックタグ。番号は『J-18-31』。二重底は滑らせるだけ。箱の足にコンタクトマイク。搬入口のガードレールにも一つ。音で時間を取る」
「鍵袋は封印を二重。内側にUVの細線。開ければ乱れます」
「匂いはNo.18“31”を糊縁にごく薄く。触れば崩れる。崩れた匂いを覚える」
「喫煙所は私が。粉と吸い殻は写真→回収→時刻の順でメモに残します」
「北条はゲートとカメラの秒。杉谷は目録の写しを先に回す。島倉は台車で目隠しを十秒」
「はい」
「最後に、鍵屋の『#31』のロット。底のシールを写真で」
「今夜、店主から届きます」
「分かった」
閉店前、写真が届いた。
箱底の白いシールに細い英数字。『LOT K—12 / 31-07』。
「『K-12』と『31』が同じ箱にあります」
「在った」
紫郎はボードに線を伸ばす。
鍵屋――ロット『K—12/31』――港の軽バン――協会と鳳章の箱――封筒『K-12/31』。
全てが同じ記号で結ばれた。
「明日はここに出る。合図は言葉じゃない。秒だ。秒で囲って、粉で押さえる」
「はい」
看板の紫が夜に向かって濃くなる。
店の空気は静かに落ち着き、鈴が細く揺れた。
「紫郎さん」
「うん」
「鍵と数字はそろいました。名前はまだ書きません。在った事実で踏みます」
「それでいい。煙は嘘を吐かない」
外の風は潮を少し濃くし、油を薄めた。
明日の風は音をよく運ぶ。
一分の中で、秒が輪郭を描くはずだ。
「行こうか」
「行きましょう、紫郎さん」
鈴が鳴り、扉が開く。
同じ歩幅で夜へ出る。
次の現場で、鍵は線になる。
『K-12/31』は合図のまま、動いた手を指す。
そして最後に、いつもの一言が落ちた。
「煙は、嘘を吐かない」




